扇子の影で2
扇子の影で2
寂れた横町の角にある、テーブルが5脚しかないバール(居酒屋)で、大柄な男がビールを何杯も呷っていた。
くそっ。どうしてだ。どうしてやっちまったんだ!
てめえで一番大事にしていたものに泥を塗っちまった!それほどあの男が憎かったのか!?
いや。ちがう。そうじゃ、ねえ。
最初からあいつは勝負を挑むのもおこがましいくらい格上だったんだ。そのうえ、あいつはこちらに一目置いて面を汚させねえよう、配慮までしてくれていた。
それなのに……。
わかんねえ。なんでやっちまったんだよう。畜生が!くそっ!くそっ!くそっ!
「おやじ。杯が空だ。ビール、もってこい!」
荒れた男におびえた店主がグラスに何杯もビールを注いで、恐る恐る持ってくる。
それを黒い絹布で右腕を吊った男が片手でひったくるようにして取り上げてまた呷りだす。
男の上着は上等の生地で出来ているが、派手すぎて普通の勤め人が着るようなものではない。正業に就いていないならず者の着るものだ。
服装からわかるように男はやくざものである。名前はヘルマン・ボルクマン。
最近まで裏社会ではかなりの強面で通っていた男である。
もとやくざの親分であるが、マリアカリアに子分たちを取られ、いまは一匹の狂犬である。
片腕しか使えないが、腕はまだ衰えていない。現に先ほども蹴りだけで店にとぐろを巻いていた3人のチンピラを沈めている。
店主が注いだビールもたちまち空になる。
ヘルマンがまた店主に声を掛けようとしたところ、テーブルにコースターが転がり、そのうえにビールの注がれたグラスが置かれる。
「おやおや。大荒れね。おじさま」
ヘルマンの前を青いドレスを着た、ほとんど白といっていいくらい薄い色のブロンドの美人がビールのグラスを片手に微笑んで立っている。
「ご一緒していいかしら。わたし。ひとりで寂しいの」
「帰んな。ここは上品な娘っこが居ていいところじゃねえ。俺を筆頭に質の悪い連中がわんさかいるからな」
「お気遣い、どーも。
でも、大丈夫よ。わたし。
周りで殺し合いをしているような、ここよりずっと殺伐としたところに長いこと居たんだから。そういうことには慣れちゃっているの」
「……植民地帰りか。おめえ。
いや。そうだとしても、おめえはここに居ちゃいけねえ。俺はやばいんだ。もうすぐ始末屋が俺を殺しに来る。巻き込まれるぞ」
「そういうのも大丈夫よ。この世界でわたしを傷つけられる者なんて一人しかいないわ。
わたしはそんなつまらないことよりおじさまのお話を聞きたいの。代わりにビールでもお金でも奢ってあげる。
お話してくださらない?ヘルマン・ボルクマンさん」
「……おめえ、始末屋だったのか。若い娘っ子が殺し屋だとは。時代は変わったな」
名指しされてグラスを持つ左手がピクリとしたが、さすがはもと親分、ヘルマンの声は震えていない。
だが。
「いやだわ。そういう勘違いは。
どこをどう誤解すれば、こんなにも優しそうな美人のお姉さんをそんな低級な商売の人間と間違えるのかしら。失礼よ。本当に」
「だったらどうして俺の名前を知っている!」
「教えてあげなーい。女は謎が多い方が魅力的に見えるというもの。フフフ」
「あきれた娘っ子だ。おめえは俺が怖くはないのか?こんなにも虚仮にされたのは初めてだぜ」
「ぜんぜーん怖くないわ。むしろ可愛いくらいよ。おじさま。
そんなことよりおじさま。始末屋が来るとはどういうことなの?教えてほしいな」
毒気を抜かれたヘルマンは下唇の片側を噛んだ。
「……いいだろう。考えてみりゃあ、始末屋だってプロだ。関係のない娘っ子の命までは取りはしないだろうさ。
この世の最後に、教会で告解する代わりにおめえに話を聞いてもらっても悪かないかもな」
青いドレスの美女が持ってきたグラスで勝手に口を湿らすと、ヘルマンはマリアカリアとの間で起こったいままでの顛末を話し始めた……。
「……ふーん。なるほど、ねえ。
おじさまは昔気質のやくざで、やくざの仁義を大切にしていたのに、あろうことか負けた相手を警察に密告してしまった。それを悔いているというわけね。
それで、都落ちもせずに仕返しに始末屋が来るのを大人しく待っているという……。
でもね。永久にその始末屋というのは来ないわよ。おじさま」
「!?」
「新聞読んでないの?さっきまで煩いくらい売り子が号外を叫んでいたのに。
いいわ。説明してあげる。
今朝方、その『プラチナ・ブロンドの男』という悪党は川岸で警官隊に追い詰められ、みんなの見ている前でしゃしゃり出てきた地方の憲兵将校よって撃たれたの。撃たれた『プラチナ・ブロンドの男』はそのまま氷の張り始めた冷たい川の中へどぼん。
撃たれて死んでなくても、凍死は確実よね。
アハハ。『プラチナ・ブロンドの男』は二度死ぬ、なんてね。馬鹿みたい。
だから、おじさまは仕返しをされない。永久に始末屋も来ない。理解できた?おじさま」
「かあっ!あいつ、死んだのか!?信じられん!」
「そう。『プラチナ・ブロンドの男』は死んだわ。永久にこの世に再び現れることはない」
ヘルマンは顔を暗くして沈黙してしまった。
「あらあら。どうしちゃったの。おじさま。
これで生き残れるのよ。嬉しくないの?
『プラチナ・ブロンドの男』はワンマンだったから、死んじゃうと残りの組織が義理立てしておじさまに仕返しすることもあり得ないわ。うん?」
「……少し黙っててくれないか。俺は。俺は……」
黙って殺されることで最後にやくざの矜持を見せようとしていたヘルマンはその望みまで絶たれて、思わずテーブルを自由の利く左腕で殴りつけた。
「ダメな男だ!」
* * * *
「わたしでなかったら確実に死んでいるぞ!カール・フォン・ヘラーリング!」
暖炉の傍でマリアカリアがハンカチでブズブズと鼻をかみながら発案者に抗議をする。
「馬鹿みたいに冷たい水だったんだぞ!もう少し時期がずれていたら、わたしでも死んでいた」
「いいじゃないか。生きているんだし。
1月になると川は完全に氷で覆われる。川の中を潜って姿を消すには今しかなかったんだ。仕方がないことだと納得しろよ」
「おまけに川の水は濁っていて、温める準備をしている連中のもとへたどり着くまで5分近くも冷たい水の中で迷った!
川へ下水がそのまま垂れ流されているなんて事前に聞いていなかったぞ。低温症で死ななくても、未知の病原菌にでも侵されたらどうしてくれるんだ!」
「心配するな。エリカが床に伏している間は首都の治安もだいぶよくなる。みんなが幸せになって不都合なことは何一つないさ。
君は(衣服の)下にワセリンをたっぷり塗り込んだ水着を着ていた。時刻を計算して影になって見えないところに計画通りに落ちた。見ていた人間は一発だけ空砲弾になっていた3発目に君が撃たれたと信じた。
計画に何の落ち度もない。抗議は受け付けないぜ。
だいたい俺は憲兵なんだぞ。首都の警官だったらこんなことに最初から加担して苦労したりはしない。逮捕して終わりだ。
三文芝居までしてさ。感謝こそされ、怒られる理由はないと思うぜ」
「ぐっ。……それについては感謝してるさ。これであのしつこいハンス・リッターも諦めたことだろうし」
「相当、やつは怒り狂っていたぞ。手入れをしたホテルから何一つ(犯罪の証拠が)出なかったからな。
なにしろ裏のオークション会場とおぼしき場所に踏み込んでみたら掃除夫が一人ハムサンドを齧っていたんだ。頭に来てしまうだろうさ。
おかげで俺まで八つ当たりされたぜ。『田舎者のくせに、なんでしゃしゃり出てくるんだ!』って、ね。
やつはどうしてもエリカを逮捕したかったらしいな」
「警視を出し抜いたのはこれで2回目だからな。恨まれるのも仕方がない。
でも、どうして彼はわたしに執着するんだい?わたしのした悪いことといえば、裏社会の強面を二十数人、痛めつけただけじゃないか。そんなに悪いことをした覚えはないんだけれども」
「自覚のない犯罪者ほど質の悪いやつはいないな。
いいか。多くの傷害行為のほかに、君は大規模脱税、偽造旅券の所持、多数の盗品の斡旋、恐喝、組織的な売春行為の助長・斡旋などなど、首都の治安を守る敏腕警視に目の敵にされるだけの犯罪行為をしているんだぜ。
エリカ・リューネブルガーに生まれ変わった以上、もう完全に足を洗えよ。そうでなくちゃ、俺の苦労は水の泡だ」
「感謝しているよ。カール。恩を仇で返す様な真似はしない。
女たちの年金は真っ当な商売で算段するよ。
それよりカール。今回のことで君はだいぶ無理をしたんだろうな。風当たりがきつくないかい?」
「大丈夫だよ。首都の警察から手柄を横取りにされたと白い目で見られたくらいだ。
傑作なことに『プラチナ・ブロンドの男』を退治した褒美に勲章までくれるという話まであったくらいさ。むろん断ったがな。
それに」
厳めしい憲兵少佐は肩をすくめる。
「俺はもう憲兵をやめようと思う。少佐のまま退役して父上の引退まで公女殿下の侍従をするつもりだ。
エリカに出会ってから俺はつくづく憲兵には向いてないと分かったからな」
「……その、なんだかすまん」
しょんぼりとするマリアカリアをカールが優しく見つめる。
「謝ることはない。物事を一面的にしか見られない俺が正義を振りかざすなんて似合わないと気づいただけさ」
微妙な雰囲気となったふたりの横を楚々とした人影が差す。
「あら。カール。何を楽しそうにエリカさんとお話しているの?
楽しいお話だったらわたくしにも聞かせてほしいわ」
「!?」
1か月前、公女殿下と同時期に熱病を患って倒れてから様子がおかしいペーラ・アンナが上品そうに笑っていた。




