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逃走12

 逃走12


 目は口程に物を言う、とは、よく言われていることである。しかし、言葉を発しない唇も時として多くのことを物語る。


 最初に心を奪われてしまったのがルドルフであることはたしかである。

 しかし、勘のいい彼はすぐに気づいた。

 この女性は満たされているようで本当は満たされていないんだ、と。


 何度か目の出会いで、マルガレーテがルドルフに対してとった態度。

 そのとき、階段の上にいた彼女はとっさにルドルフに抗うような、怯えるような仕草で掌をかざして顔を背けた。

 しかし、彼女の唇が震えていた。痙攣のように形のいい彼女の唇が三日月型を作ろうとしては止め、作ろうとしては止める。


 彼女の唇の動きを見てルドルフは切ない気持ちになった。


 ああ。彼女は今までの自分の生き方が壊れるのを恐れている。でも、それ以上に何かを欲している。期待している。

 それはどうやら、僕。いや。僕の持っているものらしい……。


 ルドルフは思う。

 結局、彼女は孤独だったんだ。彼女は美しく、そして何でも持っているが、そんなものでは何の慰めにもならなかったんだ。

 僕の前を何人もの美男や才人、金持ちたちが彼女を訪れていたはずだが、どうやら彼らでは彼女の期待には応えられなかったらしい。

 なぜ、僕なのかは分からない。

 でも、彼女がすべてを壊してまで欲しいというのであれば、僕は構わない。僕でよければ何でも捧げたい。



 今、ルドルフの傍にはペーラ・アンナがいる。

 最前からルドルフの背中に頭突きをかまし、拳骨で殴ったり、抱きしめたり。しまいには泣き出した。


「ごめんな。アンナ」

 一言だけ呟くと、ルドルフはアンナの頭をやさしく撫でた。

 彼にはアンナの気持ちが痛いほどわかるが、どうすることもできない。悲しいマルガレーテを見てしまったからには、すべてを捧げ尽してどこまでもついて行くしかないのだ。


  *       *        *        *


 劇場から帰ってきたマルガレーテを夫のアルフレードが居間で待ち受けていた。

 アルフレードはブランディをかなり飲んでいたらしい。高価なガラスの容器の中身がかなり減っていた。

 しかし、アルフレードに酔っている雰囲気はない。


「ただいま。貴方。

 それにしても、だいぶお酒を召し上がったみたいね。何かいいことでもおありになったのかしら?」

「マルガレーテ。君には分かっているはずだ」


 劇場からの衣装のまま居間へと入ってきたマルガレーテに対してアルフレードが苦しい悲鳴を上げる。


「不倫の噂が消えてしまったことかしら。わたくし、老公爵夫人のお指図通りうまくやりましてよ。フフフ」

 マルガレーテはすまし顔で意味のない作り笑いをする。


 ガシャン

 アルフレードが持っていたグラスを暖炉に叩きつけた。


「なぜ、そう、わたしを苦しめるんだ?嘲り笑って。

 わたしが何か、君を苦しめたか?

 今まで君に尽くしたことはあれ、君を虐めた記憶などないぞ」

「わたくしには貴方がなにをおっしゃっているのか、わかりませんわ。ええ。さっぱりと。

 どうやら貴方はかなりお酔いのようですわね。今宵はもうお話をできるようには見受けられませんので、明日に致しましょう。

 わたくし、下がらせてもらいますわ」


 扉へと向かうマルガレーテの後ろを立ち上がったアルフレードが追う。


「待つんだ。マルガレーテ。

 君には分かっているはずだ。わたしが気付いていることを」

「そうですの?でも、貴方は何にお気づきですの?」

「すべてだ。君があののぼせ上がったルドルフに恋をしていることも、ルドルフ以外のすべてを軽蔑していることも!」


 立ち止まったマルガレーテがアルフレードを凍り付かせるような冷たい声で言う。振り返りもしない。


「あら。そうですの。やはり賢い方は違うのですね。

 でも、それがなにか貴方にとって不都合なことでもおありになって?

 噂は払しょくされましたわ。貴方の外聞は守られました。それでいいではありませんこと?」

「お、おまえ……」

「おお。怖い。

 わたくしは貴方に人前では貞淑な妻を演じると誓いました。今までその誓いを破ったことはございませんわ。

 貴方がお言いつけになるなら、それこそ、わたくしは人前で奴隷のように傅いてもみせましょう。

 人前ではわたくしは貴方の所有物。

 それでいいではありませんか。何がご不満なのでしょうか」


 アルフレードは絶句した。

 確かに結婚前、そういう約束を交わした。でも……。


「君は気づいていないのかもしれない。

 でも、わたしは君のことが好きなんだ。前から愛しているんだ。分かって欲しい」

「あら。そうでしたの?

 それはお気の毒様ですわね。同情を申し上げますわ。

 わたくしがもし貴方の立場なら居たたまれませんわ。絶望してしまうかも。いくらお慕いしてもお相手が何の感情も抱いてくれないなんて。ね?」


 マルガレーテは振り返りもしないが、アルフレードには彼女が冷たく嘲笑っているのがよくわかる。


「くっ。惨い。惨い女だ!

 でも、なぜなんだ?

 なんでルドルフなんだ?わたしのどこがいけない?見てくれが悪いせいか?いや。今まで何人もの、ルドルフ以上の美男が君に恋していたから、それは理由にならない」

「惨い?恋?」


 ここではじめてマルガレーテは振り返る。

「よく分からないお言葉が出てきましたけれど?

 この際、はっきりと申し上げますが、貴方を含めて誰一人としてわたくしに恋したひとはいないわ。

 お口では愛だの恋だの盛んに囁いていらっしゃったようだけれども、そんなのはただのごっこ。恋をしている方たちの真似をしただけ。

 あなた方のしたことは、わたくしを綺麗なお人形か何かだと勘違いされて子供のように欲しいと駄々をこねられただけのことですわ。

 そんなあなた方とわたくしのどちらが惨いのでしょうか?

 確かに、わたくしは自分の生きざまを自分で決めることができるよう、それをさせてくれる力のある殿方を求めておりましたわ。

 でも、それは恋ではありません。貴方と結んだのも契約ですわ。

 わたくしは自分でも忘れてしまい、知らないまま、他人に本当の自分を気づいてもらいたがっていた。

 わたくしの本当に気づいてもらいたかった部分にはじめて気づいてくれたのがルドルフだった。しかも、彼は気づいただけでなく、わたくしのためすべてを捧げてくれたわ。

 あれがひとを思いやる心というものよ。

 わたくしが人のことをおもちゃとしか見ないあなた方ではなくてルドルフに恋をするのは当然ではなくって?」


 マルガレーテははっきりと軽蔑を示す。

「なまじ頭が良いのも大変ですわね。貴方。

 老公爵夫人のように愚かであればなにも気づかずに満足しきっていられたものを」


「おまえという女は!」

 打ちのめされたアルフレードが蒼白な顔でマルガレーテの肩をつかんで乱暴に揺する。

 マルガレーテはされるがまま。顔には薄ら笑いさえ浮かべている。


「お殴りなるの?それとも獣のようにわたくしを押し倒すのかしら?

 そんなことをしても何の意味もないことを賢い貴方には分かっていらっしゃるわよね。

 どうでもいいことですけれども。

 わたくしは今、幸せなの。人生で初めて満足というものを感じているわ。

 貴方がわたくしに何をしようとわたくしの幸せは壊れはしない。お好きになさるがいいわ」


 アルフレードは力が抜け、肩をつかんでいた手がだらりと下がった。


「ああ。なんていうことだ。それでも、おまえはわたしの妻だ!妻なんだ!」


 アルフレードの絶叫は長いこと続いた……。


  *        *        *        *


 マイゼル老公爵夫人の誕生日(つまり公女クリスティーネとルドルフの婚約発表)の前日の朝、ブレスラウ公は首都へ到着した。


 首都のレールテ駅にその特別列車が入ってくると、プラットフォームに詰めていた軍楽隊から壮麗な国歌が演奏される。

 ブレスラウ公の訪問は非公式なものとされていたが、連邦の宮内大臣は駅にそれなりの歓迎を用意していた。


 客車の前には赤絨毯が敷かれ、傍らに胸に勲章をいくつもつけ礼装した高級将校たちと公女殿下、それにカール憲兵少佐が並ぶ。


 公女殿下とカールの顔はあまり晴れやかなものとは言えない。クリスティーネは緊張しており、カールのは物憂い。


 音楽の流れる中、昇降口に軍装のブレスラウ公が現れた。皆に軽く敬礼をしてから客車を降りる。

 

 白の、ふさふさとしたつば広の帽子を被った公女クリスティーネが赤い絨毯の上、前へ進み出て、公へ腰を下げて敬意を示す。

 これに対して、公は娘の右手を握り締めて、二言三言、何かを囁いた。


 クリスティーネは顔面蒼白となるが、なんとか倒れるのを堪える。支えようとするカールを僅かに手で払う仕草を見せて制止した。


 公は何事もなかったかのように先頭に立ち、立ち並ぶ儀仗兵たちの前を帽子に手を当てて歓迎に応えながら進んでいく。



 近くのプラットフォームでは、何事かと集まる群衆を警官たちが制止するのを尻目に様子を見ていた青い服の美女がニッコリと笑う。


「あーあ。お姫さま。お可哀想に。これで婚約の成立は避けられないわね」


 セルマは事態がより深刻になるよう行動に出ることにした……。





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