扇子の影で6
扇子の影で6
哀愁を帯びたバイオリンの音色がしばらく続くと、突然、チューバやトロンボーンが加わり音の爆発が起こる。
同時に、浅黒い肌の黒髪の男女が激しく踊りだす。
「ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!」「ナ、ナ、ナ、ナ。フェスティ!」
掛け声が挙がる。
長いちじれた黒髪の女たちがその派手な着物の長い袖やスカートを振り乱しながら胸を揺すって首から幾重にもかけた金の装飾品や広げた腕につけた金の腕輪を打ち鳴らす。
黒髪を撫でつけた男たちが飛び上がったり複雑なステップを踏みながら自分の太腿や履いている長靴を激しく叩く。
「わたしは彼ら(ロマ。俗にいうジプシー)が好きでね。彼らの音楽を愛していると言っていいくらいさ」
ロマの音楽に耳を傾けながらペーラ・アンナの父で退役大佐であるペーラ・シャンドリオンがマリアカリアに話しかける。
「定住をしない彼ら(ロマ)はどこにでもいる。プスタ平原にも帝国の花の都にも、そしてこの連邦の首都にも。
見ての通り、女は占いと踊り、男は楽師と馬の商売というように、する仕事が決まっている。なぜだか彼らは頑なにそれしかしない。
変わった習慣を持ち、他の民族に親しまないから彼らは周りから蔑視され嫌われている。にもかかわらず、彼らの音楽だけは他の民族の心をしっかりと魅了してやまない。
実に不思議なことと思わないか?エリカ嬢」
踊りがさらに激しくなり、ひときわ大きな歓声が上がる。
「(大佐がロマの音楽に惹かれるのは)分かる気がするな。
これはわたしの勝手な解釈だが、愛とか情熱とかという感情に従って奔放に生きる彼らの極端で単純な生き方に人は理想を描いてしまうのかもしれない」
マリアカリアは遠い目をしてそんな似合わない言葉をため息とともに吐き出した。
「ところで、今日、わたしを呼び出したのはどういう理由からだ?大佐。
遊ぶ金が続かなくなったからわたしに借金の申し出をしようとしているのならお断りだぞ。わたしは基本的に金は信頼している女性にしか貸さないことにしているからな」
マリアカリアは社会的には信用の劣る女性の方が圧倒的に男性よりも資金運用ついて有能であり、かつ確実に借金の返済をすることを経験的に知っていた。
この時代の女性たちは自分で働くことが卑しいことだという社会的な風潮(女性は家庭に入って貞淑な妻となることだけが期待されていた)のせいであらゆる職業から締め出しを食らっているだけで、決して能力がないというわけではない。しかも、彼女たちは男性より普段から生活に密着しているおかげでかえって小銭を稼ぐアイデアには事欠かない存在である。
だから、マリアカリアは喜んでもとお針子やもと女中などといった世話をしている女たちに資金を提供していた。
そんな彼女には返ってくるかどうかも分からない不良オヤジどもの馬鹿騒ぎに消えてしまう金など貸す気はない。
「これは手厳しいな。すっかり釘を刺されてしまったが、話はそのことではない。
ちなみに、我々は皇后陛下が潤沢な工作資金を回してくれたおかげで(金には)困っていないよ」
ペーラ・シャンドリオンが悪戯っぽく片目をつぶってみせた。
「ルドルフ君から連絡があってね。遂に公爵夫人が動き出したそうだよ。今まで散々馬鹿騒ぎを続けてきた甲斐があったというものさ。アハハハ。
でも、この公爵夫人の動きというのがちょっと過激でね。遠い異国から殺し屋を呼んで我々を抹殺しようとするものらしいんだ。
並みの殺し屋なら別に騒ぐ必要もないのだけれど、やって来たのがちょっと有名な奴でね。自分の身は自力でなんとかしのげるとしても、娘までは手が回りかねるのだよ。
そこで、後ろ暗いところのありそうなエリカ嬢に相談にのって欲しいと思ってね。わざわざご足労、願ったわけだ」
「ふーん。今までの馬鹿騒ぎはすべて挑発だったわけか。
あえて自分の身を切らせるとは随分と危険な方法だが、考えてみれば、社交界にコネのない大佐たちにはそれしかやり様がなかったな。騎兵将校らしい。
だが、言い方が少し気に食わないな。『後ろ暗い』とはどういう意味だ?人にものを頼む態度ではないぞ。大佐。
それに、わたしはか弱い小娘に過ぎない。協力を求めるのはお門違いというものだぞ」
マリアカリアは酷薄そうに目を細め黒いホルダーを口から外して紫煙を吐き出した。
「まあ、そう言わないで聞いてほしい。
我々は名前がころころ変わり普段から一部の隙も見せない貴女に対して敬意を払っているのだから(レナーテ夫人は大佐たちとは入れ違いに帰国したことにして、当初、マリアカリアは大佐たちのお世話をするよう言いつけられた、レナーテ夫人の遠縁にあたるヒルデガルト・シュミットと名乗っていた)。
我々は貴女がか弱いなんて一度も思ったことはない。とんでもないことだ。実のところ、(マリアカリアが老公爵夫人とつながっており)後ろからやられるのではないかと冷や汗をかきながらいつも警戒しっぱなしだったよ。
それに、ルドルフ君からの話によると、エリカ嬢も抹殺の対象に入っているそうだ。なぜだか知らないがね。
そういうわけで貴女と我々は意思に関係なく同じ側にいる。協力し合う方が合理的だろう?そうではないかね。エリカ嬢」
大佐はマリアカリアにやって来た殺し屋について話し始めた……。
それは若い女であり、名前を自ら名乗ったことは一度もない。
女を一躍有名にしたのは3年前の新大陸でした仕事からである。
当時、新大陸では牧畜業者と農民の争いが随所で起こっていた。牛の移動に邪魔な農民たちを排除するため牧畜業者が荒くれ者のカウボーイたちを雇って放火やリンチなどの嫌がらせを繰り返し、農民たちを手ひどく痛めつけていた。
これに怒ったある農民たちが金を集めて女を新大陸へ呼んだ。
呼ばれた女は3日間で暴れていた52人のカウボーイを死体へ変えた。しかも、そのすべての死因が落馬、牛の暴走、転落、銃の暴発、溺死など事故によるものとされて、殺人の証拠を一切残さなかった。
死体のそばには必ず女の仕事であることを示す赤い花びらの造花が置かれていたが、女と殺人を結び付ける証拠がないため駆けつけた連邦保安官も女を疑いつつも手をこまねくしかなかったという……。
鬢のあたりが白くなってはいるが、現役時代とさして変わらない荒々しい雰囲気を漂わせている退役軍人が獰猛にニヤリとした。
「そこで、女につけられたあだ名が『死神の鎌』。
女の師匠もその業界では伝説級の人物らしいが、弟子の女もこの仕事で師匠に劣らないほど有名になった。
女が殺人の証拠を残さなかったのは官憲の介入を嫌った農民の依頼によるものとされている。つまり、女にはどんな依頼でも完ぺきにこなすだけの実力があり、それだけ厄介な奴だというわけだ」
「実力?大佐。
『実力の差は努力の差。実績の差は経験の差。人格の差は苦労の差』という格言を聞いたことがあるか?
ふん。殺し屋風情の人間の屑に実力なんて言葉はもったいない。そういう奴らにはせいぜい唾でも吐きかけるのがお似合いだ。奴らを英雄視するのもたいがいにしてほしい」
マリアカリアの心底、嫌うものの上位には胸の大きい女性と殺し屋が入っている。彼女は憎々しげに言葉を吐き捨てた。
「いいだろう。ペーラ・アンナについてはわたしが面倒を見よう。
わたしは(自分や身内に対して)害をなそうとする者には容赦はしない。
断っておくが、生っちょろいやり方では承知しないぞ。やるのなら、相手(老公爵夫人)を粉砕するまで徹底的にやれ。それが協力の条件だ。
ふん。殺し屋か。そういう人間の屑には相応に痛い目に遭ってもらう必要が確かにあるな」
獰猛な笑みを浮かべるふたりに関係なく周囲では宴の興奮が最高潮に達しようとしていた。
楽器がかき鳴らされ、ロマの若い女性が踊りの輪から抜け出してテーブルの上に立った。
片手を水平に上げてひらひらさせながら、もう片方でスカートを掴み大きく翻す。そして、妖艶な流し目をくれながら複雑なステップを激しく刻みだした……。
* * * *
公館の中を青い服の美女が気怠い調子で歌いながらいくつもの廊下を歩いていく。誰からも咎められることなく。
♪今さら あなたは寂しいと言う
一晩中 泣き言を漏らして
いいわ たんと泣きなさいよ
川になるくらい泣くといいわ
わたしがあなたのせいで泣いたくらいに
今さら あなたは謝るわけね
自分の不実さについて
いいわ たんと泣きなさいよ
川になるくらい泣くといいわ
わたしがあなたのせいで泣いたくらいに
あなたが泣きもしなかったあの頃、あなたはわたしを夢中にさせた
思い出して わたしはあなたの言ったことをすべて覚えているわ
恋なんてバカ気ているとか
わたしとはもう終わったとか言ったわね
今はあなたがわたしを愛していると言う
いいわ だったら証明してみせて
こっちへ来て 泣いて頂戴な
川になるくらい泣くといいわ
わたしがあなたのせいで泣いたくらいに
(ジャズの名曲『cry me a river』より 作詞作曲アーサー・ハミルトン)
勝手知ったる我が家にいるような顔をして歩き回っていた青い服の美女が最後の重い扉を開け放ち、中にいた公女クリスティーネに向かって声を掛ける。
「お久しぶりですね。ペーラ・アンナちゃん。
お姫様生活には慣れちゃいましたか?
今日はね。悪いお知らせを持ってきました。約束通りあなたの望みを叶えてあげたいのはやまやまだけれども、とても悪い人がわたしの楽しみを邪魔しようとしているの。このままだとあなたの願いを叶えた途端、あなた、死んじゃうことになっちゃいそうなのよ。
だから、もうしばらく我慢してほしいの。わたしがおイタをする悪い人を懲らしめちゃう間だけ」
この時、セルマだけは殺し屋の真の依頼者が扇子の影でひとりニヤリとしているのを知っていた。だから、余計に腹を立てていた。
マリアカリアだけでなくセルマの介入まで誘ったせいで甘い恋愛の物語が一転、殺伐としたものとなる……。




