逃走11
逃走11
この時代、女性のファッションはようやくクリノリン(スカートを膨らます大きな枠)から解放され、コルセットだけとなった。もっとも、馬のお尻のようにスカートの後ろを膨らませるバッスルが消えたのはまだ数年前にすぎない。
つまり、女性のふくよかな体型が嫌われ出し、コルセットを使いうんとウエストを絞った痩身が流行しつつある時代である。
冬が近づきつつある首都の並木道を落ち葉を蹴散らせながら、マルガレーテはマイゼル公爵の館を目指して馬を走らせる。
マルガレーテの出立ちは、灰の混じったような薄紫色の上下の乗馬服で身を固め、首元からは襟の詰まったホワイトワーク刺繍を施したシュミゼット(前面を首から下にかけて埋めるブラウスシャツ)を覗かせていた。
もちろんスカートにはクリノリンは入っておらず、馬に横座りして垂れる裾はそれほど広がっていない。
肩にフード付きの白い袖無しコートを引っ掛け、額の方に傾けて被ったトップハット(小型のシルクハットのようなたて長の帽子)からは巻きつけた長い白いベールを靡かせる。
マイゼル老公爵夫人には手紙で事前に訪問を伝えたものの、日時についてアポイントは取っていない。
極めて無礼な訪問である。
館の玄関まで乗りつけたマルガレーテは馬の轡と鞭、それと脱いだコートを従僕に手渡し、さっそく老公爵夫人への案内を頼む。
そして、事前に男爵夫人の来意を知らされておらず戸惑い困惑する従僕を無理やり急かせて、後を追うようにして老公爵夫人の居間へと向かう。
先に扉のうちに入った従僕の知らせに老公爵夫人の眉が跳ね上がる。
「無礼な!成り上がりものに嫁いだ小娘の分際で」
だが、締め出すかどうかを尋ねる従僕に対して老公爵夫人はしばらく考えた後、マルガレーテを部屋に通すように命じた。
老公爵夫人は先日の劇場での一件もあり、マルガレーテの意図が気になったのである。
部屋に通されたマルガレーテは老嬢たちの面前で、膝を折り上体を伏せるようにして老公爵夫人に対して最大級の礼をした(ファンタジー小説では、スカートを摘みちょこんと腰を落とす礼の仕方がよく描かれる。そちらの方がより丁寧で恭しいものとされるものの、実際、行うのは小さな子供か侍女、女中あるいは平民が主である。成人の貴族の女性にはそれなりのプライドがあるらしく、国王に対してもそこまではしないらしい)。
「珍しいお方だわね。お名前は確か……、ごめんなさい。忘れてしまったわ」
言葉に刺を含ませながら老公爵夫人が見下した視線を投げかける。婚約発表前のルドルフに泥を被せたマルガレーテの名前は百も承知である。
「マルガレーテ・フォン・ラインハウゼンでございます。成り上がりものの妻の。奥様」
マルガレーテはなおも面を伏せたまま恭しく老公爵夫人に答える。
「ふん。そこまで自身を卑下なさる必要はないわ。男爵夫人。
で、どんな御用かしら?わたしのような老いぼれに」
「はい。お美しい奥様」
ここで初めてマルガレーテは顔を上げ、直に老公爵夫人に視線を向ける。
「先日、わたくしは軽はずみにも劇場でこちらのルドルフさまとおしゃべりしているところを口さがない者たちに見られてしまい、いらぬ噂を立てられ難渋しております。
こちらのルドルフさまの名誉を回復するためにもどうかわたくしにご助力を賜りたいのでございます。何卒、お願い申し上げます」
「それは少し虫のいいお願いじゃないかしら?より迷惑を被ったのはルドルフの方だと思うのだけれど」
老公爵夫人は長扇子でピシャリと肘掛を打った。冷たい沈黙があたりを漂う。
老公爵夫人の取り巻きは誰ひとりとして口を挟もうとせず、マルガレーテを冷たく見据えるのみ。
老公爵夫人側の態様は、格下のものが何をトチ狂って慮外なことを言いにわざわざ参ったのだろうか、というところだろう。
「お腹立ちはごもっともでございます。奥様。
しかし、わたくしひとりの力ではどうにもできることではございません。
それに、宅の主人も噂によって被る自分の迷惑よりもルドルフさまの名誉の方をただただ心配している様子。あんな成り上がりものの主人ではございますが、ルドルフさまとブレスラウ公国の公女殿下とのご婚約がめでたく成立するよう本当にこころから願っておるのでございます。
わたくしも自分の名誉のことよりも迷惑をかけてしまった主人とルドルフさまのため、なんとか致したいのでございます。どうか、お慈悲をもってお助け下さいませ」
「……」
ここで老公爵夫人はマルガレーテが訪れた真の目的を理解する。
この小娘の夫はラインハウゼン。成り上がりものだけど、連邦一の金持ちで、産業界においては押しも押されぬリーダーと目されている人物。
つまり、ラインハウゼン家は夫婦揃ってわたしたち親帝国派に入りたいと願っているわけね。ふーん。
老公爵夫人は長扇子を開いてパラパラと扇ぎ出す。
「貴女って本当に貞女の鏡ね。感心するわ。
そういうことならわたしも助力は惜しまないわ。今晩、あの劇場へ来て頂戴。
わたしのボックスへ招待するわね。
出し物は変わらないし口さがない観客も相変わらずだけども、評判はとても変わりそうだわね」
「ありがとうございます。奥様」
マルガレーテは再び膝を折ってそのまま退出した。
彼女は部屋に残っても老嬢たちの邪魔にしかならないことを承知している。これから老嬢たちは新参者の評価で忙しくなるのである。
「いけ図々しい。でも、成り上がりものだけあって目端だけは利きそうね」
マルガレーテが去った後、老公爵夫人が呟いた。
取り巻きたちの評価も概ねこれに似たものばかりであった。
公爵の館を退出する折り、マルガレーテはプスタ平原の片田舎からルドルフを追いかけてきたぺーラ・アンナを発見する。
彼女はぺーラ・アンナの素性を知るところではなかったが、なんとなく女の勘でアンナがルドルフと関係していることを見抜く。
帽子を再びピンで留め、鞭を手に持ったマルガレーテがアンナの周りをゆっくりと品定めをするかのように回り出す。
「貴女。ちょっと、わたくしにコートを掛けてくれないかしら」
アンナに対しメイドに命じるかのように強いる。
マルガレーテは背筋を伸ばし顎を上げて緑の目の少女を見据える。しかし、知らずに顔が強張っているようだ。
最初、あきれていたアンナの顔にも朱がさした。
乱暴に白いコートを広げるとマルガレーテの肩へ投げかける。
「ありがとう」
マルガレーテはアンナの手の中へ硬貨を押し込んだ。
マルガレーテがここまで意地の悪い仕打ちをしたことは今までなかった。
嫉妬に駆られた女というのは本当に恐ろしい……。
* * * *
オペラを鑑賞する夜の劇場は美しい。
きらびやかな衣装を纏った貴婦人たち。正装の黒に白い蝶ネクタイの紳士たち。
劇場内のあちこちが金で縁どられていて、灯の色に映えて輝く。
マルガレーテも異常に綺麗であった。
その艶のある髪の色はブルネットの中でも貴重な本物のブルー・ブラック。今夜は、ちじらせた前髪を真ん中から分け、長い髪の後ろは細かく編んだ束を巻いて項に垂らしている。
彼女の目は青い。しかも藍を思わせるほど濃い青さである。
目鼻立ちははっきりとしており、顔の長い美人にありがちな顎のしゃくれは彼女にはない。
目の青さ、艶のある髪の色がそのドレスに抜群の相性を見せる。
大きく抉った襟の部分だけが白く、そのドレスは薄いピンクの絹の生地をたくさんの細かい銀糸の刺繍で覆い尽くしていて、腰からの下のスカート部分だけが前で割れ、下に絞りのある布で重ねられていることが分かる。
大きく開いた胸元のうえ、首に下げた大粒のダイヤの首飾りがその白い肌の上でキラキラと輝く。
肩にはふわりと花のような膨らみがあり、そのすぐ下まで腕が白い手袋で覆われている。
正に麗人である。
後ろの長い裾を引きずりつつ、ローブ・デコルテ姿のマルガレーテが老公爵夫人のボックスに入って席に着く。
すると、その美しい夫人の姿を仰ぎ見た桟敷席の紳士淑女が内心で一斉にどよめいた。
対になる向かえのボックス席には、ブレスラウ公国の公女殿下クリスティーネとルドルフが仲睦まじく座っている。
そうか。ラインハウゼン家は老公爵夫人の軍門に下ったのか。
交互に仰ぎ見た観客はどういうことが起こっているのかを悟り、先の噂がその前触れであったかのように錯誤した。
噂は完全に訂正された。
眼下をチラリとオペラグラスで覗いた老公爵夫人は満足そうに長扇子を使う。
彼女はこれでもルドルフを公女殿下のボックスへ押し込むことに苦労したのである。公国の公館相手に力技まで用いねばならなかった。
明日にはブレスラウ公が来てしまう。公の来る前に彼女は噂を払拭する必要がどうしてもあったのである。
一方、マルガレーテは表面では慎ましやかな微笑を浮かべながら、内心では軽蔑から笑い転げていた。
誰も彼もが外聞だけを気にする体裁屋。中身がないわ。
内心では不体裁なことをしたくてたまらずウズウズしているくせに、勇気も知恵もなく、ただ他人の不体裁を嘲って噂話に花開かせて満足しているだけ。
老公爵夫人も、眼下の紳士淑女たちも結局は同じ。夫も同じ。
これまでアルフレードを軽蔑したことはなかった。
彼は金を愛し、会社を大きくするためにおべっかを使い、人の足を舐めるようなことまでしていた。しかし、彼はやはり切れ者であり、他人の目から用心深く自分の本当の実力を隠し、いつも自分の求めることをうまうまとやり遂げて、内心では他人を笑っていた。
わたくしも彼と同じ穴の貉だった。慎ましやかな態度をとって目立つことなく自分でやりたいことをして、他人を笑っていた。
だから、彼のことを同志のように思い、決して笑ったりすることはできなかった。
でも。もう違うわ。
あのことを知ってから、わたくしにもすべてのことがよく見えるようになった。
夫は頭のいい、ただの体裁屋にすぎなかった。
彼は貴族社会を憎みつつも爵位の低い自分が軽蔑されるのを恐れていた。金持ちであると尊大に振る舞いながら、実際は貴族の冷たい目に子鹿のようにして恐れおののいていた。
なんて小さい人間だったのだろう!
はっ!老公爵夫人にしても同じ。
爵位の低いものをさも軽蔑したように見ているけど、内心では人気のないことを気にしているわ。お国の情勢のせいで今まで権力を振えなかったことが悔しくてたまらないらしい。その実力もないのに!
結局、老公爵夫人は身分に見合うと思う権力を振るっている外観が欲しいだけ。
なんて浅ましい人間なのだろう!公爵夫人が聞いて呆れるわね。
眼下で馬鹿みたいに口を開けて囀っている連中なんて今さらよね。これからはもっと軽蔑してしまうわ。
今までのわたくしはあなた方と同じだった。でも、もう違うわ。わたくしはあなた方全員にさよならを告げる。
そして、彼の隣で笑っている公女殿下さま。
お美しいあなた様には彼の外面のすべてを謹んでお譲りしますわ。
皆が羨む婚約発表でも、国を挙げて祝う絢爛豪華な結婚式でも、何でもおやりになるがいいわ。
でも、彼はその熱い、大切な中身をすべてわたくしに捧げているの。すべてはわたくしのものよ。
あなた様は意味のない、彼の残りカスである外観だけを後生大事に抱えて生きていけばいいわ。アハハハ。
いや。あなた様ももしかしたら綺麗な恋人から彼と同じように熱い大切な何かを捧げてもらっているかもしれないわね。
そういう意味では、あなた様もわたくしと同類なのかしら。フフフ。
マルガレーテも普通の恋人たちのように恋の魔力に罹り、自分たち以外のすべてがどうでもよくなってしまった。夫まで軽蔑するようになった。
そして、今までの自分も、世の中のすべての価値観も否定し去った。
もし彼女の恋が破れてしまったのなら、あとには絶望しか残っていない気がしてならない……。




