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逃走10

 逃走10


「このわたくしが……。いえ。冗談じゃないわ」


 ラインハウゼン家の温室で観葉植物の葉を弄りながらマルガレーテは呟いた。


 昨晩、彼女と夫が住むこの屋敷へルドルフが訪れた。彼を取り込むために夫と計画したことである。

 アルフレードはいつものように人の良さそうな笑顔を貼り付けて盛んに彼に追従をして媚を売った。マルガレーテも夫に合わすようにして笑顔を見せた。そのことはいい。


 ルドルフが夫に対して見せる顔も噂通り生真面目なものであり、高位の貴族のようにひとを馬鹿にした様子もない。夫もコンプレックスを刺激されずに彼に対して接待ができて至極やりやすそうであった。このこともいい。


 ルドルフが時折、夫には見えないようにして熱っぽい視線をマルガレーテに投げかけたことも、美人の彼女にとってはよくあることであって、どうでもいいことである。

 だが。


 彼女はその夜、夢を見たのである。


 クロッカス。

 淡い紫の花びらに糸状に伸びる長い雌しべを持った春を告げる花を捧げ持ってルドルフが優しい声を投げかけてくる。

 なんと言っているのかはわからない。しかし、その熱に浮かされたような表情から自分に恋をしていることだけはわかる。



 クロッカスの花言葉は「青春の喜び」。


 若くて純情な彼はわたくしにそのすべてをくれるというのであろうか?


 フフ。若いといえば、わたくしも夫もまだ十分に若いはず。

 なのに、この、疲れきった老人のような、膿んだ倦怠感はなんなのかしら。わたくしが今までしてきたことはすべて過ち?いいえ。そんなことはないわ。でも……。



「奥様。奥様宛てにお花が参っておられます」

 小間使が大きな花籠を抱えて温室へやって来たため、マルガレーテのアンニュイな夢想は破られた。


「捨ててちょうだい」

 マルガレーテは硬質な声を出す。


「でも、奥様。カードが添えられておりますが?」

「いいから捨てて。カードも一緒に」


 贈られた花はマルガレーテが予期したように赤い薔薇と黄色いゼラニウムだった。

 花言葉は「僕はあなたを愛します」「予期せぬ出会いに感謝を」。

 贈り主も当然、ルドルフである。


 マルガレーテにとって、こういうことは結婚前、何百とされてきたことである。


 あまりにも新鮮味のないことに彼女は少しばかり安堵した……。


 *       *        *        *


 今日も、フランツは内心でため息をつく。

 再開した夜の診療所に彼の言うことを全然聞こうともしない患者がまた来ているのである。いっそのこと、次回からこの患者の予約については拒否しようかとさえ思ってしまう。


「ドクトル。ドクトル。妻が、妻が大変なんだ!」

「落ち着いてください。ヘル・バロン。

 性の関係はひとそれぞれです。これが正解で、あれが間違いということはありません。こうしなければならないという義務的なものもありません。セックスレスの夫婦がいたとしても別におかしいことでも何でもありませんよ。

 そもそも人間の性衝動とは、あらゆる脊椎動物共通の視床下部などから脳へフィードバックされるホルモンの働き、いわゆる本能的なものと、理性を司る大脳新皮質が制御してGOサインを出す学習的なものとのふたつが複雑に絡み合っているのです。

 巷間では男は本能的な性欲に支配されていてしたくてたまらないとか溜まっているとか実しやかに俗説が流布していますが、すべて嘘です。人間の性衝動は本能的なものよりも学習的なものの方がずっと影響を及ぼします。男がしたくてたまらないと思う(そう世間で思われている)のは、性の問題についてあまりよくわかっていない社会による刷り込みが主な原因です。そういうふうに学習するように仕向けられているのです。

 男は本能的に溜まるから社会へ害悪をもたらさないよう公娼制度は必要悪だと言ってみたり、軍隊には慰安婦は必要悪だと主張するのも、そう思い込まされているだけで、なんの根拠もありません。

 ですから、男爵殿の悩みも、思い込まされていることからくる強迫観念であってですね……」

 いい加減イライラしていたフランツは医者にあるまじきことに患者の話を聞かずに演説をはじめた。もはや治療ではない。


「ドクトル!ドクトル!今日はわたしの問題についてはどうでもいいんだ!妻がおかしいんだ」

「?」


 アルフレードの必死の訴えにようやくフランツにも医者としての意識が戻ってきた。

「どう変なのですか?」


 アルフレードはゴクリと唾を飲み込んでやや自分を落ち着かせた。

「実はわたしが嗾けたことなのだが、売り込みのため彼女が君の恋敵であるルドルフに接近したんだ。上手くいって、ルドルフを家に招待できるまで持ち込んだ。それはいいんだが……。

 あれから(まだ二日しか経ってないが)彼女の様子が変なのだ。落ち込んだり憂つな表情を決して人前では見せない彼女が構ってはいられないように感情をさらけ出しているんだよ。

 ……彼女は恋をしているに違いない。よりにもよってあの、なんの取り柄もないボンクラに!」

「……男爵殿。誰にそのお話をしているか、分かっておられますか?

 マルガレーテ夫人とルドルフ君とが親しくなって噂になれば、公女殿下の婚約にも影響が出て僕が大いに得することになる。自分がみすみす損をするアドバイスをするとでもお考えですか?」

「いいや。君はそういう男ではない。恋敵としての利益を取るより医師としてあるいは(性の問題の)オーソリティとしての矜持を選ぶに違いない。その点は信頼している。

 わたしには君しか信頼できる人間はいないんだ。わたしを助けてくれ。ドクトル!」

「助けるもなにも……。

 しかし、信じられませんね。彼女が誰かに恋をする?

 僕が彼女に興味を失ったのは、そもそも彼女が他人を愛せない人間だったからですよ。彼女の脳はGOサインを出す学習を何一つしていない。

 ですから、今まで男爵殿にすべてお任せしようと治療の試行錯誤をしていたんですが……」

「いや。彼女は恋をしている。

 わたし自身、彼女に恋をしているんだ。あの表情を見れば彼女もわたしと同じ悩みを抱えていることくらい、すぐに判るよ。

 ドクトル!助けてくれ。彼女まで取り上げられたらわたしは……」

「……」


 フランツにアルフレードを嫌う理由がまた一つ増えた。フランツにとってアルフレードは余計な悩みをもたらす天才だった。


 *        *         *         *


「大変よ。大変なのよ!貴女の名前を知らないからなんと呼びかけてよいか分からない悪党さん!」

 市内にある、とある建物の4階のドアを叩きながらぺーラ・アンナが大声を上げる。

 たちまちドアが開けられアンナが連れ込まれる。


「しまいには川の中へ沈めるぞ!

 おまえには考える頭がないのか?ここはわたしの隠れ家だぞ。バレバレではないか!」


 マリアカリアがアンナの口を塞ぎつつ叱りつける。

「モガモガ、モガ!」

「おまえとの貸し借りはもうないはずだ。旅券のことで世話になったが、ホテルの宿泊代(初日に憲兵少佐が払った以外はすべてマリアカリアが出した)も若い女性の身の回りのもの一式もくれてやり、そのうえ、おまえがマイゼル公爵の屋敷に忍び込む手伝いまでしてやったではないか。

 自分のケツは自分で拭け!安易に人に頼るなよ!」


「プッハア。あなただって関係あることよ!父さんたちが来てしまうの」

「よくわからん。それがどうわたしに関係するのだ。よくわかるように説明してみろ」


 ようやく口から手をどけられて話せるようになったアンナの一言にマリアカリアが興味を示す。この一言がなかったなら、たちまちアンナを外へおっぽりだしたうえ、アンナを通した1階の門番の小母さん(当然、マリアカリアの息のかかっている)を蹴飛ばしに行っているところである。


「あなたの旅券の名義のレナーテ夫人は連邦から嫁に来た女でプスタ平原の貴族たちを見下しているとても嫌なやつだけど、父さんも含めて3人(キシュ・ジュラ男爵、コチシュ・ゾルタン伯爵、父ペーラ・シャンドール伯爵)はよく知ってるのよ。すぐバレちゃう」

「ふーん。確かにわたしに都合の悪そうな出来事だな、それは。

 しかし、なんでわたしがおまえのお父さんたちと会わなくてはならないんだ?会わなければ、わたしには不都合など何も起こらないはずだが。

 そもそも存在自体、知られていないはずではないのか?」

「ルドルフの従僕でヨハンというやつが悪いのよ!勝手に大使館経由で父さんたちと連絡をとっていたの。

 当然、旅券のことも何もかもバレているの。幸い、夫人の方は屋敷から一歩も外へは出ないから彼女がここへ来てないことだけはバレてないけど。

 でも、父さんたちは知り合いのいないこの首都であなたを頼りにして泊まりに来るつもりなのよ」


 窮屈なコルセットを嫌い男装姿に戻っているマリアカリア(かつらで髪の色だけはごまかしているが)は腕を組んだ。

「それは困ったな」


 マリアカリアには今からどこかの屋敷を借りる当てなどない。買い上げるとしても、事業につぎ込んでいるためまとまった大金を動かすこともできない。


「仕方がない。レナーテ夫人名義でサボイ・ホテルに泊り続けているように装おう。他のホテルでは警察の注意を引く恐れもあるし。

 そうしておいて居留守を使うことにする。

 しかし、またサボイ・ホテルか。おまえら、わたしにたかる癖でもあるのではないのか?」

「やったー!わたし、あのホテル、大好きなの!」

「おまえなあ!」



 よりにもよってなぜ3人ものプスタ平原の貴族たちがやってくるのか?

 彼らはそもそも今以上の自治拡大をそれほど望まない穏健派に属する貴族たちである。しかし、プスタ平原の貴族たちに好意的な大公の孫がプスタ平原の(ぺーラ・アンナ)を振って連邦の公女などと一緒になれば、侮辱されたと勘違いした地元民が怒り出し、過激派がさらに扇動するかもしれない。これは穏健派にとっても見過ごせない事態である。

 そのうえ、大使館から知らせを受けた大のプスタ平原贔屓の帝国の皇后陛下が内密にアンナの父たちに絶対にルドルフにアンナを娶せるよう厳命を下した。

 彼ら3人は是が非でもルドルフと公女殿下の婚約を妨害しなければならない。


「もう一つ、問題があるのよ。

 ルドルフが恋をしているの。ううん。ルドルフがわたし以外に片恋をすることは珍しくないの。今までにもあったし、いつも彼は振られるから別に心配などしていなかったの。

 でも、今回は違うの!相手のあの女も本気なのよ!そうに違いないの!」


 アンナは今朝、大胆にもマイゼル公爵の館へ馬で乗りつけてアンナのことをメイドのように扱ったマルガレーテへ敵意をむきだしにした。


 *         *         *         *


 アンナの父たちがプスタ平原を発ち連邦の首都へ向かった同じ頃、公女クリスティーネの父ブレスラウ公もまた連邦の首都を目指して特別列車に乗り込んだ。

 公はマイゼル公爵夫人の要請に応じたことを少しばかり後悔していた。娘のクリスティーネに見合う適齢期の王族がいないとしてもせめて公爵くらいの男と娶せたかったのだ。老公爵夫人は安請け合いしていたけれども、蓋を開けてみればルドルフは小さな領地をもらった侯爵にすぎない。期待はずれもいいところである。娘は降ったことになるし、貴賎結婚と言って仮にふたりに子供が出来たとしてもその子にはブレスラウ公国の継承権などはない。



 こんなことなら娘に執着して侯爵にまで成り上がった(厳密には皇帝の裁可は下っていないが、それでも確実視されている)あの男にでもくれてやったほうが良かったのか?

 いやいや。あいつの小姓時代はひどかったからな。

 どうしたものか。


 ブレスラウ公は流れる車窓からの景色を眺めながら、父親としての悩みを胸にため息をついた。







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