王女、受難6
王女、受難6
「助けてくれてどうもありがとうございます」
かなりぞんざいに扱われたものの、命を助けられたのは事実だったので、公女クリスティーネは少年に丁寧に礼を述べた。
「ふん。別にィ。
女の人からの礼なんてどうでもいいよ。僕、そんなもの、もらったって嬉しくとも何ともないから。
それより君。助かったんだからもう用はないよね。はやくどっか行っちゃってくれないかな。雌豚のにおいというのはどうも我慢できない質なんだ。僕は」
少年のあまりの言葉に公女は固まってしまった。
温室育ちの公女にこの言葉は少々刺激が強すぎたようだ。
「少年よ。助けられて言うのもなんだが、少しばかり無礼ではないのか。
こちらのお方はさるやんごとなき姫君なんだぞ!」
固まった公女の代わりにカールが叱責を飛ばす。
「はいはい。この雌豚は公女クリスティーネ殿下で、しかも現在、セルマとかいう青い服の女によってペーラ・アンナとかいう田舎貴族の小娘と肉体を入れ替えられているというのだろう。
そして、おじさんはカールなんとかという公女の側近で、この雌豚を幼い時から面倒をみているとか。
馬に乗っけてあげたり、オムツの面倒までみてたんだって。ゴクロウナコトで」
「!?」
「あらら。驚いちゃった?
僕はねえ。耳がいいから、流氷の上で君たちの話していたことは全部聞こえているんだよね。
でも、公女さまだか何だか知らないけど、だからといって僕がその雌豚を敬わなければならない理由にはならないんだよ。なんたって僕は女は嫌いなんだからさあ」
「はあ!?」
呆気にとられた二人に対し少年はさらにこんなことまで言い出した。
「礼の言葉なんてどうでもいいからさあ。少し血を分けてくれないかな。70年ぶりに起きたところでさあ。おなかが空いているんだよね。
なに。僕は大食らいではないし、美食家だからほんの20滴ほどあればいい。
やってあげたことからしたらそれくらいなこと、喜んでしてくれるよね。カールなんとかさん?
念のために言っとくけど、欲しいのは君の血だよ。公女なんとかという雌豚の血なんて僕は要らない」
こうして奇妙な少年は食事のためと称してカールを無理やり連れ去ってしまい、公女クリスティーネは見知らぬ異国の港町の路上に一人取り残されることになった……。
* * * *
「わたくしもおなかが空いたわ。どこかで食事をとらなくては」
少年が女性の自分ではなくカールを誘拐してしまったため路上で一人きりとなった公女クリスティーネの呟きがこれである。
カールが聞けば嘆くであろうが、あたりの人家から夕飯のいい香りが漂ってきたのだから仕方がない。流氷の上では何も口にしていなかったし、今のペーラ・アンナの体ではとにかくおなかがよく空くのである。ペーラ・アンナの肉体は頑強で流氷の上で長時間寒風に吹き晒しにされてもどうということはないが、かなり燃費が悪いのである。
それに、保護を求めて連邦の領事館を探したとしても今の時刻では閉まっているであろう。
まずは食事。考えるのはそれから。
カールなら心配いらないわ。なんとなくだけど……。
公女クリスティーネはそう決めてメリメの街の中心部へと向かった。
今はもう分割されて地図の上から消滅してしまった国に統治されていた名残で、メリメの街には木材をふんだんに使った建物が多く、エキセントリックだがやわらかい雰囲気がある。
そのしゃれた雰囲気の港町を公女クリスティーネは解放感からかなんとなくウキウキとした気分で歩き始めた。
周りに側近はおらず、公女としての役目もペーラ・アンナとしての自覚もない今のクリスティーネは異国の港町をさまよい歩くただのクリスティーネなのだ。こんなにも自由な感覚は子供の頃以来だろう。彼女は今の自分なら何でもできる気がした。
* * * *
「ソラマメと新玉葱のクリームスープ。
鰈と春キャベツのソテー。
栄螺のニンニクとパセリを煉り込んだバター焼き。
白アスパラガスのオレンジソース添え。
サラミウンゲレーゼ。
スパークリンクワイン1瓶。
コーヒーのお代わり2杯。
合計で7ルーブル50コペイカとなります」
給仕がメモ書きを読み上げ、その横には黒ネクタイにタキシードを着込んだ支配人が厳めしい顔で立っている。彼はこの緑の目をした少女が食い逃げするのではと考えて非常に不機嫌なのである。
「あら、そう。
メニューにバニラ・アイスがあったから、それも頂こうかしら」
「君ねえ。
連れが来るからと言ったから安心して料理を出したんだが、その連れが一向に来ないではないか。どうなっているんだい?」
この時代、夜、女性が同伴者なしに一人で料理店に訪れることなどあり得ない。支配人の疑問はもっともである。普通であるならば。
「そうね。遅いわね。いつもだと、もう来てもいいころなんだけど。猟犬みたいに嗅ぎつけて。
カールらしくないわね。初めての土地だし、こういうこともあるのかも。
それはそうとして、バニラ・アイスにはブランデーを垂らしてね」
「……」
「ミントは添えなくてもいいわよ」
「……バニラ・アイスが食べたいのなら先に今までの代金を支払ってくれないか。
置かれている立場がよく分かっていないようだからはっきり言わせてもらうが、今、君には無銭飲食の疑いがかかっている。この店では警察を呼ぶようなことはしないが、君らのような輩に甘い顔もしない。代金の額まできっちりと店で下働きをしてもらうことになっている。
今までの料理代でもかなり長期間の滞在になるのにさらにバニラ・アイス代まで上乗せする気かね?君」
「それは困るわね。明日は領事館へ行かなければならないし、今夜から泊まるホテルも探さなければならないし。
それはそうと、ここのアイスクリームには新大陸風のアイス・サンデーはないの?」
「君も困るだろうが、わたしも困っている。
さっきから言っているようにそんなにアイスクリームが食べたいんなら先に代金を払ってくれよ。
こんな会話にはもううんざりだ。相手が少女だからといってこちらがいつまでも甘い顔をしていると思っているのなら大間違いだぞ」
「あら。怒っていらっしゃるの。
わたくし、何も悪いことをした覚えはないんだけれども」
「無銭飲食は料理店にとっては極悪非道の行いだぞ!」
「ああ。お金のことね。
いいわ。お支払いするわ。
でも、わたくし、今はマルクしか持ち合わせがないんだけれどもいいかしら?ちょっとした事故にあって(旅行の)準備をする間がなかったものだから」
「ここは国際的な港町。ルーブルでなくてクローネでもフランでもズロチでももちろんマルクでも通用するよ。ドルだって通用する。
さあ。言い訳はいいから払ってくれ」
支配人にそう言われて公女クリスティーネはニコリとする。
「そうなの。安心したわ。
じゃあ、これでお願い。ちょっと大きな額のお札しか持ち合わせがないけど」
公女はセルマからもらった財布の中の札束から一枚の紙幣を取り出して差し出した。
「!?」
支配人は差し出された紙幣を二度見して目をつむった。
「い、1万マルク紙幣(邦貨で約1000万円)!!」
「そう。いま、その額の紙幣しか持ち合わせがなくって。
(額が)大きすぎたかしら。ごめんなさいね。
でも、これで小銭にくずせるから次からは安心ね」
「ま、待ってください。少しの間だけ。どうか。お客様」
傍の給仕は口をあんぐりと開けている。支配人の顔からは汗が噴き出した。
「構わないわ。
バニラ・アイスでも食べて待っているから」
公女クリスティーネは肩をすくめてニコリとする。
支配人の公女クリスティーネに対する評価が無銭飲食をする唾棄すべき貧乏少女から跪くべき億万長者の美少女に変化したのは言うまでもない。
しばらくして公女クリスティーネの前には店のサービスという麗々しく飾られた超豪華版のバニラ・アイスが供された。もちろん金のスプーンつきで。




