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扇子の影で4

 扇子の影で4


「あーあ。暇だねえ。だから、あたしは降誕祭とか新年とかは嫌いなんだよ!」


 通称犯罪大通りにある薄汚い地下酒場ですれっからしのヨハンナが大声で愚痴をこぼしている。

 連邦では新教徒が多いせいか、降誕祭でも新年でも浮かれ騒ぐということはあまりない。もちろん特別な御馳走なども出されるが、お祝いといってもせいぜい教会に集って讃美歌を捧げたり家族とともに静かな団欒を過ごして感謝の意を示す程度なのである。

 厳粛なムードに包まれ、首都でもこの時期は少数の遊び人を除いて女を買う者などいない。


(なま)言うんじゃないよ。暇なのは、おまえさんの普段の行いのせいさね。

 子供の頃、教会で『勤しむものは救われる』って習わなかったのかい?」


 見えないカウンターの奥から店のオーナーの婆さまのキンキン声が飛んでくる。


「へん。そう言う婆さまのこの店だって閑古鳥が鳴いているじゃないか。

 めっきり寂れちまって、まあ。

 これも勤労精神が足りないせいなのかね?」

「ええい。へらず口をたたいている暇があったら、街角にでも立って稼いできなよ。

 ビール一杯でお茶ひかれたんじゃ、こっちは大迷惑だよ。店の雰囲気がぐっと悪くなっちまう」

「いやよ。外は寒いし、誰も相手にしてくれないんじゃ馬鹿みたいじゃないか」


 ヨハンナの言うとおり、地下酒場にはヨハンナを除けば中二階でこちらに背を向けて黒の長いホルダーで紙巻きを吸っている女しか客はおらず、店は静まり返っている。

 かつては降誕祭や新年にかかわりなく社会のゴミたちで店は賑わったものだが、最近では客の入りが非常に悪い。お得意様だった犯罪者たちが執拗なハンス・リッターの手入れのせいで監獄にぶち込まれ、また、女たちの大半も『プラチナブロンドの男』の資金提供で商売替えをして姿を現さなくなったからである。


「どこへ行っちまったのか。あたしの客たちは!」

「寂しいねえ」

「はあー」


 ふたりはため息を漏らす。


「あんたはなんで商売替えしなかったのさ?ほかの連中はまともになって今までと比べれば随分といい暮らしをしているというのにさあ」

「婆さま。あたしはしがない写真屋の娘だよ。手に職がないし、これといってやりたいこともないし。

 それに年さね。この商売ですらギリギリなのにさ。新しいことなど始められるわけないじゃない」

「はあーあ。気の毒だねえ、あんたも。

 同情だけはタダだから、あたしがしといてあげるよ」

「ありがと。(婆さまが)先に逝ったらあたしも花くらいは手向けてやるよ。もちろんそこらに生えている野草のだけどもね。

 あーあ。どこかの金持ちで男前の旦那があたしを養ってくれないかねえ。

 夢みたいな話だけどさあ。このままだと、あたしは救貧院まっしぐら。髪を切られて囚人同様の後生なんてまっぴらだよ!」


 話せば話すほどふたりの会話は陰々滅滅となっていく。乾いた笑いしか起こらない。


 そこへコートの袖と襟にスエードを張り付けた山高帽子の男が階段を下りてきた。右手を黒の絹布で吊り、自由の利く左手で特大の旅行鞄を提げている。一応、客らしい。


「おお。やはりヨハンナがいたか」

「けっ。今度は疫病神かえ。ついてないねえ、あたしは。

 あんたと話すことは何もないよ。

 あたしから外へ出ていくのは億劫だ。ビールひっかけたらさっさと出ていきな。ヘルマン・ボルクマン!」

「アハハハ。相変わらずつれねえじゃねえか。かつては一緒に暮らしたこともある仲なのによお」

「糞くらえだよ。

 あたしはあんたにいい思い出なんかこれっぽっちもない。あたしを捨てやがったくせして。

 おぼこの頃、あんたにさえ出会わなければ、あたしは堅気のまんま家庭に入っていたのにさあ。

 この悪魔めが。責任取りやがれ!」


 ヨハンナに罵詈讒謗をぶつけられても男は寂しく笑うばかりである。


「そうだな。結局はおまえに悪いことをしたな。

 だが、あの時は真剣だったんだ。

 言い訳に過ぎないけどなあ。俺は遊びのつもりじゃなかった。俺は初めて恋をしてたんだ。おまえとな」

「なんだよう。気味が悪いじゃないか。昔の話なんかしやがって!

 なんでいつものように冷笑したり、『黙れ。売女め!』と叱りつけたりしないんだい」

「俺は故郷に帰っちまおうと思っているんだ。帰っても親も兄弟も残っちゃいねえんだけどさ。潮時というのを感じてな。

 それで、最後におまえの顔を見に来たというわけさ。ヨハンナ」

 

 ここでヨハンナは中二階の女の存在を思い出す。


「あーあ。辛気臭いったらありゃしない。

 あたしは新年を静かに祝っているんだよ。せっかくの気分が台無しじゃないか。

 しょぼくれた昔の男の顔なんて拝みたくもない。何も飲まずにとっとと出て行っとくれ!」


 恋というは不思議なものである。

 かつて熱烈に愛した恋人でも冷めてしまえば嫌悪しか残らない。しばしば相手に自分でも驚くくらいの冷たい仕打ちをしてしまう。

 だが、自分ではなく赤の他人がかつての恋人に何かをしようとする場合にはまた別の感情が沸き上がるものなのである。


 ヘルマンはヨハンナの内心の慌てようなど気づきもせずに話を続ける。


「昔のように一曲踊ってくれねえか?

 田舎にはおまえのようないい女はいそうにないからな。

 なに。音楽なら外にバイオリン弾きを待たせてある。心配はいらないぜ」

 

 ヨハンナは立ち上がってヘルマンのもとへ駆け寄り、グーでその胸を叩きにかかる。


「あたしは今でもあんたのことが大嫌いさ。顔も見たくない!さっさと出てお行き!」


 ポカポカと殴るヨハンナの腕を左手で軽く止めると、ヘルマンはまた寂しく笑う。


「俺の最後の頼みを聞いちゃくれねえか?

 俺みたいなやくざでも結構いい女と付き合ったと心に刻み付けておきたいのさ」

「あんた……。

 あんたはまた、そうやってあたしの心の隙間に入ってくる!

 だから大嫌いなんだよ。ヘルマン!」


 ヨハンナはヘルマンに取られた自分の腕の力が自然と抜けるのを感じた。

 そこへ暗く寒い外からバイオリン弾きの奏でるワルツが聞こえてくる。

 

「さあ。踊ろう。ヨハンナ」


 中二階の女は二人が一曲踊りきるまで黒いホルダーから紫煙を燻らせただけだった。

 曲が終わると女は静かに席を立ち、見つめ合っている二人をよそに店を出て行った……。


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