塔の女 1
塔の女1
「小野殿。わたくしは異世界語が解りませぬ。小野殿はあちらの方がなんと申されたか解りますか」
「はい。一応は。あの人は狼たちを殺してもいいか、と尋ねています」
「なるほど。それでは、殺生はやめてほしいとお伝えください。狼たちには人でいうところの後ろ三枚という急所を痛打しときましたので、後2刻(4時間)ほど動けませぬ。脅威にならない以上、殺す必要がない旨も伝えてくださいませ」
小野少年には彼が初めて異世界渡りをしたときにお節介な誰かからあらゆる異世界語の自動通訳・自動翻訳の機能が付与されていた。
彼は訳した。
『殺すな。狼たちは半殺しにしたので必要ない』
小野少年は立ち尽くしている5人と自分たちを見比べてみた。
まずは、声をかけてきた男。痩せて背が高い。40代だろうか。髪の毛は白髪の混じった茶金。目は灰色。極めて薄い青色と言えなくもない。
服装は膝まである焦茶色のチュニック。古ぼけて毛羽立っているうえに色落ちしかけている。
後の4人も色が違うだけで服装はほとんど変わらず。
彼らは決して豊かとはいえない生活を送っていそうだ。
ただ、あとの4人は非常に若い。顔には産毛があるばかりで髭が生えた跡がないのだ。20代にすらなっていないだろう。
全員暗めの金髪で、青目、青目、栗色の目、青目。
これに対して、小野少年は肩衣で打刀を差した姿ではなく、褐色のジャケットのうえから黒皮のベルトを締めたもとの制服姿である。
どんな異世界か分からなかったので着替えていたのだ。
一方、静寂尼は尼頭巾に墨染の衣。いつのまにか襷がけまでしている。しかも背がもとの世界ではかなり高い5尺3寸(約175センチ)もあるので、これで高下駄を履けば武蔵坊弁慶にしか見えない。
双方とも非常に胡散臭い。
極めて怪しい危険な雰囲気の漂う森の中で、自殺志願者でもあるまいに双方ともろくな武装をしているようには見えないのである。
5人組の方は、栗色の目の若造が腰に矢筒を具え小弓を携えているくらいで、あとの人たちは樫の棒切れとナイフしか持っていないようだ。
静寂尼は実はかなりの武装をしているのだが、パッと見にはただの杖を携えているようにしか見えない。
小野少年はもらった打刀を静寂尼に預けているので完全な無手である。
小野少年は相手方をジロジロと眺めているうちにお互いに挨拶と名乗りをしていないことに気づく。
世間では、初見の相手への対応はまず挨拶と名乗りが基本とされている。これは異世界でも同じだろう。
思えば、昔の中学生のイングリッシュ・テキストの冒頭もそうだった。海外駐在員の息子が公園で現地の同い年の男の子に声をかけるシーンだ。
ハロー。マイ・ネーム・イズ・ケン・オカ。
ハロー。マイ・ネーム・イズ・ボブ・ブラウン。
が、あくまでこれは基本。様々な事情が絡み合う世間というものは複雑怪奇。例外というものが存在する。
そういう意味で、相手方の一人が得体のしれない二人に挨拶と名乗りをすっとばして声をかけたのを許してもいい。
なんせ隣にはお昼ご飯を食べ損ね、常に一寸先は闇であると世の無常を絶賛噛み締め中の狼が18匹もいるのだから。
危機から生命を守るというのは生物としての本能であり、最優先事項なのだ。
『あと、申し遅れましたが、僕はコウドウ・オノといいます。こちらはセイジャク様です。彼女は東方の聖者の教えに忠実な信仰あつきシスターです』
小野少年も最後のは災難を招く余計な情報かとも思った。が、こちらはすでに静寂尼が怪しい服装で無双の働きを見せているのだ。誤魔化すことはできないと判断した。
5人組も少し驚き微妙な表情をしていたが、割りと素直に助けてもらったことの礼を言い、それぞれが名乗った。
バードルフ。ギャッズヒル。ポインズ。ピート。フランシス。
最初に声をかけてきた中年の男は、5人組みのリーダーでバードルフというらしい。
バードルフは少しばかり早口で問答の続きをする。
『殺すなと言われても、納得できない。今、殺しておかなければ後日コイツらに殺されるかもしれない。汚れるのが嫌ならオレたちがやります。解体には慣れているんで』
彼は自身がろくな武装もしていなかったにもかかわらず、イラついていた。
こんなデェンジャラスな世界でその余裕は一体なに?今日の強者は明日もそうであるとは言えないんだよ。潜在的脅威は芽のうちに摘んでおくのが常識でしょうが、と。
静寂尼は小野少年の顔を見る。通訳しろとの催促である。
「あの人は後顧の憂いは絶つべし、と言ってます。それと解体には慣れているから任せろ、とも」
「では、仏弟子には不殺生戒がありますと伝えてください。それに、諸行無常といいます。生への執着もまた苦しか産みません。必要以上に死をおそれ忌み嫌っていては心の平穏は永遠に訪れませんよ、とも伝えて下さいね。大事なことですから」
「あのう。静寂尼様。カルチャー・ギャップが有りすぎて伝えても理解されないと思いますよ」
第一、相手にそのまま伝えては怒り出すだろう、と小野少年は思う。
相手は悟り大事、解脱大事と考える仏弟子ではないのだ。異世界の人といえども命第一に考えるのが一般人、常識人のはず。突然、得体のしれないカルト宗教の信者みたいなのに命より心の平穏の方が大事ですよと言われてハイソウデスネと納得できるヤツはいまい。
小野少年は理解されない教えを素直に通訳するよりも、「モフモフはかわいい。かわいいは正義。正義に反するのは悪。悪は地獄を味わえ。それでもいいのか」というラノベ式超思考を伝えた方がまだ分かりやすいのではないかとも一瞬考えた。
が、その考えは無表情な静寂尼の顔を見て霧散した。
怖い。
身命を賭して精進している者を茶化すことなんて怖くて出来はしない。
仕方なしに、できるだけ分かりやすく通訳を試みる。
『東方の聖者の教えでみだりに殺生するなと戒められています。また、この世は一寸先が闇と言います。今日ある命が明日あるとは限らない。次の瞬間に失われることもある。命を粗末に扱う必要はないですが、それに囚われすぎてビビリすぎるのも見苦しい。必要以上に命にこだわっていては大事なものを見落としかねないのではないですか、とセイジャク様は仰られております』
『なるほど。不殺生というのは分からんけど、生き汚いのはいけないというのは何となく分ります』
バードルフの眉間のしわが少し緩んだように見える。
エッ。そんなんで納得しちゃうの?やはり異世界人の思考は分からん。こんなんならモフモフ論でも通用したかもしれない。
小野少年は複雑な思いを抱きながらも、わずかな異文化相互理解の可能性を見出して少しばかりホッとすることにする。
が、次のバードルフの言葉に凍りつくことになる。
『オレら一般の信者なんで難しいことはわからんのです。無作法をお許しください。セイジャク様は遠い異国から来た完全な信者様なんでしょう。はあ、まったく大変な時に来られたもんですなあ』
まずい。誤解された。信仰に生きる人たちは異教や異端を極端に嫌う。誤解が解けたら殺されるかもしれない。
『まあこんなところでグズグズしていてもあまり建設的ではありませんよ。サッサと場所変えましょ。場所』
小野少年は体勢を立て直すためとりあえず時間稼ぎをすることにした。
『ああ、そうだった。オレたち、塔の魔女様へ急いで知らせなきゃならないんです。セイジャク様も塔の魔女様にお会いに来たんでしょ。ご案内しますよ。早速行きましょう』
小野少年の試みは藪蛇に終わったようだ。




