扇子の影で5
扇子の影で5
「だから葉巻に火をつけるのはもっと丁寧にしろと言っているだろう!
そう。先端を満遍なく炙るようにするんだ。
葉巻は紙巻とは違って肺にニコチンを入れるのではなく、香りを楽しむものだからな。繊細な取り扱いが必要なんだよ。火のつけ方一つで全てが台無しになってしまう」
「……」
「葉巻が嗜好品の中でも上等の部類に入れられるのは値段が高いせいではない。香りでこれほど心身ともにリラックスさせてくれるものはほかにないからだ。
静かなところで、心地よい音楽に浸りながらブランデーやチョコレートを相伴にしてひとり、香りを楽しむ。これが本当の葉巻の楽しみ方さ。
だから、成金たちがこれ見よがしに人前で葉巻を咥えるのは、自分たちの富を誇っているのにすぎない無粋な振る舞いで、実は自分が葉巻の吸い方を知らないことを世間に周知させている極めて恥ずかしい行為なのさ。
カール。火のつけ方一つで、見る人が見れば(見栄で葉巻を吸っているのかどうか)分かってしまうものだからな。わたしをガッカリさせないで欲しい」
公館での勤務を終えたばかりのカール憲兵少佐にマリアカリアが口うるさく葉巻の吸い方の講義をしているところである。
こううるさくては心身のリラックスなどあったものではない。
勤務で疲れているうえでこれであるから、タフで何事にも忍耐強い憲兵少佐も些かゲンナリした様子である。
「カール。なんだ。その目つきは。
言いたいことがあるならはっきり言いたまえ。
黙ってジト目で見られるのは気分が悪い!」
「……いや。他意はない。
ただ。ちょっとな。なんというか。
エリカ。君は世話焼き女房になるタイプなんだと少し驚いただけだ」
「だ、誰が世話焼き女房なんだ!」
たちまちマリアカリアの顔面が朱に染まる。
「も、もしかしてわたしをもらってくれるつもりがあるということか?カール」
「考えないこともない」
「う、うっ」
今度はマリアカリアがジト目をはじめる。
「ど、どうした?
俺の返事が気に食わないのか」
「……そうではない。
わたしはそもそも葉巻の吸い方の講義をするために君を呼んだのではないのだ。カール。
それを来て早々、カールが葉巻の箱を開けたので……。いや。もうこの話は止めだ。
そんなことよりも、その。分かるだろう。
君も大人の男ならこのシテュエーションから。
若い女がおめかしをしてホテルの自室へ男を招いているんだからな!」
照れのためマリアカリアが怒鳴るような大声を出す。
テーブルの上にはマリアカリアの手料理が並べられ、評価の高いスパークリンクワインが冷やされている。照明は床に並べたてられたロウソクの灯だけ。
なるほど、彼女の言うように雰囲気だけは上々である。
ただ、肝心の彼女の雰囲気だけは少々違うけれども。
「……いや。分かるけれども」
「付き合い始めてからもう3か月だ。
そろそろ、その、大人のもう少し深い付き合いをしてもいいのではないのかと。
女のわたしに恥ずかしいことを言わせるな!」
恥ずかしさのためマリアカリアはもう狂乱状態に近い。
「……分かるんだが」
「分かるんだが、なんだ?
もしかしてわたしでは不満なのか。
くそっ!結局、似合わない努力して恥をかいただけなのか。わたしは」
「そうではない。
ただ、俺にはその。深い大人の付き合い方がわからないだけだ。
そうは見えないかもしれないが、弟と違ってその手の経験は未だにないんだよ。俺は」
憲兵少佐は弟に対する見栄で異性と情を交わした経験があるようなことを漏らしたことがあるが(このため、公女殿下から数日間、口を利いてもらえない破目に陥った)、すべては嘘である。
厳めしいそぶりを見せているが、この男、女性や子供に対しては特に弱い。どう扱っていいのかわからないのだ。
そんな彼が公女殿下を除いてマリアカリアとだけは親しく付き合えるわけはマリアカリアが男か女か分かりづらい一点にあった。マリアカリアにしてみれば非常に失礼な理由なのであるが……。
厳めしい憲兵少佐の告白で、一瞬、沈黙が明るい部屋に漂う。
マリアカリア好みの渋めの美形が少し情けない顔をする。
「心配ない。わたしがリードする」
「はあ?
エリカ。まさか君は経験があるのか!」
「前にも言ったようにわたしには記憶がないのだ。異性と付き合ったことがあるかどうかも覚えていない。
ただ、身体の状態からその手の経験がないのははっきりしている」
予想にたがわぬ返答に思わず失言をしてしまった憲兵少佐は少し安心する。
「だったらどうやってリードするつもりなんだ?
弟の話では女性にとって初めてがとても重大だそうだ。極言すれば、初めての経験が以後のその手の行為を受け入れるか拒否するようになるかを決定づけるほどのものらしい。
焦って失敗すれば取り返しがつかなくなるぞ!」
弟のフランツもそこまでは言っていないが、憲兵少佐はマリアカリアをなぜか脅かして先延ばしにしようとする。
「大丈夫だ。カール。
女たちからその手の話は散々聞かされている」
「話を聞いただけで出来るようになるとは思えないが。
それに、それ。商売女の話だろう。少し違うのではないのか?」
「カール。女たちを馬鹿にするのはよせ。好きな男とするかどうかの違いだけで、他は全く変わりないのだ。
金をとっている点を軽蔑しているかもしれないが、彼女たちは自尊心を切り売りしながら日々を生きているんだ。飢え死にするよりましだと思ってな。あれほどつらい商売はない。
金貨と賭博の才能を持っていなかったらわたしも同じことをしていたかもしれない。
彼女たちを馬鹿にすることはわたしを馬鹿にすることと同じだと知れ!」
「す、すまない。偏見はとれたと思っていたのだが、つい」
憲兵少佐はマリアカリアを通じて女たちと少しばかり話したことがあり、彼女たちがどこにでもいる普通のひとたちだということを知っている。
だから、素直に謝った。
「うむ。許そう。くどくは言うまい。
カールが良い人間で頭の柔らかいことを知っているからな。そこがわたしが惚れた理由の一つでもある」
マリアカリアが(カールの第二の失言に)切れたせいでそれまでの雰囲気がふっとんでしまったが、かえってよかったようである。
肩に入った力が抜け、マリアカリアから妙な緊張が霧散した。
「なに。初めであろうが、そうでなかろうが関係ない。
そんなもの、人類が太古の昔から営々とやって来たものではないか。自然に任せればいいのさ」
そう言ってマリアカリアは本能のおもむくまま、したいことをし始めた。
つまり、椅子に座ったカールを椅子ごと押し倒し、その唇に熱い熱いキスをはじめたのだ……。
* * * *
「ルドルフの悪い予感が当たったようね。なんだかわたくしたちにとってとても不利な情勢になっているわ。何もかもが」
若い恋人と熱い抱擁を交わしたマルガレーテは囁くようにつぶやいた。
首都の北西には小さな湖がある。
夏は子供たちが泳いだり、ボート漕ぎの連中が大いに精を出す場所であるが、真冬の今は完全に凍結して天然のスケート場になり、一種の社交場となっている。
娯楽の少ないこの時代、スケート場は人気のスポットであり、色んな人種が集まってくる。
高価な毛皮のコートを着込み大型犬のリードを引っ張っているのか引っ張られているのか分からない貴婦人たち。下心満載でおしゃれをした若い男。社交界の人士に自分の考えた奇抜なファッションの売り込みを図る服飾関係者。金持ちの懐に目を光らせるスリ。もったいぶっていかにも怪しい詐欺師。客を釣り上げるため顔見世をする高級娼婦などなど。
もちろん純粋にスケートを楽しみに来ている人たちもいるが、大部分は別の目的で来ているのである。ルドルフとマルガレーテのように……。
ふたりは人前では決して親しげには振る舞わない。礼儀上の挨拶だけを交わす。
ふたりが人目のある人気のスポットにわざわざ来る理由は、さも別の目的で来ていて偶然、出会ったと装い、社交界の雀どもにそれを印象づけるためである。
目的を達成したルドルフとマルガレーテはさりげなくいったん別れる。そして、ふたりはそれぞれ適当に時間をつぶし、人目を忍んで森の奥にある、冬の今は閉鎖されている川魚専門の料理屋で落ち合った。
料理屋の管理人にはルドルフの心利く老僕が金を掴ませているので何の心配もいらない。
「何があったのかは知らないけれど、公女殿下が余りにもすげなくするから恋人のフランツが憔悴しきって今にも自殺しそうだし、アルフレード(夫)はアルフレードでルドルフと決闘して撃ち殺してしまうのだと言って人が変わったように射撃の練習をしているわ。
あの、夜のパーティにひたすら笑顔を張り付けて泳ぎ回ることしかしなかったひとがよ。社交なんかそっちのけにして、ひたすら射撃場に通っているのよ。
それにプスタ平原からやって来たペーラ・アンナの父親たち。
騒ぐしか能のない粗野な田舎者と思っていたけど、とんでもない食わせ者たちだわ」
「そう。
おやじさんたちは騒いだ後、さりげなく僕と親しい関係にあることをほのめかしたうえ、ペーラ・アンナと許嫁の間柄だと噂をばらまいている。
騒いでいたのはとにかく社交界の注目を集めるためだったんだ。
注目を集めたうえでよからぬ連中と僕が付き合っていて、おまけに好きあった恋人までいたと暴露して僕の評判を落とす。公女殿下と釣り合いの取れない不良外国人のレッテルを張るために……」
ルドルフが苦々しく吐き捨てるように言う。
公女殿下との婚約不成立は本来ならふたりにとって望ましいことである。
しかし、公女殿下との婚約が成立しないのならルドルフが連邦の首都にいる理由もなくなる。あえて秘かな関係を貫き通すことに決めたふたりにとってそれは非常に困ったことである。
マルガレーテはルドルフを帝国の花の都まで追いかけていくわけにはいかないのだ……。
「事態はもっと深刻よ。プスタ平原の蛮人たちが気に食わない老いぼれ(老公爵夫人)はとんでもなく愚かなことをしでかしたのよ」
一週間も前に老公爵夫人は取り巻きの老嬢たちをまえに長扇子で口を覆い隠しながら得意満面でこう宣った。
『わたしには特別のつてがあるのよ。一般の方々では噂でしか耳にしたことがない伝説級の人物との』
* * * *
数日後、首都の国際列車の発着するプラットフォームにその伝説級の人物の弟子にあたる1人の女が降り立った。
東の大国の出身者らしく唇が妙に白っぽい、背の高いブロンドの若い女である。
瞳の色は丸い黒メガネで窺えない。手にはバイオリンのケースを持っている。
女は老公爵夫人の差し向けた迎えの人間に対して言う。
「わたしは依頼者本人とわたしの指定した時と場所で一度きりしか会いません。それ以外は不要です。
料金は相手が1人であろうが複数であろうが50万ルーブル。すべてキャッシュで、びた一文負かりません。
帰って依頼者に伝えてください。
わたしの指定する時までに料金の用意と相手に対する詳細な情報を用意するように、と」
「なぜ、あの方本人が来ないのだ?公爵夫人は完全な仕事を望んでいらっしゃるのだぞ」
「この世に絶対はないと、よく言われますけど、師匠同様、わたしにも仕事に失敗はあり得ません。
それでも気に入らないというのであれば、わたしが首都にいるこれから2時間の間にキャンセルの印を寄越しなさい。方法は公爵夫人が知っているはず」
愚かなことに老公爵夫人は育った麦のように生命を刈り取る恐るべき死神を遠い異国から呼び寄せてしまった。
マルガレーテが言うようにこれはしてはならないことであった……。




