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扇子の影で1

 扇子の影で1


 公爵夫人の誕生日からほぼ1か月が経った。


 季節は冬。

 降誕祭を控えた待降節に入り、首都のどの家庭でも毎日をナッツとドライフルーツを煉り込んだシユトーレンを薄く切りながら降誕祭を指折り数えながら待っている。

 街往く人々の装いもすっかりコートを手放せないものとなり、貴婦人たちの手にはマフがはめられている。


 公爵夫人の誕生日では結局、ルドルフと公女クリスティーネの婚約は発表されなかった。

 その前夜、公女クリスティーネが急な発熱で倒れて意識不明の重体に陥ったのが理由である。


 公式に婚約の発表がなされなかったこと以外、表面上はルドルフたちの状況は変わっていない。



 今朝は珍しくも朝のご機嫌伺いで公爵夫人がルドルフに挨拶以外の言葉を投げかけた。


「今日も出かけるの?ルドルフ」

「はい。公爵夫人。墓地へ詩作を練りに参ろうかと思っております」

「墓地?詩作?」


 ルドルフの答えに公爵夫人は眉を寄せる。

 公爵夫人はまだまだ諦めていない。次の婚約発表の機会までルドルフに悪い虫がつくのを警戒し、監視を強めているのだ。

 彼女は最近、ルドルフが人目に付かない場所を選んで足しげく通っていることを知っている。


「冬の墓地は静かでそれは美しいのです。公爵夫人。

 想像してみてください。銅像やモニュメントが雪に覆われ、墓守さえもいない沈黙の墓地を。その白い地表の下、今は眠れるかつての栄光の人たちのことを。

 なにかお感じになることはございませんか?」

「おや。ルドルフはそんなにロマンチストだったのかしら?

 でも、詩作なら暖かい暖炉の傍でもできるのではなくて」

「いいえ。公爵夫人。詩作には情熱がいるのです。頭の中で考えていただけでは勢いは生まれません。

 体験が火をつけ、その火を糧にさらに勢いが生まれるのです。詩作は殊にそうですよ。

 それに」

 ここでルドルフが公爵夫人説得の決め台詞を放つ。

「公女殿下もロマンチックな詩が大好きなのです」


「あら。そうなの。

 では、行ってきなさい。でも、へぼな詩作で殿下をうんざりさせることは許しませんよ」

「もちろんです。公爵夫人」


 ルドルフと公女殿下の間はこの一か月の間で急速に接近した。

 ルドルフが病床の公女殿下を見舞ってから、ルドルフが訪れる度、殿下は嬉しそうなお顔をなされる。

 それゆえ、公爵夫人はこのルドルフの決め台詞に弱い。

 しかし、公爵夫人はルドルフを信頼しているわけではない。彼女は最近のルドルフの顔が生き生きとしているさまを見逃してはいないのだ。


 ルドルフの嬉々とした退出ぶりを見送った公爵夫人は従僕を呼ぶため鈴を鳴らす。


「ルドルフの後をつけるのです。本当に墓地へ行ったとしても誰かと会っていないかしっかりと見張るのよ」


  *       *        *        *


 従僕が苦労してルドルフの後を追うと、ルドルフは本当に人気のいない墓地にいた。

 彼は緑のフロックコートの上に襟に毛皮の付いた外套を羽織り、寒さに顔を赤くしながら雪に埋もれた天使像の前に佇んでいる。

 周りは貴族たちの墓所や著名な芸術家たちの墓があり、様様な彫像やモニュメントが立ち並んでいるが、その中でもこの羽を広げて手招きしている天使の像がひときわ気高く美しい。


 ルドルフは恍惚として男爵夫人に似た天使の顔を仰ぎ見て身じろぎもしない。

 半時間もそうした後、ルドルフは懐から手帳を取り出すと何やら書き綴りだした。周りには人っ子一人現れない。

 これでは寒さを堪えて見張っている従僕も諦めざるを得ない。


 従僕が帰ってからさらに半時間ほど時間をつぶしてようやくルドルフは目的の場所へと向かった。


 墓地のはずれには葬儀後の精進落としをする料理屋がある。

 その料理屋の予約した特別の個室には喪服姿の、ベールで顔を隠した婦人が一人待っている。



 熱いショコラ(ココア)を持ってこさせた給仕が去り、その個室でルドルフとベールの婦人とが二人きりになると、ようやく婦人がベールを上げて言葉を発する。


「寒かったのね。(お顔が)真っ赤だわ。

 ルドルフ。もっと暖炉の傍におよりなさいな。そして、わたくしにその愛らしいお顔をよく見せてちょうだい。わたくし、確認しないと堪らないのよ」


 マルガレーテが急くように甘い言葉を投げかける。

 恋愛は本当に人を変えるようだ。冷たい美人で通っているマルガレーテが熱い何かに飢えている。


 暖炉の傍、マルガレーテが持ち込んだ厚い絨毯と毛皮の上でふたりは長い接吻を交わした。

 暖炉の火の照りがマルガレーテの白いうなじを艶めかしく見せる。


 接吻ののち、お互い、しばらく見つめ合うと、あとはもう夢中である。

 ふたりはこの一か月の間でプラトニックな恋愛だけでは飽き足らずにお互いの肉体まで求めるようになっていた……。



 ことが終わり、ふたりは抱き合ったまま陶然となっていると、急にマルガレーテの心に一つの疑念が浮かぶ。


「前から思っていたのだけれど。貴方。女性の扱いが上手すぎるわ。わたくしの前にも女性がいたんでしょう。白状しなさい!」

「そんなことはないよ。貴女が僕の初めての人です。マルガレーテ」


 ルドルフは突然の攻撃に少し戸惑ったが、彼女が嫉妬しているのだと知って逆に嬉しくなる。


「僕は器用なんだ。泳ぎでもダンスでも一発で覚えられる。

 現に、前はワルツなんか踊れなかったけれど、それは今まで社交界に興味がなかったからさ。今では一流とまではいわないけれどそれなりには踊れるようになったよ。だって、ワルツを覚えると、貴女のお顔を見ることのできるチャンスがそれだけ増えるからね。

 まだ疑うの?」


 不審顔のマルガレーテににっこりすると、ルドルフはもうひとつ種明かしをする。


「自分では女性の扱いがうまいとはとても思えないけど、貴女がそう思えるのは、たぶん僕が一つのアドバイスを必死になって実践しているからだと思う。

 僕には一人のすれっからしで遊び人の老僕がいるんだけれど、そいつが言うには『ベットの上の男女の関係では男の役割は奉仕の一言に尽きますぞ』なんだ。つまり、相手のことをできるだけ思いやれ、と言う。

 これは僕も真理だと思う」


 確かに、ルドルフの老僕が言うようにたいていの男は相手の女性を喜ばせることに無上の喜びを感じ、ベットの上ではそれに夢中になる(できないのは、本当のエゴイストか自分の興奮を抑えられない初心な男の子だけである)。

 老僕がそれを『奉仕』と例えるのにも頷けるところである。男の肉体的な快楽は一瞬にしか過ぎない。長い時間、男はひたすら相手のためだけに苦労しているのである。

 一見、損な役回りにも見えるが、そうすることで男はあさましい征服欲を満足させるのであって、嬉々としてこの『奉仕』をする(逆に相手の嬌態が演技だと知った時の男の落ち込み様はすさまじい)。


 しかし、ルドルフが種明かしをしても、恋愛におぼれかけているマルガレーテは嫉妬に狂ってなかなか納得しようとしない。


「じゃあ、つい最近まで公爵の館に一緒に住んでいたペーラ・アンナとの関係はどうなの?プスタ平原の片田舎でその『奉仕』とやらを彼女相手にお励みになっていたのではないのかしら?」

「酷いことを言う。彼女とは唇にキスしたことすらない。プロポーズをして誤魔化されたことはあるけれども……」


 目を剥くマルガレーテに対してルドルフは肩をすくめる。


「貴女が知りたいのならどんなことも秘密にしないよ。あの当時は幼馴染のアンナこそが一番だと思えたんだよ。

 正直に言って僕は彼女のことがいまだに好きだ。彼女は粗野だけれどもすっきりした性格の愛らしい女性だよ。嫌う理由がない。

 でも、その感情はマルガレーテに対するものとは全く違う。愛していると思えるのはマルガレーテ、貴女一人だけだ。そうでなくては『奉仕』など誰がするもんか!」


 ルドルフがはっきり言い切ったことでマルガレーテはようやく安心した。

 だが、今度はルドルフの方に別の疑念が浮かんできた。


「それはそうと、最近、アンナも公女殿下もなにか様子がおかしいんだよ。

 マルガレーテ。何か知らないかい?」

「様子がおかしいとはどういうことなの?」

「どう言ったらいいのか。言葉では説明しにくいことだけどね。

 つまり、公女殿下に関しては普段のご様子は熱で倒れられる前とはあまり変わっていない。でも、僕を見る目が確実に以前のものとは違う。熱っぽく潤んでいるんだよ。彼女の目が。

 そう感じるのは僕が自意識過剰なせいじゃないよ。

 あの目は僕を追いかけて公爵の館に転がり込んだときのアンナの目にそっくりなんだ。気味が悪い。

 逆に、最近のアンナ(既に居をサボイ・ホテルに移していて公爵の館にはいない)は妙にすましている。僕の顔を見ても以前のように感情を顕わにしないし、優しく微笑むだけ。まるで公女殿下と入れ替わりでもしたような変わりようなんだよ」

「そう。でも、そんなこと、わたくしたちとは関係のない、どうでもいいことではなくって?

 あの公女殿下がご自分の恋人(フランツ)を捨ててルドルフに執着しだしたというのなら話は別ですけれど。フフ。そんなことはありえないわ。絶対に」

「そうだといいんだけれどもなあ。でも、何か僕たちに悪いことが起こりそうな予感がするんだ。心配でたまらないよ」

「馬鹿ね。ルドルフ。そういう根拠のない運命論に振り回されるのは老人とか幼い子供たちだけで十分よ。

 そんなものに振り回される暇があったら、もっとわたくしを愛して頂戴な」

「……うん。そうしよう。

 人目を避けて愛を囁いているから、心のどこかでやましく感じて疑心暗鬼に囚われているせいかもしれない」

「あら。また、その話?

 人目をはばかることなく恋愛のできる日向の世界で愛し合っても、逆に人目をはばかる日陰の世界で愛し合っても、お互いが愛し合っていることには変わりがないわ。

 (日向の世界を求め)何もかも捨てて愛だけに生きるというのもひとつの魅力的な生き方かもしれないけれども、ほんの少しだけ体裁屋の世間と折り合いをつけさえすれば何も捨てずに愛し合うことだって可能なのよ。必要もないのに何もかも捨てるなんて、恋愛に酔っている小説上のヒロインみたいで滑稽じゃないこと?

 恋愛をしている自分に酔っている暇があるのなら、もっと真剣に相手を愛すべきなのよ。そうじゃなくって?」


 マルガレーテにとってみれば、自分の夫の存在や世間の道徳、掣肘などといったものは道に設けられている、見え見えの落とし穴か罠程度にしか感じられない。回避可能なのに、わざわざそんなものに引っかかる方がどうかしている。

 彼女は自分の軽蔑しているものを喜ばす真似だけは金輪際したくはない。


「……でも、辛くはないのかい?

 僕はもうすっかり貴女に捧げてしまっている。誰に後ろ指をさされようと構いはしない。大した地位でも身分でもないけれど、こんなもの、いつだって捨ててしまえる」

「辛くはないわ。

 だって、ルドルフはわたくしを認めてくれた。そのうえ、地位と身分とかいうようなつまらないものじゃない、もっと大切なものをも捧げてくれた。十分すぎるわ」


 マルガレーテは自分をなおも気づかう愛らしい男にいたずらっぽく微笑みかける。


「フフフ。でも、わたくしは貪欲な女なの。足りないわ。もっと愛して頂戴。もっと『奉仕』して頂戴!」

「よーし。それなら一晩中、一緒にいよう。徹底的に『奉仕』してあげるよ」

「きゃあっ!」


 ……この余計なやり取りがあったため、料理屋の個室は予約時間を過ぎても一晩、貸し切りの状態となり、薄明るくなった翌早朝の雪道を一人の青年がベールで顔を隠した喪服姿の婦人を抱えて黒馬を疾走させることになった。


  *       *        *        *


「少佐。もう一週間も雪が降っているな。ちらちらとだが」


 ホテルのカフェから窓の外を眺めるマリアカリアが呟くようにカール憲兵少佐に告げる。


「ああ。そうだな。

 わたしにとってはこの猥雑な首都が一番、よく見える時期の到来だ。すべての汚いものが雪で覆われて見えなくなる」

「見えなくなるだけでは何の解決にもなっていないじゃないか。どこに安心できる要素がある?」

「安心はできなくても、気は紛れるのさ」

「ふん」


 最近、カール憲兵少佐に会うときは、マリアカリアは決まってブルネットの品のいい婦人姿になる。

 そして、カールも疲れると、なぜだかマリアカリアに無性に会いたくなる。


 ふたりが会っても甘い睦言を交わすことなどないのだけれども、ふたりはいつも何かを期待してしまう。


 ホルダーに紙巻きを詰めたマリアカリアが思い出したかのように木箱をカールの前に置く。


「?」

「少佐。少し早いが、プレゼントだ。

 中身は葉巻だよ。賄賂ではないから安心して受け取り給え」

「おお。そうか。それはどうもありがとう」


 驚いた表情のカールが小さい声で礼を言う。


「驚きはしたようだが、あまり嬉しくはなさそうだな。すまない。

 わたしは男装をよくするけれども、男の心理はよくわかっていないのだ。男の喜びそうなものが思いつかなかったんだよ」


 マリアカリアの少し沈んだ調子の釈明にカールは本当に慌ててしまう。


「いやいや。嬉しいよ。本当に。

 言い訳だが、俺はこの年になるまで女性に物を頂いたことなんかなかったんだ。子供のころ、公女殿下に弟と一緒に押し花をもらったこと以外には、な。だから、驚きの方が強くて喜びをどう表現すればいいのか頭が回らなかった」

「喜ぶのに頭を回す必要はないだろう。

 まあ、いいさ。義理でも喜んでくれるのなら用意した甲斐がある」

「拗ねるなよ。

 なんなんだ。君はいつも変っているが、今日は特に変だぜ」

「降誕祭では親しい人同士で贈り物をする風習があると聞いた。

 少佐に打ち明けたようにわたしには過去の記憶がない。かつてこの広い世界のどこかでわたしは親しい人と贈り物を交わしていたのかと思うと、だな。つい感傷的になってしまうのだよ」

「……君らしくもない。

 それに、降誕祭で贈り物をする風習があるのは一部の地域だけだ。外国では知らんが、連邦ではそうだ。俺の故郷のブレスラウなんか、一年で一番悪い子だったものを鞭で打つ日なんだぞ(小姓時代、城で鞭打たれる悪童といえば弟に決まっていたから別段恐れる風習ではなかったが)。感傷に浸る必要はないんじゃないのか」


 マリアカリアはホルダーを口から放して紫煙を吐き出す。


「わたしはどう考えても連邦の人間ではない。肌は浅黒いし、この時期の雪を見ても心浮き立つこともない。遠い異国の人間だ。

 それなのに、待降節を女の身でひとりホテル住まいをしているんだぞ。感傷的になって当然だろう。

 まあ、いい。記憶はないが、こういうことになったのも自分で決めたことらしい。自業自得さ。

 話を変えよう。

 さっきから気になっているのだが、少佐。なぜ以前のようにわたしのことを悪党呼ばわりしないのだ?」

「婦人を『悪党』だとか『女衒』呼ばわりするのはひどいと思ってね。そうかといって、女たちのように『Z』や『シガー』と呼ぶのも気が引ける。『君』としか呼びようがない」

「レナーテ夫人はどうなんだ?」

「あれは偽名だろう。それも実在の人物がいる」

「それじゃ、わたしに名前をつけてくれ。

 さっき葉巻のプレゼントをしただろう。お返しに名前をくれてもいいじゃないか。

 親しくなりたいと思っている人間からいつまでも『君』『君』では気分が悪い!」


 言ってしまってからマリアカリアは顔が赤くなった。


「いまのは忘れてくれ。今日は本当にどうかしている。

 心の中に秘めた女性がいる男にねだるものではない」

「いいさ。殿下のお心に俺の名前が浮かぶようなことは永久にない。報われない恋心にもいつかは卒業しないとな。

 ただし、だ。名前を付けるには条件がある。俺はパイプ専門で葉巻は嗜まない。どのように楽しんでいいのかよくわからないから、それを教えること。それから、俺のネーミング・センスはすこぶる悪い。ひどい名前を付けられたからといって怒るなよ」


 カールはもらった木箱を開けて葉巻を取り出しながら事も無げに言った。


「ふん。……少佐は見かけによらず、お人よしらしい」

「それはお互い様だ。俺は君が女たちにしてやっていることを知っている。だから、悪く思えないんだ」

「少佐。それは勘違いだ。

 わたしと彼女たちとの関係はギブ・アンド・テイクだ。わたしが保護と資金を融通する代わりに彼女たちから自衛のための情報と労力を得ている。対等なんだ。一方的に何かをしているわけではない」

「では、乗っ取ったホテルで阿漕な商売をして儲けたお金はどこに使われる?彼女たちの年金のために使われるのだろう?教会や篤志家たちですらそんなことまで手は出さない」

「少佐。記憶を失い、右も左も分からないわたしを最初に助けてくれたのは彼女たちなんだ。

 世間では後ろ指をさされる娼婦の中でも一等下に見られる私娼の連中さ。

 彼女たちは成りたくてそういう商売をしているんじゃない。

 足を怪我してしまったもと踊り子。顧客の機嫌を損ねて干されてしまったお針子。つまらない理由で(ひどいのになると主人にはらまされて厄介払いのため)追い出された女中。

 食べるに困って仕方なしにしているのがほとんどだ。

 荒れているし、一様に貧しい。それでも、そんなみじめな連中が困っているわたしに手を差し伸べてくれた(男だと勘違いしていたわけだが)。

 わたしは彼女たちから恩を受けているんだ。返さなくてどうする」

「そのために命を張って裏社会の危険な連中と渡り合い、悪名を高めて、今では警察の要注意人物ナンバーワンとなって追われているわけか。

 俺が気に入らないところはそこだ。君がカジノでギャンブラーをしている程度で済んでいたのならもっと気楽に付き合えたものを。なんでそこまでするんだ!

 一つ忠告しておいてやろう。あの警視はまだ諦めていないぞ。オテル・ド・サンドリオンの事情もある人物の密告によりつかんでいる」


 話がずれていき激高し始めたマリアカリアが少佐の最後の一言に冷静になり、ため息をついた。


「少佐。捜査情報の漏えいは罪に問われるんじゃないのか?」

「『プラチナブロンドの男』など、この世には存在しない。いるのはお人好しで向こう見ずな女性だけだ。そんな女性に漏らしてもただの独り言にすぎない。

 それよりも、もう金は十分に持っているんだろう。潮時だ。何もかも捨てて生まれ変われよ。エリカ・リューネブルガー!」


 マリアカリアには警視に密告した人物の心当たりがあった。右腕を折っただけで始末までしなかったヘルマンというやくざのもと組長である。甘かったとはいえ、マリアカリアには人殺しはできない。


「潮時か。そうかもしれない」

 マリアカリアは寂しく笑う。

「それにしても酷い名前だな。

 エリカ・リューネブルガー。

 酷いが、情のある人間がつけてくれた名前だ。大切に使わせてもらうよ。少佐」


 エリカとは荒野に咲くツツジ。英国で言うヒースに当たる。そして、リューネブルガー・ハイデ(荒野)とは白や薄い赤紫色のエリカが咲き乱れる有名なところである。

 自身で言うように少佐のネーミング・センスは酷いものだが、あえて生きにくい道を進もうとするマリアカリアの生きざまを的確にとらえているようにもみえる。それゆえ、マリアカリアも文句を言いながら受け入れた。


「円滑に生まれ変わることについてひとつ提案がある。聞くつもりはあるか?」


 少佐がここまで来たら仕方がないとばかりに決意を吐き出す。

 マリアカリアも覚悟した男の言を無碍にする性分ではない。軽く頷く。


「『プラチナブロンドの男』は一度、完全にこの世から消えるべきだ。俺に追い詰められて果てるがいい」

「わたしに死ねということか」

「そうだ。みんなの前で俺に討たれるんだ。

 なに。少し冷たい目にあうが、エリカ・リューネブルガーに生まれ変わるのならこれくらい大したことではないさ。心配するな」


 少佐の不吉な申し出にマリアカリアは不敵な笑みを浮かべる。


「どうして、そいつは降誕祭の素敵なプレゼントじゃないか。どうもありがとう。感謝するよ」




 

 



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