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王女、受難5

 王女、受難5


 カールとペーラ・アンナの状況は最悪であった。


 夕方から風が出てきてしまい、川面が揺れて無数の流氷が大きく上下する。それだけでも流氷の上にいるのが難しいのに、風がますます冷たく吹き荒れ、寒さとともに波しぶきまで二人に浴びせかけては困難を強いる。


「キャア!」

 流氷同士がぶつかったせいでペーラ・アンナが体勢を崩して流氷から転げ落ちそうになる。


 つっと抱き留めたカールはペーラ・アンナの緑の目に涙が浮かんでいるのを見て……。


「祈るならば、今でしょうね。ペーラ・アンナ嬢。

 もっとも、罰当たりなわたしでは祈ったところで神様も手を貸してはくれないでしょうがね。アハハハ」

「カール……。

 貴男だけなら鉄橋の橋脚にしがみつけたのに。わたくしなど見捨てればよかったのに」

「これがわたしの勤めですからお気遣いなく。

 どこまでもご一緒しますよ。たとえ地獄までであっても。公女……いや、ペーラ・アンナ嬢。

 むしろわたしは喜んでいるのです。最後にこんな役目につけるなんてわたしはやはり運がいい。公女殿下の騎士を自任している弟には悪いですがね」

「なんのことを言っているの?カール」

「うーん。最期かもしれないので、バラしておきましょうか。

 よくお聞きください。

 貴女様は本当は公女クリスティーネ殿下なのですよ。セルマとかいう青い服の女が妖しい術を使って貴女様とプスタ平原の田舎貴族の娘とを入れ替えてしまったのです。

 にわかに信じられない、まるでおとぎ話のような話ですが、わたしはそう確信しておりますよ。

 貴女様がもし本当にペーラ・アンナ嬢のままであるならば、わたしのことを『カール』などと気安く呼び捨てにはしないはずですから」


 この世で憲兵少佐のことを『カール』と呼び捨てにできるのは、父母と最近に親しくなったマリアカリアを除いて公女殿下しかいないのである。

 それに、公女殿下の幼いころから御側に仕えてその人柄、雰囲気を熟知しているカールにしてみれば、今のペーラ・アンナ嬢こそが公女殿下そのものでしかありえない。


「……わたくしは。わたくしは。

 いいえ。覚えていないわ。そんな記憶はないわ」

「セルマがなぜか貴女様……いや、公女殿下の御記憶だけを消しまったからですよ。

 本物のペーラ・アンナ嬢の方には記憶が残っておりまして、彼女の公館での無軌道ぶりにはいやはや苦労しました。彼女は人柄はいいんですがね。ただ、育ちが少々……」


 波に揺れる流氷の上でカールは抱き留めた公女殿下に向かってニコリとした。

 だが、しばらく考え込んでいた公女がモゾモゾとする。


「カール。

 わたくしが公女であろうとペーラ・アンナであろうと、ちょっとこの体勢は……。

 恥ずかしいわ。離れて」


 公女は手でカールの胸を押すが、カールは放そうとしない。


「いいえ。放してしまえば、公女殿下がまた流氷から落ちかねません」

「幼い子供ではないんだから、そんなことはありません。

 万事、控えめだったカールらしくもない。大胆な。カールこそフランツと入れ替わってしまったの!」

「いやらしい気持ちからしているんではないのですよ。公女殿下。

 わたしにはもう意中の人がおりますゆえ。わたしは頭の中がピンクの愚弟とは違うのです。

 (公女殿下を抱きかかえることは)わたしにはただ懐かしい。

 お小さいころの公女殿下をよくこういうふうにして馬に乗せて差し上げましたっけ。あるいは、『おしっこ!』と叫ばれた公女殿下を抱えておろおろしたり。フフフフ。

 もう少しこのままでいさせてくださいませんか。殿下。

 風のせいで少々寒いですし」


 楽し気に追憶にふけっているカールに反して、先ほど自分の口からとっさに『フランツ』の名前が飛び出した公女クリスティーネはハッとした。


 フランツ……。

 それは、わたくしの恋人の名前。

 なのに、今まで一度も口にしたことがなかったわ。どうして……。


 熱病で倒れてからフランツと一度も会っていなかった公女殿下が今、セルマに消されたはずの記憶を取り戻す。


 そう。わたくしはたしかにブレスラウ公国の公女クリスティーネ・フォン・シュタイアーマルクだわ。

 思い出した。あの時、青い服の女性に無理やり肉体を交換させられたのだわ……。




 しばらく抱きしめられたままであった公女が突然、立ち上がる。


「カール。お退きなさい。

 あのひとでなしが言っていたロープが見えてきましたわよ。

 わたくしはこんなところで死ぬつもりはありません。フランツに会うまでは死んでも死に切れませんもの!」

「わたしにお任せください。公女殿下。

 もとよりこの身に代えても公女殿下だけはお救い申す覚悟でございます」


 ふたりの目前には、灰色の空と無数の流氷を乗せて激しく波打つ川面との狭間にビュンビュンと風に揺らされ続けている二本のロープがその姿を見せた。


 そこは凍結時には河を横切る道路になっていたのだろう。一本のロープには、ところどころ赤と黄色の布が垂れてパタパタとはためいていた。

 そして、もう一本のロープには救助のための鈎つきの滑車が10ほどぶら下がっている。


「いいですか。

 これから手近い鈎つきの滑車まで流氷の上を渡っていきます。わたしが鈎をつかんだら、その鈎に足を掛けるようにして掴まってください。下からわたしが押し上げますから。

 たぶん、(押し上げている間に)わたしは少しばかり流されてしまいますが、戻ってロープに直にぶら下がります。

 殿下はそのままじっとしていてください。わたしがロープに両足をかけ仰向けの姿勢でロープを手繰って頭で殿下の背中を押していきますからね。

 川岸までだいたい6,70メートル。なに。わたしならそれくらいの距離、風が吹いていても造作もないことですよ。安心してください」


 手順と覚悟を決めたふたりが流氷の上を横へと渡っていく。

 そして、とうとうカールがひとつの鈎を掴む。


「さあ!」

 

 カールがもう片方の手のひらと肩を使って公女の靴の裏を押し上げる。公女は鈎に片足をかけてどうにか滑車にへばりついた。


 流されたカールは背後の別の流氷に飛び移り、それを蹴って宙に身を躍らせロープを掴む。それから、両足をロープにかけ、蜘蛛のようにロープを手繰り、宣言通り頭で公女の背中を押して滑車ごと岸へと移動を始めた。


 空は今にも雨が落ちてきそうな灰色。下は無数の白い流氷のうごめく死の咢。

 風のせいでロープも滑車も激しく揺れ動く中、公女は必死に耐える。



 カールが岸へとロープを手繰るにつれ、必然的に次々と途中の鈎つきの滑車と出会うことになる。

 そう重いこともないので、カールは出会った鈎つきの滑車もそのままにしてそれを含めて押していく。

 しかし、風がかなり強く吹くようになっており、滑車から垂れている鈎同士がブンブンと揺れてお互いに激しくぶつかり合う。


 危ない!


 カールの懸念通り、ぶつかって跳ね返った別の鈎が今度は公女の足をかけている鈎にぶつかってしまう。

 一回だけではない。何度も何度も激しくぶつかり合う。


「痛いっ!」

「公女殿下!」


 とうとう激しく揺れている鈎が掛けている公女の足にぶつかった。

 痛みに驚いた公女が滑車にしがみついていた腕を思わず緩めてしまい、風に揺れたロープからはじき落されてしまう。


「!!」


 落下する公女を助けようとカールもまたロープから飛び降りようとした瞬間、黒い影が視界を横切った。


「気が変わった。助けに来たよ」


 雨の降りだしそうな夕暮れの空に、三角帽にタイツ姿の少年が公女を片手でぶら下げて浮かんでいた。


「おまえは。ひとでなしか!」

「いつから僕はそんな名前に変わったのだろうか!?

 ちょっと失礼じゃないのかな。カールなんとかさん。

 僕の方はばっちいのも嫌がらずに助けてあげているというのに。なんなら海の方まで出掛けて行って捨てて来てもいいんだよ」


 もう。なんでもありだな。


 青い服の女といい、人狼の殺し屋といい、常識外の存在の登場にカールはあきれ果てた。

 もっとも、大切な公女殿下を捨ててもらっては困るのでそのことはおくびにも出さず、取り敢えずカールはこの奇妙な少年のご機嫌をとることに決めた……。


  *      *      *      *


 ところで、狼という動物はとかく西洋ではあまりいい印象を持たれてはいない。


 曰く、『悪魔の手先』『(人にも襲い掛かる)狂った害獣』『血に飢えた獣』などなど。


 このように不評なのは、キリスト教の影響もあるのであろうが、縄張りの範囲がとてつもなく広い狼は開拓する農民たちとどうしても生存圏が重なり合ってしまい、大昔から摩擦が大きかったせいであろう。

 特に縄張り意識が強く警戒心旺盛な狼には人間に出会うと襲い掛からなくとも延々とその人間の後をつけていく習性がある。

 俗にいう『送り狼』。

 人間から見ればこの不気味な行動ゆえに一層、狼は嫌われることになった。


 そのためかしらん。狼の残虐性を伝える、おどろおどろしい話が数多く伝わっている。

『赤頭巾』とか『三匹の子豚』など童話の中でも狼は悪役でしかない。


 確かに狼は人を襲うこともある。しかし、本当は人を見かけたら必ず襲ってくるというような凶暴な動物ではない。熊や猪のように何らかの理由があって襲う、ごく普通の野生動物でしかないのだ。

 過去の狼害の歴史からみて凶暴な動物ではないという意見に反対する人がいるかもしれない。

 しかし、近年の狼に襲われた例を見る限り、やはり狼は特に凶暴とは言えない。

 アメリカでは路上でうずくまる怪我をして痩せこけた狼に女性が襲われた例があるが、それは女性が車を止めてポテトチップ片手に不用意に近寄ったせいである。手負いの野生動物が不意に人に近寄られたら牙を剥きださないはずがない。また、同じくアメリカの自然公園内の遊歩道で女の子のハイカーが襲われた例もあるが、出合頭の遭遇で女の子の方が犬でも見かけたかように狼の方に不用意に近づいて行っている。これでは警戒心のある狼が敵だと勘違いしてもおかしくはない。


 繰り返し言うが、狼はごく普通の野生動物である。愛玩動物ではないから当然、おとなしいとは決して言えない。しかし、理由もないのに人を襲うような異常に凶暴な動物でもない。


 もっとも、ただの野生動物とはいえ、知能が高く警戒心の強い狼が群れでいったん人を襲いだすとその被害は尋常でなくなる。歴史がそれを示している。

 フランスでは、1450年の冬、城壁を越えてパリ市内に侵入した狼の群れは人々からノートルダム寺院の前に追い詰められて殲滅させられるまでに死者40人の被害をもたらした。

 さらに南フランスでは1764年から1767年の3年にわたって人々を恐怖に陥れた『ジェヴォーダンの獣』が有名である。

 これが本当に狼であったのか。外国から輸入されたシマハイエナであったのか。それとも犬と狼の交配種であったのかについては今でも論争に決着がついていないが、仮に狼だとして、198回の襲撃、少なくとも死者88人、負傷者36人(被害者は16歳以下の男の子か20歳前後以下の女の子に限られている)というべらぼうな被害を出している。

 別の国で言ううなら、スウェーデンでは、1820年12月30日からの3か月間に子供の死者12人を出した「キシンゲの狼」。フィンランドでは1880年からの1年間に死者22人を出した「トゥルクの狼」の例が挙げられる。


 このように何らかの理由で狼たちが人間を襲い、異常な被害が出した場合、その狼たちが退治されただけでは話は終わらない。必ず人間側はすかさず苛烈な報復に出てその地域の狼たちをしばしば絶滅の危機にまで追い詰める。


 そして、北のリーフラントでも、大昔、似たようなことが起きた。

 もっとも、人間側の報復により絶滅の危機に陥ったのは、狼の集団ではなく、もっと凶暴で厄介な人狼の部族であったのだが……。


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