かくて美女は苦しみと涙のもとに生まれ1
かくて美女は苦しみと涙のもとに生まれ1
マリアカリアにはセルマの意図が分かっていた。
セルマは弱い。リアル世界で正面から立ち向かったのならマリアカリアどころかどの精霊に対してもボロ負けであろう。しかし、精神世界では違う。長年、人の欲望を叶えては不幸のどん底に叩き込んできた彼女にとって精神世界はホームグラウンドに近い。しかも、相手を今回のように夢の世界に閉じ込めた場合、相手からの攻撃を一切受けずに無限に甚振ることができる……。
「大尉さん。ふざけるのもいい加減になさいな。
あなたは馬鹿なの?ご自分の置かれている状況が分かっていらっしゃるの?わたしを満足させない限り、あなたはその夢の世界から脱出できないのよ」
セルマの苛立ちに満ちた声を聞いてマリアカリアはニヤリと笑う。
「十分心得ているさ。わたしにはおまえを攻撃するすべがなく、おまえが安全な場所から高みの見物を洒落込んでいることも、おまえが好き放題、わたしを引っ張り回して無限に精神的苦痛を与えることが出来ることも、な。
よく考えられた作戦だと感心しているくらいさ」
「では、どうして余裕ぶっているのかしら?必死さが足りないわよ!」
「おかしなことを言う。なぜ、わたしがおまえを楽しませねばいけないのだ?それに、わたしはおまえの作戦には重大な欠点のあることに気づいている。わたしにはおまえを満足させる必要がない」
「欠点?そんなはずはないわ。虚勢を張るのもいい加減にしなさい!」
マリアカリアは赤い部屋のベットに寝そべりながらシガレットを吸い始めた。
「おまえは無限にわたしを甚振れると思い込んでいるらしいが、甚振ることができる時間はそう長くはない。
わたしは精霊防衛隊という組織の一員だ。部下には優秀なものが多い。上司のマルグリットも敵方であるおまえの活動をそういつまでも黙って見ているわけがない。つまり、まもなく外部から救援がやって来る。それに、セイジャクがいつまでもおまえのやりたい放題を見逃しているはずもない。いずれ介入してくる。
簡単に言えば、ここでだらだらとおまえと戯れあっているだけで、いずれわたしには勝利が舞い込んでくるというわけだ。
それに引き換え、おまえの勝利条件は途轍もなく高い。心して掛かることだな。フン」
セルマは辛辣なマリアカリアの指摘を受けてかえって目を意地悪く細めた。
「あら。なるほどね。そういうことなら、大尉さんの舐めた態度も理解できるわ。ご指摘どうもありがとう。
でも、大尉さん。塩を送ってくれたお返しが感謝の言葉だけでは足りないわね。どうやら御伽噺の世界では大尉さんには物足りないらしいから、お礼にもう少しハードな世界にご招待してあげるわ。わたしの少しばかりの心配りに感謝してくださいね。フフフ」
「急戦をするつもりか。フン」
マリアカリアが吸殻をポイ捨てすると、またしてもベットにぬめりと飲まれていった……。
* * * *
「公爵令嬢!侍女の自白から、君が男爵令嬢アグネスを殺害しようとして侍女に命じて階段から突き落とした事実が判明している!どう申し開きをする?」
細剣を佩いたキラキラした金髪の貴公子がマリアカリアに向かって厳しい弾劾を加える。
マリアカリアが周りを見回すと、15,6才くらいの着飾った男女がひしめいている。
「なるほど、なるほど。
わたしは悪役令嬢で、これはその破滅のシーンというわけか。場所は貴族学校の講堂といったところかな。
セルマもどうしてなかなかやるではないか」
壇上には、金髪の貴公子を含めた5人の少年と悪役令嬢の取り巻きらしい顔色の悪い2人の少女、それと、少し離れたところにブルネットのヒロインらしき美少女がいた。
「男女共学の貴族学校か。花嫁修業のための貴族の女子学校というのであれば分かるが、この手の設定はどうも無理がありすぎて理解できんなブツブツ」
「貴様!王子殿下の問いにも答えず何をわけのわからぬことをブツブツ呟いている!殿下を愚弄するつもりか!」
マリアカリアが悪役顔でニヤニヤ呟いた言葉を王子の側近らしき美少年が聞き咎める。
「おう。そうであったな。悪役令嬢がセリフを口にしないでは話が進まぬからな。悪かった」
側近の少年に謝ると、マリアカリアは態度を改める。
小腰をかがめて王子殿下に向かって優雅に一礼。
「王子殿下のご下問、謹んで返答仕ります」
不敵な悪役顔から一転してマリアカリアが高位貴族然とした雰囲気を醸し出すと、周囲に緊張が走る。
「わたくしには記憶がございません」
マリアカリアの一言に周囲が騒然となる。
「侍女の証言は捏造だというのか!」「ふてぶてしい!」「なんて面の皮が厚いのかしら!」「王子殿下に対して無礼千万な!」
「皆様。お静まりください。
わたくしは侍女に男爵令嬢の密殺を命じたことの否定も肯定もしておりませんのよ。ただ、そのことについて記憶がないと申し上げているのです」
「おお。なんという……」「あきれましたわ」
さらに騒然となる周囲を王子殿下が手で静まらせる。
「公爵令嬢。では、君は侍女に命じたことの否定はしないんだな。
(君の主張は)疑いは認めるが、真実である証拠が足りないということなのかな?」
王子が訝しげに質問をする。
「いいえ。殿下。
わたくしは命じたかもしれないが命じなかったかもしれない、記憶がないので分からないと申し上げているのでございます。本当に記憶がございませんので、これ以上のことはわたくしの口からは申し上げることができませんわ。
ただ……。
あえて言わしていただけますのなら、侍女に密殺を命じるなどということはわたくしには到底似つかわしくない、とだけは断言できますわね。
そうですわねえ……」
マリアカリアがやや困った顔で周囲を見回してからピタリと先ほど叱責した美少年に視線を向ける。
「そこの側近のあなた。そう。あなたよ。
わたくしにメダルか硬貨、固い金属片一枚、貸していただけないこと?」
「お、俺?なんで??」
最初は拒否したが、何をしだすか興味を持った王子の目配せを受けて困り顔の騎士団団長の次男アウグスト子爵がしぶしぶ銀貨一枚をマリアカリアに手渡す。
「ありがとう」
マリアカリアは手渡された硬貨を周りに見えるように掲げると、そのまま2本の指でグシャリと折れ曲げた。
「エエ!!」
周囲の驚きをよそにマリアカリアは今度は軽くスナップを効かせて折り曲げた硬貨をピシリと飛ばす。すると、硬貨は壇上から遠く離れた花瓶を貫通して壁に深くめり込んだ。
「工エエェ!!!」
「お恥ずかしいところをお見せいたしました。
このようにわたくしの膂力は常人の数倍はございます。女の細首など軽く片手でゴキリと折ることなど容易いこと。そんなわたくしがなんで素人の侍女を使って階段から突き落とすなどという相手が死ぬかどうかわからぬ不確実な手段を取る必要がございますのでしょうか?あえて密殺するというのなら、わたくしの場合、暗闇で小石でも拾って弾いてやれば足りること。オホホホ。
それに、階段から突き落とすなどというはしたない庶民的なやり方は公爵家には似つかわしくはございませんわ。公爵家の格というものを考えれば、普通、二人ばかりプロの暗殺者を雇い、深夜、寝静まった頃を見計らって寝室に忍び込み、声を立てさせぬよう顔に枕を押し付けた上、短剣でグサリ、グサリというのがふさわしいというものでございます。
証拠は一切残さず、されど家紋に似た花びらなどをまいて公爵家の機嫌を損ねたからこういう末路を遂げたのだという印象を残す。見せしめによる恫喝を伴わないようなやり方は公爵家には似つかわしくはございませんの。オホホホホ」
長扇子で口元を隠しながら高笑いをするマリアカリアに周囲はドン引きである。
「殿下?」
「な、なんだ」
目を細めながら危険な眼光を放つマリアカリアに王子はもはや腰が引けてしまっている。
「不敬を覚悟でひとつ、お聞かせ頂きたいことがございます」
「も、申せ」
びくつく王子に対してマリアカリアが肉食獣を思わせるような素振りでニヤリと笑う。
「殿下のお覚悟はいかほどのものだったのでございましょうか?」
「なに?」
「わたくしはいやしくも貴族の子女。貴族の子女を裁くにはそれなりの手続きと権限を持った方々のお集まりが必要のはず。この場の皆様には誰ひとりとしてわたくしを裁く権限を持ち合わせていないのですから証拠云々はもはや論外と申せましょう。
満座の中で公爵令嬢ともあろうものが殺害をそそのかしたなどとの疑いをかけられることには耐え難きものがございます。ですが、王子殿下のご下問であり、先程はあえて忍んで『記憶にございません』と申し上げたのでございます」
「?!」
王子や壇上にいるその他のものにはマリアカリアの言っている意味がよく理解できなかったようであるが、周りの少数の聡い人間は気づいてしまい、顔を青ざめさせた。
「まだご理解いただけませんか?殿下!」
マリアカリアはため息をつくふりをする。
「証拠があろうがなかろうが、正式な裁判の場でもないのに満座の中で疑いをかけて公爵家の一員に恥をかかすということは貴族の特権と矜持を踏みにじるというもの。先程からの殿下のお振る舞いは公爵家ばかりか門閥貴族全体を敵に回したということでございます。王家と高位貴族全体とが衝突する切欠をお作りになったと申し上げても過言ではございません。
そもそもこの度の弾劾は王家の意思を代表してなされたものでございましょうか?それとも殿下の個人的な意思からなされたものでございましょうか?もし仮に殿下個人の発案からなされたものというのであれば、それは国政に無用な混乱を及ぼす軽挙。必ずや責任問題に発展することでございましょう。落としどころとしては、もっとも穏便に計らっても側近の方々4名の自決と殿下自身の病気療養の名を借りた謹慎あたり。もちろん王太子の資格は剥奪のうえでのことでございましょう。
わたくしは王子殿下にこのような重大事を引き起こした責任をおとりにあそばせる覚悟で臨んだのですか、とお尋ねしているのでございます。
また、そのような責任は取らずにあくまで男爵令嬢との婚約を強行したいとのお考えでございましたならば、殿下は王家と貴族社会全体に反逆してクーデターを起こすほかはございません。その場合には、王子殿下にあらされましてはたかが男爵家の小娘一人を娶るために国家全体を敵に回すお覚悟であったということにおなりになられますね?
ここには年若いとはいえ、紳士淑女の皆様がいらっしゃいます。彼らが証人です。さあ、殿下がどのようなお覚悟であったのか、皆様の前でお示しくださいな。殿下」
王子はようやく自分のしでかした重大さに気づいて顔色を失い、冷や汗を滴らせた。
「き、き」
「き?」
「記憶にございません」
「「おい!!」」
「くっ!そ、それでは正義はどうなるのだ!さんざん悪行を重ねているくせに君は、君は貴族の特権を傘に罰を免れる気か!この毒婦めが!」
「『悪行』?『毒婦』?
質問にお答えいただけなかった上に更なる侮辱。軽挙がお過ぎになられますわ。殿下。
ついでに申し上げれば、殿下の正義云々というのは道徳律の問題でございますわよね。わたくしがこれまで申し上げたのはすべて貴族社会のパワー・ポリティクスのお話でございます。殿下には少々難しすぎてご理解できなかったかもしれませんが、正義を問われるのであれば正式の手続きを踏み、裁判の場でわたくしを弾劾すべきでございましたわね。
もっとも、仮に裁判が開かれたとして、その場合、わたくしも自分の権利を擁護する必要がございますから弾劾なさった方々を誣告の罪で告発申し上げねばならないでしょうね」
「なにっ!君が男爵令嬢にしたことの疑いはすべて虚偽だと言うのか!」
「殿下。わたくしはその話題はこの場ではふさわしくないと何度も申し上げておりますのよ。この場では、わたくしは『記憶にございません』としか申し上げられませんわ。
そうそう。
皆様方も先ほどからわたくしが男爵令嬢に様々な『悪行』をしたかどうかについて興味津々のご様子でしたわね。お知りになりたければ、正式な手続きを踏んでどうぞ裁判をお開きになってくださいな。それがどんな結果を招いてもいいとお思いになるのならば、ご自由に。フフフ。
さて。茶番も幕引きということで、わたくしはそろそろ退出させていただきますわね。殿下。
皆様もご機嫌よう」
一堂の重苦しい沈黙の中、先程まで顔色を白くしたり赤くしたり忙しかった取り巻き二人に合図してマリアカリアは静々と壇上を降り、戸口へと向かう。
パタリ
可憐な美少女、男爵令嬢アグネスが意識を失い崩れるようにその場に倒れ伏した。
「アグネス!アグネス!くっ。毒婦めが!決してこのままでは済まさんぞ!」
未だに何が起こったのか理解できていない大司教の甥(実際は大司教の隠し子)、プラシド伯爵だけはマリアカリアの後ろ姿に歯ぎしりをしたが、ことが終わったことを悟った残りの4人の貴公子たちは力なく項垂れた。
閉められた戸口の扉のあとには頭の取れた一輪のカメリアが残されていたという……。
王宮官房秘史に残されているこの事件の結末は悲惨なものであった。
事件の内容が内外に知れ渡ると王家の権威が失墜し諸外国からの軽侮を受けると危惧した枢密院は急遽、関係者全員に箝口令を敷いた。事件の処理は、公爵令嬢の見立て通り、王子は王太子の資格剥奪のうえ長期の病気療養を名目に辺境の地へ追放。4人の王子の側近たちはひとり残らず自決を強いられ、事件の原因であった男爵令嬢は人知れず行方不明となった(後世の歴史家たちは暗殺または自殺を強要されたのだと推測している)。そして、当然のように王子と公爵令嬢との婚約は破棄され、新たに王太子の資格を得た第2王子と公爵令嬢との婚約が結ばれた。
ときに王国歴879年3月10日のことである。
この事件を切欠として公爵家の派閥は勢いを増し、遂には30年の長期にわたって国政を壟断することになる……。
* * * *
「『……後世の歴史家たちはこの事件にその後有名になる公爵令嬢の悪辣な権謀術数ぶりの片鱗がすでに見えると評したという。
王国の雌山猫と呼ばれた悪役タングステン公爵令嬢物語抜粋』
……勝手に、勝手に話作ってんじゃねえわよ。マリアカリア・ボスコーノ!いい加減にしろ!」
赤い部屋で余裕を失ったセルマの叫びが木霊したのは言うまでもない……。




