北へ北へ1
北へ北へ!
セルマの術が解けて元の姿に戻った時、ペーラ・アンナは決心した。
あいつを殺してやる!
公女クリスティーネのぶかぶかの衣装のまま、大騒ぎの公館を尻目に裸足でペーラ・アンナは走り出た。果物ナイフを隠し持って。
通りで遊んでいる小さな子供たちの好奇の目も、通りを行く男たちのいぶかし気な眼差しも彼女は気にならない。
マルガレーテの住む屋敷に向かって一心に走る。
いくつもの通りを走破すると、やがてラインハウゼン家の壮大な本宅が見えてきた。
日頃からマルガレーテの動向を探っていたペーラ・アンナにとってその屋敷への侵入は自分の家へ忍び込むくらい容易なことである。
一部低くなっているレンガ造りの塀をよじ登ると、塀の上を歩いて張り出している庭木の枝を伝い、塀の中に侵入した。
近くに馬小屋があり、干し草と厩舎特有の臭いがする。
ペーラ・アンナは馬たちの様子からマルガレーテが出かけていないことを確認すると、ガラス張りの温室から屋敷内へと忍び込む。目指すは、日頃からマルガレーテの寛ぐ私室である。
だが、廊下の角を曲がったところで、さしもの気の立っていた彼女も冷や水をぶっかけられたような思いをする。
廊下には何人もの小間使いやら従僕やらがいたが、みな目を見開いたまま金縛りにかかって立っていたのだ。
「何なの!?これ」
用心しつつペーラ・アンナがマルガレーテの私室のドアを開けてみると、さらに意外な光景に出くわした。
あの氷のようなマルガレーテが床に突っ伏して泣きくずれていたのだ!
マルガレーテの横にはセルマと見知らぬ背の高い東洋の尼僧が佇んでいた。
「やはり愛とは一方的なものではございませぬ。相手の身となり、行動することこそ肝要ではございますまいか?」
静寂尼が静かに語りかけている。
「マルガレーテ殿はルドルフ殿を独占せんがため刺客を御放ちになられた。仏の道には人の善悪の基準はございませぬが、ルドルフ殿の立場からすれば、これは許しがたいこと」
「……ルドルフは、ルドルフはもうわたくしを愛してくれないの?こんなにもわたくしが想っているのに」
横で見ているセルマが嘲りの笑いを浮かべてマルガレーテを皮肉る。
「そうよねえ。そんなにも想っているのに報われないとは残念ね。フフ。
結局、自分本位の女には偉い尼様のご高説も無意味ね。さっきからセイジャクの言っていることをぜんぜん理解していないわ。この女。
こういうのを『馬の耳に念仏』っていうのかしら。救われないわねえ。
まだ理解できないようだから、頭の悪いだれかさんにも分かるように教えてあげるわね。わたし、親切だから。
つまり、独り善がりな女はどんな男にも嫌われるってこと。分かる。お馬鹿さん。
さっきも言ったけど、ルドルフに振られることくらいであなたの不幸は終わらないわよ。わたしが念入りに不幸でみじめったらしい身にしてあげる。手始めに、まずは浮気が世間にバレて社交界からの追放。次にアルフレードから離縁。そして、実家にも戻れなくて経済的にも困窮する、っていうのはどうかしら。
今までさんざん冷たくあしらっていた男たちからは軽蔑と嫌悪の目で見られて、どこへ行っても悪罵がつきまとう。
なんかいろいろ立身出世を企んでいたようだけど全部オジャン。
ついでに病気もつけてあげようかしら。人がそばに寄るのも厭う業病なんか、どう?あなた、自分の興味のある人間以外そばに寄られるのを大層嫌っていたんだから、ちょうどいいじゃない。向こうから避けてくれるしね。フフフ」
セルマの嘲りを聞いてペーラ・アンナは身震いした。
これはひと思いに殺すよりも悪い。悪辣すぎる!
自分の身にも降りかかることを想像しただけでアンナ・ペーラは震えが止まらなくなった。彼女はやはりセルマは関わってはいけない存在であることを確信する。
しかし、ペーラ・アンナの不安は杞憂というものだ。
ここにはすでに究極の正義の味方である静寂尼がいる。
「セルマ殿。わたくしがそのようなことを見過ごすとでも御思いか?
わたくしとの約束を破られたセルマ殿にそのような自由はございませぬ」
「ひどいわ、セイジャク。
ちょっと邪魔な犬コロ一匹始末しただけじゃないの。そんなに目くじら立てるほどのこと、ないじゃない!」
「セルマ殿はわたくしに不殺の誓いを立てられた。これは仏の教えに叶うことなれば、わたくしもセルマ殿のそれ以外の行動になんの掣肘も加えぬとお約束いたしました。この世はすべて因果律によって支配されておりますれば、セルマ殿がいかな術をお使いになられて人々を不幸に陥れようとも、それは受け入れた相手方が目先の欲にくらんで自身が不幸になる因果の流れを作ったがため。セルマ殿が咎められることではございますまい。
したが、セルマ殿自身が直接人を殺めたとなれば話は違ってまいりまする。わたくしから掣肘を加えられる因果の流れをご施主自身がおつくりになったのですから」
「チッ。
じゃあ、わたしのこのうっぷんはどうして晴らせばいいの?この女を不幸にはできないわけ?」
「すべては因果律でございます。
マルガレーテ殿のなされたことはすべてご自身の身に跳ね返ってくるもの。なおさら不幸にする必要などどこにもございませぬ」
「……」
セルマは静寂尼を忌々しそうに目ねつける。
力関係では静寂尼の方がはるかに上であるから、さしものセルマも黙らざるを得ない。
カチャン
ドアの隙から覗いていたアンナ・ペーラが片手に持っていた果物ナイフを取り落とした。
「善哉、善哉」
とっくにアンナ・ペーラの存在に気が付いていた静寂尼がニコリとする。
「よくぞ踏みとどまれた。ご施主はもとより優しきお人柄。人を傷つけてご自身を不幸に陥れるようなことは似合いませぬ」
「わたし。わたし……」
「それでよいのです」
静寂尼がペーラ・アンナに向かって何も言う必要がないと頷いた。
このように静寂尼がペーラ・アンナに微笑みかけていると、突然、泣き崩れていたマルガレーテが涙を拭いて起き上がり、静寂尼に向かって宣言した。
「わたくし、北へ参ります。行ってもう一度ルドルフの心を取り戻してみせますわ!」
「懲りない女!あんたがルドルフの傍にいてはルドルフが不幸になるのよ!まだ分からないの!」
ペーラ・アンナが激しく抗議するが、マルガレーテは気にも留めない。
「わたくし、支度がございますから、皆様、どうかお引き取りになって。
今回の無礼はわたくしにルドルフと会うことを気づかせてくれた功績に免じて水に流して差し上げますわ」
「度し難い女ね。ここまでくると笑えてくるわ。アハハハ。
わたしとしては別にどうでもいいけどね。行って狼神の餌食になるのも一興だわ」
セルマが再び嘲りの笑いを浮かべる。
「では、わたくしも北へ参りましょう。そろそろ愚かな弟子をジークフリート殿たちへお引渡ししてもいい頃合いですから」
静寂尼が誰にもわからない独り言を呟く。
「わたしも行きたい。でも、なんだか怖いからあなたに付いて行っていい?見知らぬ女の人だけど、あなたは信頼できそうだから」
「いいですよ。ルドルフ殿に会って思いのたけをすべてお話しなさい。ご施主には必要なことですから」
若い女性が二人、北へ行っても何ら危険がないと静寂尼は確信していた。彼女はセルマの企みが挫かれるようすでに手を打っていたのだ……。
* * * *
「術が解けて娘が元の姿に戻ったというのなら、わしらがついて行く必要などないと思う。それよりも一刻も早く連邦の首都へ戻って娘の顔を見たいのだが」
「薄情な。それでも勇名を謳われた騎兵将校か!か弱い女二人が狼神の巣へ向かおうとしているのだぞ。身を挺して守ろうとするのが男というものだろうが!」
「……」
同じ頃、北の港町ではマリアカリアが及び腰の大佐たちをなじり倒していた。
「カールは行ってくれるよな?喜んで」
「行く。だが、条件がある」
「なんだ?」
「人前で話せるものではない。あとで部屋で言う」
「……まあいいか。
この前みたいのではなくて、本当に甘い話であればいいのだが。ブツブツ」
なぜか急にマリアカリアが愚痴をこぼし始めた。
「皆さん、なにをビビっていらっしゃるわけ?この美人で天才で超大魔女がついているのよ。狼神の百匹や千匹くらい朝飯前よ。安心してついていらっしゃいな!」
「おまえのその自信が一番不安だよ。三流魔女」
「わたしはね。あんたの精霊3匹分のエネルギーさえあればこの世に怖いものなどないわ。今だったらたとえセイジャクが十人がかりでやって来たって負ける気がしない」
啖呵を切る三流魔女に向かってマリアカリアが胡散臭そうにする。
「なによ。わたしの言うことが信じられないの!」
「おっ。そのセイジャクがおまえのすぐ後ろにいるぞ!」
「キャッ!すみませんすみません。なま言ってすみません。調子こきました。謝りますからあのお仕置きだけはご勘弁して!ナムアミダブツナムアミダブツ……」
よほどひどい目にあわされたのだろう。見えない影におびえてアリステッドがしきりに謝り倒す。
「まあ、おまえの自信もその程度のものであると最初から分かっていたよ。三流魔女」
冗談を言ったマリアカリアがため息を漏らす。
「結局、頼りになるのは自分だけか」
北の大地では今から世紀の狼盗伐がマリアカリアという凶暴な女によってなされようとしていた……。




