王女、受難2
王女、受難2
その頃、プスタ平原から来た男たち3人は人目のある路上では襲撃の方法も限られるとの読みで敢えて泊まっているホテルを出て大通りを南へと歩いていた。
もちろん襲撃を警戒して鋭い眼差しを周囲に向け、手はいつでも武器を取り出せるようにしながらである。
「おい。あいつは!」
ちじれた口ひげを横に大きく伸ばしたゾルタンもと騎兵少佐が仲間に注意を促した。
反対側の歩道で黒メガネをかけた女が建物の壁に背もたれながらじっとこちらを窺っている。
「仕掛けてくるぞ。走れ!急いでここを離れるんだ!たぶん挟撃が来る」
危機を感じた3人は相手を戦いやすいもっと開けた場所まで誘導しようと足を速めかけたが、突然、通りを歩いている人たちが一斉に止まり、人間の壁を作って3人の行く手を阻んでしまう。そればかりか無言で3人を取り囲んだ。
「まさかこいつら、全員が敵なのか?」
無表情の集団に完全に拘束されてしまった3人は背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
周りにいるのは、さっきまで横をにこやかに歩いていたフロックコートを着た中年の紳士、籠を持ちショールを肩にかけた買い物途中の若い女性、宝飾店の制服を着たドアマン、杖をついた腰の曲がった老婆、山高帽をかぶり煙草を咥えた労働者、子供の手を引いた身なりの良い御婦人……。
どこにでもいるありふれた人たちだが、若いのも年寄りなのも男も女もみな感情が欠落してしまった様子で表情がうつろである。
一瞬で、見渡す限りこういう不気味な連中で大通りは埋め尽くされ、しかも、3人はまるで満員電車で押されまくるサラリーマンのように身動きができず、サーベルを鞘から抜くこともできなければ、懐から拳銃を取り出すこともできない。
3人は恐怖を感じざるを得なかった。
やがて殺しの準備が整ったのだろう。連中が一団となって緩やかな動きを見せ、3人の体が押されて流され、しまいには馬車の行き交う車道へと押し出された。
はるか遠くの四つ角で交通整理をしている鉄帽の巡査が鋭い警笛を鳴らす。
「そこの3人。早く歩道へ戻れ。轢かれるぞ!」
無表情な人間の壁が邪魔をして3人は戻りたくとも戻れない。反対側の歩道も同様である。
そして、そんな3人のもとへは空の樽を大量に積んだ2頭立ての大きな荷馬車が突っ込んでくる。
馬は口から泡を吹き恐怖で目を見開いており、明らかに暴走している。御者が必死で手綱を引いているが止まる気配は全くない。
すべてがゆっくりと動いているように見える。
遠くの巡査の怒った顔。馬を制止しようとする御者の引き攣った顔。通りの人たちの感情のない顔。対向の、後ろから通り過ぎる馬車の御者の驚いた顔。顔。顔。顔。
刻一刻と、暴走する馬車は3人へと近づいてくる。
憐れ。3人のプスタ平原から来た男たちは大都会のど真ん中で轢死の最期を遂げるかにみえたが……。
「ふうぅぅぅ」
もう一人の退役少佐が息を吐き、少し足を開いて暴走する馬車の前に立つ。
彼は左肩の飾りの上着をはねのけて拳銃を取り出すと、その銃把にストック(銃床)を差し込み、銃身を曲げた左腕の肘にのせて構える。
そして、撃った。
馬は2頭とも正確に額を撃ち抜かれ、即死する。
白目を剥いた馬は最初、前足を折り、それから首を曲げて倒れ伏した。
だが、死んだ馬ごと馬車はまだ止まらない。
キシュ・ジュラは右の馬から撃ったので、馬車はそちら側に引っ張られるようにずれながら惰性で滑り、やがて3人の男たちの目の前で横転してから止まった。
「われら(騎兵将校)相手に馬はないな。おかげで命拾いしたが」
安堵からペーラ・アンナの父である退役大佐が笑い出す。
男たちは皆、車道に押し出された時点で冷静さを取り戻して切り抜けられることを確信していた。特にキシュ・ジュラ退役少佐は現役の頃、馬上射撃で鳴らした猛者であったため、自分の出番であると余裕の笑みさえ浮かべていた。
「だが、あいつはもういないぞ」
女を最初に発見したゾルタン少佐が叫ぶ。
壁に背もたれていた黒メガネの女はこの時にはすでに姿を消していた……。
女、いや女たちは公館へ向かった姉妹の死をその超常的な感覚で知ったからであった。
* * * *
「わたくしはもう耐えられないの。いっぱいなの。
毎日毎日、綺麗なドレスを着て天蓋付きの豪奢なベットで寝ているけれど、そんなもの、全然いいものじゃないの!
耐えていたのはただただ貴方に会えるから。偽りでも会えば貴方はニコリとわたくしに笑ってくれるから」
午後、ルドルフが公館へ公女クリスティーネのご機嫌伺いに訪ねると、普段はおっとりと謁見の間の椅子に腰かけているはずの公女殿下がルドルフに詰め寄ってまくしたてる。
「……公女殿下?」
ルドルフは驚いて二の句が継げない。
「でも、もう耐えられないの。
貴方があのビッチと色んないやらしいことをしているのかと想像したら、悔しくって悔しくって持っているハンカチをすべて引き千切っても足りないくらい悔しいの!」
「……あの。公女殿下。それは」
公館の人間には絶対、知られていないはずのマルガレーテとの秘密の恋を一番知られてはいけない当の公女殿下にバレている!
ルドルフは息が詰まる思いで公女殿下を見つめることしかできない。
「今夜は貴方を帰さないわ。よろしくて。ルドルフ・フォン・バーべンベルク侯爵!」
「それは男のセリフでは。
いやいや。そんな突っ込みをしている場合ではない。
とにかく落ち着いてください。殿下!」
「わたくしは落ち着いております。落ち着いていないのは貴方の方ですわ。
フフ。マルガレーテとの関係がいつまでも秘密のまま保たれていると信じ切っていたのですか?」
「うっ!!」
「今は黙ってわたくしの言うことをお聞きなさいな。ルドルフ侯爵!
わたくしはもう我慢しないと決めましたの。
今日こそははっきり言わせてもらいますわ。
わたくしは貴方をお慕い申し上げております。貴方を愛しております。
ですから」
公女クリスティーネがぐっとルドルフをにらみつける。
「今すぐ、あのあばずれのマルガレーテと手を切りなさい!そうすれば、今までのことはすべて不問に付します。
でも、手を切らないというのであれば、わたくしは許しません。
わたくしがあの女を完全に破滅させてやる!」
「それはおかしい。
公女殿下にだって秘密の恋人がいたはずだ。なぜ、急に僕とマルガレーテとの仲を裂こうとするんですか!」
普段とはまったく違った様子で公女クリスティーネが小さく鼻を鳴らす。
「フン。恋人って誰かしら?毎朝、7時半に決まって謁見室に現れるあのドクトルのこと?
確かにおそろしいほどに綺麗な殿方ではあると思うけれども、彼、とっても変わったひとよ。恋人なんてとんでもないわ」
「へっ!?」
「わたくしが好きなのは最初から貴方だけよ。ルドルフ」
完全に口調が崩れた公女クリスティーネからの熱い視線にルドルフはタジタジとなる。
「それに、嫉妬からだけで貴方にマルガレーテと手を切れと強要しているわけではないの。
あいつは本当はとんでもない悪党よ。このまま付き合っていたら貴方がダメになるわ。
今回の、殺し屋を呼んでプスタ平原から来た男たちを消してしまうという計画も公爵夫人から出たようにみえているけど、本当に絵を描いたのはあいつなのよ!」
「な、なにを言っているんだ」
「考えてごらんなさい。一番強い動機を持っているのはあいつなのよ。
狂いそうなくらい貴方を独占したいの。あいつは。幸せを取られまいかと必死なのよ。
悪賢いあいつは遠まわしでほのめかすことで巧妙にも邪魔なプスタ平原から来た男たちとペーラ・アンナさんを消してしまう罪をひとり、愚かな老公爵夫人に押し付けて、なおかつ、計画を事前にルドルフを通じて狙われた人たちに漏らすことで自分が真の黒幕であることを隠蔽したのよ。
誰でも恋人には悪人だと思われたくないものね」
「でも、漏らしてしまえば計画は失敗してしまいますよ?殿下の言っていることは矛盾しているし、無茶苦茶だ」
「そうじゃないわ。呼んだ殺し屋がおそろしい連中であったうえ、重要なことをいくつか漏らしていなかったから計画は確実に成功するはずだったの」
「“だった”?」
「そう。計画は失敗したわ。
3時間前、ここにいたペーラ・アンナを殺害しに来た一人が青い服を着た仙女さまに返り討ちにあったせいで」
仙女って誰のこと?
ルドルフは幼馴染のペーラ・アンナが無事であることにホッとすると同時に、公女クリスティーネの言うことが未だに信じられず、こころの中が疑念で一杯となる。
「あの。ペーラ・アンナ嬢は今どこに?怪我はなかったんですよね?殿下」
「あら。心配してくださるの。わたくし、とっても嬉しいわ。
彼女は無事よ。身もこころも。
でも」
公女クリスティーネは遠い目をする。
「彼女はここにはもういない。遠い遠い北の半島へ行ったわ。
仙女さまが試練を与えたの。彼女とカールに。
だから、わたくしの望みも彼らが戻ってくるまでは果たされない」
公女クリスティーネが入り混じった語調で独り言のように呟きつづける。
「でも、もう待てないの。
スプーンの上げ下ろし一つからお小言を食らうこの生活が嫌になったの。辛抱できないの。
カールなんて夕食に少し余計にワインを飲んだだけでわたくしがまるで公国の財政破たんを来すかのような小言をするの。
『父君がいらっしゃらない以上、公女殿下は連邦の首都における公国の外交の顔なのですよ。身を慎んでください。公国の恥になる。民に対する示しがつきません』
小姑のようにしつこいカールの小言で頭がいっぱいなの。幻聴が聞こえてくるくらいに。
でも、もういいの。うるさいカールは彼女と行って今はいない。
だから、わたくしはもう我慢しないの。カールと彼女はとってもいいひとだということは知っているわ。首都で最初に助けてくれたのはあのひとたちだものね。でも……。
たとえ他人の身が汚れてしまってもわたしは幸せになりたいの!」




