王女、受難4
王女、受難4
窓が開いている!
天蓋付きのベットでうとうとと寝入りかけていた公女がハッと、冷たい夜風に反応する。
しかし、慌てて起き上がりかけた公女ののど元にはすぐさますらりと抜かれた細剣が突き付けられた。
「夜分の推参。失礼します。公女殿下」
ベットのわきには夜会服の上にマントを羽織ったフランツが細剣を構えて立っていた。
もともと超美形な男であるが、今はすっかりやつれ果て、顔にはすさまじいばかりのすごみがある。
「ぶ、無礼です」
震える公女はそれだけしか言えない。
「貴女がもし本物の公女殿下であれば、不敬なことこの上ない無礼な振る舞いと申せましょう。ですが、貴女は公女クリスティーネさまではない。僕にはよくわかる。
この場合、無礼なのは偽物のくせにずうずうしくも公女と名乗る貴女の方こそではないのですか?
もっとも、今は誰が無礼であるとか、また、貴女が誰であり、なんのために偽っているのかなどというのは僕にとってどうでもいい。そのことについて詮議するつもりもない。
僕が関心があるのは、本物の公女殿下のことだけだ。僕が唯一願っているのは、無事な公女殿下の傍にいさせてもらうこと。ただそれだけ。
僕の公女殿下を今すぐ返して欲しい。
さあ。答えてください。公女クリスティーネ殿下はいまどこにおられるのですか?
自分で言うのもなんですが、今の僕は尋常ではない。脅しではなく、答えを渋るようなら本当に手荒な真似も辞しませんよ」
フランツは構えた剣の切っ先をつうっと、さらに公女ののどもとに近づける。
日頃とはまったく異なるフランツの目の冷たさにすっかり胆をつぶした公女(中身がペーラ・アンナの)はつっかえながらもすっかり白状しはじめた。
仙女と名乗る青い服の女の頼みでペーラ・アンナが公女クリスティーネと肉体が入れ替わったこと。ペーラ・アンナたちを消し去るためマルガレーテが異国の殺し屋を呼んだこと。そのことについて激おこな青い服の女が殺し屋の一人をあっけなく返り討ちにしたうえ、狙われた中身が公女クリスティーネのペーラ・アンナをカール憲兵少佐とともに北のリーフラントへ飛ばしてしまったことなどなど。
「……そう。北ですか。
兄上も一緒に、か。
ああ。ペーラ・アンナさん。もういいですよ。帰りますから、楽になさって結構です」
フランツは剣を鞘にしまうと、入ってきた窓の方へと行く。そして、5階の窓の枠を掴んで振り返る。
「人が入れ替わるなど普通なら信じられないけれど、辻褄は合う。
貴女が正直に話してくれたお礼に、ひとつ忠告を差し上げよう。
もし、ルドルフ君を本当に愛しているのであれば、彼を一人の人間として見ておあげなさい。これは大事なことだ。
マルガレーテのように相手に愛してもらうことばかり求めるのはよくない。彼はペットでも奴隷でも物でもないのだから。
僕はマルガレーテとはちょっとした知り合いでね。彼女のことはよく知っている。
彼女はもともとひとを愛したりひとから愛されたりすることの意味が分からなかった人間だよ。最近になってようやくひとに愛されることの意味を知った彼女が寂しかったのは分かるが、ああもガツガツと距離の取り方も分からずに相手を雁字搦めにするだけのやり方はいけない。あれでは、いずれ関係が破綻してしまう。
今、ルドルフ君はマルガレーテの行状を知って動揺しているはず。
マルガレーテは必死に取り繕ろうとするだろうけれど、今までのやり方がまずかったせいでたぶんうまくいかないだろうね。
貴女がもしマルガレーテに成り代わって彼を取り戻そうというのであれば、貴女もひとの愛し方というものを今一度、よく考えなければいけないと思うよ。
マルガレーテの轍を踏まないように、ね」
フランツに言わせれば、男女の関係というのは平行線ではないが、交わることもない、いわば双曲線のようなものである。
つまり、お互い自我(自己意識)がある以上、どんなに親密でも合体して一個のものになるなんてあり得ない。どんなに親密な男女の関係といえども、お互いが自分であり続けるための最低限の距離がどうしても必要である、ということらしい。
にもかかわらず、相手との距離を考えずに境界線を踏み越えてやたらとべたべたするのは、お互いの自我を無視したただの依存であって愛でもなんでもないことになる。これでは非常に重苦しい、拘束にすぎない。まともな大人であれば、絶対にやってはならない。そう、フランツは言いたいのである。
先ほどのフランツの予想は、ルドルフが一度でも内面の自分と対話したことのある一人前の男であるならば、マルガレーテの不器用な愛し方では重苦しさしか感じられずに、やがては彼は拘束を逃れようとするであろうということらしい。
「……」
フランツの忠告に感ずるものがあったのかなかったのか、中身がペーラ・アンナである公女はフランツの言葉を聞き終わった後もひたすら沈黙を貫いている。
「ああ、そうそう。
これから僕も北へ行くので、当分は朝の謁見ではお目にかかれないでしょう。いなくても気にしないでくださいね。偽の公女さま。
では」
今まで散々悩まされた腹立ちからだろう、珍しく嫌味を告げてフランツが窓から去っていく。
それを公女はやはり無言のまま見送った……。
* * * *
その日の太陽の落ちる前、ようやく寒さで目を覚したペーラ・アンナとカール憲兵少佐とは自分たちが流氷に乗って北の大河の上にいるのに気が付いた。
「春が近いとはいえ、このままでは凍えてしまう。
公女……いや、ペーラ・アンナ嬢、お身体は大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫です。カール。
どうやらセルマさんが気を使って外套を着せておいてくれたようなので」
中身が公女クリスティーネのペーラ・アンナが言うようにふたりには公館内では脱いでいたはずの外套が着せられている。
カールが探ったところ、どうやら財布とか身分証明書とかの必要なものが一通り外套のポケットの中に押し込められているようだった。
「しかし、このまま海まで流されるのではまずい。
なんとか救助を求めないことには……。だが」
カールが暗い声を出す。
なにしろ川幅が150メートルはあるのではないか思われる大河である。
川岸に人がいようとも、カールたちのいる流氷の上からは手の指くらいの大きさにしか見えず、手を振ったところで気づくかどうかさえわからない。それに、声を上げてたとえ気づかれたとしても、河に無数の流氷がある状態では救助のためにボートを漕ぎだすのもままならない。
「どうすれば……」
「カール。見て。前方に橋があるわ。あの黒いの、人じゃないかしら」
「おお」
ペーラ・アンナが指さしたのは、港湾都市メリメの大鉄橋であった。
リーフラントの海岸部分は大昔から交易が盛んであり、今現在も東の大国の重要な輸出港として繁栄しており、メリメはその中で特に重視され近代化が推し進められていた。
「おーい。そこのひと。助けてくれ!」
流氷が橋に近づいたのでカールが声の限りに叫びだす。ペーラ・アンナも橋の上の人に向かった盛んに手を振る。
しかし、こちらを見ているはずの橋の上の人物は黙ったきりである。何の行動もとろうとしない。
「おーい。聞こえないのか?
自分で助けようとしないでいいから、せめて水上警察かなにかに連絡してくれ」
カールが必死にリアクションを求めるが、その妙に古臭い格好の若い男はただ見つめるばかりである。
いよいよ流氷が橋を見上げんばかりに近づいてから橋の上の人物がぽつりと言った。
「なんで?」
「いや。なんでって。
このままだとわれわれふたりは海まで流されてしまうだろうが。そうなっては溺れて死ぬか凍えて死ぬかはしらないが、とにかく助からない。
君!男の俺には同情しないとしても、こちらのお嬢さんには同情ぐらいしろよ」
「ふーん。それはお気の毒だね。
でも、一般の人はそうかもしれないけど、僕の場合は逆なんだけどな。
まあ、いいや。とりあえず、いいこと教えてあげるね。
あのね。昔は君たちみたいな愚か者がいっぱいいたから、この時期、河口付近にロープ張ってたよ。だから、今でもあるんじゃないの、そのロープ。で、それにつかまれば助かるよ。たぶん」
「たぶんって。
ずいぶん仮定に仮定を重ねた話だな。おい。
それに『昔は』って。
君。ここの住民なんだろ。確認ぐらいしててもいいんじゃないのか、普通」
「住民だけど、僕、普通じゃないから。じゃあね」
「おーい。せめて水上警察に連絡しといてくれよ」
「嫌だ。めんどくさい」
乗っていた流氷はとうとう橋を潜り抜けていき、河口へ向けてドンドン流されてしまう。
「ついてない。橋の上の人間がよりにもよって人でなしだったとは」
「カール……」
やり取りを聞いていたペーラ・アンナもさすがに心配になったようである。落ち着いた様子が薄れてきた。
でも、心配はいらない。ふたりの運命はその人でなしによって助けられるとちゃんと定められていたのだ。
ただ、それによって少しばかり困ったことが起きるのであるが……、ふたりはまだそのことを知らないでいた。
* * * *
襲撃の3日後、マリアカリアたち7名は捕らえた人狼の女を連れて北へと旅立つこととなった。
列車が首都のリンゼン広場駅のプラットホームから離れようとしたとき、マリアカリアは拘束具を外して対面に座らせた人狼の女に一応の警告をする。
「おい。犬コロ。暴れるのは無駄だからしようとするなよ。
その代わり、このままおとなしくしていればご褒美に骨付きの鶏肉などをやらないこともない」
人狼の女は捕らわれてから悲鳴以外一言もしゃべらなかった。だから、マリアカリアも女のことを犬コロとしか呼びようがない。
女の方では馬鹿にされたと感じるらしく、いつもそのたびに目を妖しく光らせる。
もっとも、女がその異様な目を光らせたところでマリアカリアとサラ・レアンダーには通じないのだけれども……。
「……」
しばらくしてから女の口から言葉が洩れた。初めてのことである。
「なんか言ったのか?水でも欲しいのか?」
「……なんでわたしを殺さないのかしら?なんでこんな面倒なことをしているの?」
「初めて口を利いたかと思えば、そんなことか。おまえには関係がない。黙っていろ」
女が詰まらないことを言い出したとばかりにマリアカリアは無視を決め込み、新聞を広げて読みだした。列車が揺れるばかりの沈黙が漂う。
「ふうぅ」
横で聞いていたサラ・レアンダーが大仰なため息をつく。
「わたしもそう思うわ。
あんた(マリアカリア)はいつもそう。どんな悪党に対してもいつも甘いの。
わたしなら捕らえたオオカミを躊躇なく殺して死体を外へ放り出して晒すわ。それで、逆上した残りの3匹が襲ってきたところを返り討ちにして一件落着。北へ連れていくなんて面倒なことはしない。
それをあんたは殺さないどころか(反抗心を削ぐために)捕らえたオオカミを虐待することもしない。本当に甘々だわ」
「気に入らないのか。だったら付いてこなくていいぞ。サラ・レアンダー」
新聞から目を離してマリアカリアがそっけなく言う。
「あんたは記憶にないのかもしれないけど、わたしの場合も敵であるのに追い詰めながら結局は殺さなかった。あんた、甘いのよ。本当に。
自分では優秀な軍人だとか言っていたけど、致命的な欠陥よね。それ」
「……」
「わたしはあんたが殺せない理由を知っているわ。
あんたは相手がどんな悪党であろうとも認めてしまう。人間として。
殺意というのは軽蔑に通じているもの。相手のことをゴミかなんかと思っているからこそ殺せるの。それを、あんたは人間として認めてしまうから殺せなくなっているのよ」
「……」
サラ・レアンダーがまた大仰なため息をつく。
「わたしはね。基本、自分以外を認めないの。
だって苦しいじゃない?認めてしまうと、今度はその認めた他人と自分とを比較してどちらが優秀でどちらが劣っているかを無意識に検討し始めるから。
もちろん、わたしは美人で天才で大魔女だから劣等感に苛まれることなんてありえないんだけどね。それでも緊張してなんかギスギスして嫌じゃない。
それに第一、殺すべき時に相手を殺せない。
だから、わたしは自分以外を認めないの」
「わたしもおまえがなぜサディストであるかということをよく知っている。
おまえは強がってはいるが、内心では自分の卑小さについてよく認識しているはずだ。
だから、他人を肉体的にも精神的にも虐めて自分以下に貶めようとする。そうしないと、おまえは安心して夜も眠れないからな。
他人を拒否して孤高であるように見せてはいるが、実は虐める対象がなくなれば精神的に生きていけないおまえは他人の存在に強く依存するしか能のない、ごくつまらない存在だということをよく認識しておけ。寄生虫め。
ふん。どちらが甘いのだ。
おまえは都合の悪いことはみな他人のせいにするが、わたしは少なくとも自分のした(殺さないという)選択には結果を甘受するだけの覚悟はあるぞ」
「あんたって本当に嫌な女ね」
「おまえとのつまらん会話にはもううんざりだ。
大佐たちのところへ行ってくる。おまえはその犬コロをよく見ておけ。サラ・レアンダー」
サラ・レアンダーも別にマリアカリアと喧嘩がしたかったわけではない。そして、マリアカリアが殺人を忌避していることについて偽善を感じ嫌悪しているわけでもない。
なんといってもマリアカリアは自分を認めてくれた唯一の人間であり、彼女としては自分以外で認めた(年若い愛人のルイスを除く)はじめての生きた人間だったからである。
理解し合いたいのに理解しえない。
マリアカリアの後姿を見ながらサラ・レアンダーはまた大仰なため息をつく。




