逃走9
逃走9
「今や、時代は帝国主義全盛。わが連邦も大陸から海を越えて植民地獲得に躍起になっておる。
そこでじゃ。わが連邦が海外進出のため、今、一番欲しがっているものは何だと思う?うん?
そう。船じゃ。
軍隊を輸送するにも、インフラの機材を送るのにも、人や物資を運ぶのにもみな船が必要なのじゃ。
どこの海軍にも負けないような弩級戦艦。一度に大量輸送のできる大型輸送船。国の繁栄を誇示する世界一の豪華客船。すべての種類の船が必要なのじゃ。
ということは、これからは海運業、造船業、船の材料の鋼鉄を作る製鉄業が繁栄し、同時にそれらの業種の株も上がるということじゃ。
いいかね。この1000万マルクの帝国債権を担保にして株の信用買いをすれば、巨額の利益が得られるということは9歳の子供でもわかる自明の理。
そこでじゃ。帝国債権をすぐに借金の返済に当てるのではなくて、こいつで荒稼ぎしてから……」
「おっほん!侯爵さま。夢をご覧になるのは結構でございますが、そういうことはご自分のお金が出来てからやってくださいませ。
期日までまだ時間がある云々ではなく、信書でも述べられておりますように公女殿下は、借金をすべてこの帝国債権で返済し信用を回復したベーネボーメ家の爵位を譲ることを条件に肩代わりを申し出ておられるのです。
借金の返済も済ませないまま、公女殿下の持ち物で投機をするなど言語道断であります!」
フランツが怒り出すのも無理はない。
自身の無謀な投機で破産寸前まで追い込まれているにも拘らず、反省もしないベーネボーメ家の現当主は相当ダメな男であった。
「投機とは博打ですよ。絶対に儲かるなどという保障はどこにもないのです。あれだけ苦い思いをなさってまだ懲りないのですか。侯爵さま。
好き勝手なさった結果はどうですか?奥様には愛想を尽かされ実家に帰られておしまいになるわ。幼年学校在学中の若様には仕送りもままならず、苦しい思いをさせてしまうわ。
こんな結果になってもまだ反省しないというのですか?どうしてもっと現実を見て堅実な生き方をしようとしないのですか?」
「そんなにわしをいじめるなよ。おまえさんも男ならわかるじゃろう。男は夢に見てなんぼの生き物じゃ。わしから夢まで取り上げたら何が残るというのじゃ!」
苦い真実を突きつけられてダメな男が逆ギレを起こしはじめた。
しかし、フランツはここで引き下がるわけにはいかない。何としてでも借金を素直に返済させ、かつ当主の引退と侯爵位の譲渡を受けねば、彼は結婚できないのである。
彼は賭けに出る。
「当然、侯爵さまがどんな夢を見ようが自由ですよ。しかしながら、侯爵さまが夢にこだわってあくまで投機をなさるおつもりなら、この話はなかったことになりますよ!
公女殿下の申し出をお断りになれば、侯爵さまには破局の一択しか残されていないことをよーくお考え下さい」
フランツは侯爵をひたすら脅しつける。
「くっ。しかし、公女殿下には君が(投機のことを)黙っていてくれさえすればわからんことじゃろうが。
巨万の富を稼ぎ出す千載一遇のチャンスなんじゃぞ。見逃す手はないはずじゃ。
(黙ってさえいてくれれば)君にも分け前をやろう。これでいいじゃろう?」
「いーえ。そういう話は受けられません。
仕方ありません。それでは、今回の公女殿下の申し出はなかったことに。
夕刻に突然参上しておこころをお騒がせしました。侯爵さま。これにて失礼いたします。ご機嫌よう」
フランツは大真面目に出て行くふりをする。侯爵が呼び止めねば、彼の結婚は詰である。
出て行くフランツを見て侯爵が不貞腐れたような言葉を投げかける。
「ふん。勝手にするがよい。
信書には、侯爵位を譲ってもらえなければ結婚できない旨書いてあったがのう。君が結婚を諦めるというのであれば仕方がない。これも運命だ。
君に一片の人の心があったのなら、夢を失い自殺したいたいけな老人の墓へ花でも供えてくれ。
さらばじゃ。さら……。って、本当に帰るのか!ま、待ってくれ。待ってください。わしはまだ死にたくないし、家族に恨まれたままでは嫌じゃ!」
「先ほどのお話の繰り返しでは待つ理由にはなりません。スッパリ投機は諦めるんですね」
勝利を確信したフランツは冷たくダメ押しをする。
「わかったわい!しかし、返済後の残りの金をどう使おうがわしの自由じゃからな?この点を許してくれるなら、渋々、公女殿下の条件をすべて受け入れてやるわ!」
「むっ。残りのお金は研究所の開設資金に使おうと思っていましたが、仕方ありませんね。認めましょう。
それでは、早速、念書を交わして、今後の条件の履行について詰のお話合いをしましょうか。侯爵さま」
フランツも実は相当ダメな男(残金は常識的に言って公女殿下にお返しするのが筋であるのに、横領して自分の研究願望のため使おうと目論むあたり)であったが、とにかく賭けには勝利した。
ただし、残念なことに侯爵が折れたのはフランツの真摯な態度が通じたせいではない。侯爵が実家に帰った若い後妻に未練タラタラであったのが主な理由であった。
ベーネボーメ侯爵家の現当主は懲りないうえ、欲望にはごく素直な男であった……。
この時、金がないためかなり荒れてしまった侯爵家の庭には、これら悔いることのないダメな男たちを見守る影があった。青い服の女ことセルマである。
「一足遅れてしまいましたか。うーむ。ここで侯爵にあぶく銭を握らした上、再び無謀な投機に出て失敗して欲しかったんですが、仕方ありませんね。
前回の公女殿下に引き続いてまた失敗。残念です。
でもまあ、フランツさんが侯爵位を譲ってもらえたからといって公女殿下の婚約がそのまま破棄となるわけもありませんから、これもありなのでしょうか。お楽しみはまだまだ続くみたいですし」
セルマの言うとおり、ベーネボーメ侯爵との話をうまくまとめたからといって公女クリスティーネは婚約を即、破棄できるわけではない。これでやっと意中の恋人が婚約相手とされているルドルフと張り合う最低限の条件を満たしたにすぎないのである。
彼女が婚約の阻止をするためには、マイゼル老公爵夫人の要請を受け一旦承諾してしまった父シュタイアーマルク公の決定を婚約発表までに覆さなければならない。
これは、かなり分の悪い勝負である。
フランツには復権に執着を見せるマイゼル老公爵夫人たちを向こうに回して戦えるだけの、政治力を持った味方がいない。そのうえ、伝統を重んじるシュタイアーマルク公が一度なした決定を軽々しく覆すというようなことは普通、考えられない。
むろん、フランツは猛烈に巻き返しを図るだろう。
彼の家族はなんといってもシュタイアーマルク家の寄り子にあたる貴族なのである。主筋の公女殿下と結ばれることを(恋敵である兄のカールは別として)喜ばないわけがない。フランツはシュタイアーマルク公と竹馬の友である父を動かし、公に対して決定を覆し自分と公女殿下との婚約を認めてくれるよう働きかけるはずである。
だが、しかし。
それだけである。彼には強力な次の一手がない……。
* * * *
同じ頃、ルドルフに対する2匹目の悪い虫も積極的な攻勢をかけていた。
マルガレーテである。
彼女も夫が言うように美人である。
この物語では女性の登場人物がたいてい美人で困ったものであるが、弁解するならば、これは造形だけが秀でているステレオタイプな美人を指す記号などではなく、それぞれの個性に基づく人間的魅力を讃える形容詞みたいなものである。
マルガレーテは、ポンパドール夫人に擬せられるほど鋭い知性と完璧な教養をもち、強い意志と行動力に満ちた超人のような女性であるが、そのくせ、その気になれば男のわがままをすべて包み込んでくれそうな雰囲気を纏う、男にとって夢のような女性なのである(あくまで「雰囲気」であって、このチラリズムを理解して彼女は演出している)。
完璧で、特別な人間であるかのような雰囲気を纏う造形の美しい女性はとかく敬遠されがちである。男にも嫉妬心というものがあって、嫉妬が憧れに転化しない限り、格の違いを見せつてくる女性に対してはおいそれと手を出しかねる。
しかし、格上の女性がそんな小さい男でも喜んで受け入れてくれる素振りを見せたならば、……男はメロメロになるほかない。
つまり、そういうことである。
男なんて幻覚を真実だと信じたがる馬鹿で他愛のない生き物でしかない。
彼女はそんな男達につけ込み、踊らせて、自分の価値を思う様上げることによって、自分の人生をやりたいようにさせてくれる国王みたいに力を持った男性(ラインハウゼン家当主アルフレード)を射止めた。
魅力とは道徳的な善悪を超えたものである。やり方が汚いとか綺麗とかは関係がないし、それをどう使おうとも増減するものではない。
魅力のあるマルガレーテは美人だった。ただ、それだけのことである。
その彼女が仕掛けた。舞台は首都で一番と言われている劇場である。
この日、ルドルフは老公爵夫人から今後の顔つなぎのためオペラの劇場で挨拶回りをするよう仰せつかっていた。
ルドルフには連邦の首都で遊んだ経験がない。劇場にも今夜が初めてである。当然、招待された老公爵夫人たちのボックスがどこにあるのかも分からない。
彼は案内を求めるが、劇場のボーイはわざと間違えてラインハウゼン家のボックスへ案内してしまう。
もちろん、マルガレーテが事前にボーイを買収しての演出である。
「あら!」
振り返って椅子の背もたれ越しに美しい顔をのぞかせたマルガレーテが夫とは別人のルドルフにさも驚いたような表情を見せる。
「マ、マダム。失礼しました」
顔を赤らめたルドルフが慌てて退出しようとするが、マルガレーテは首を振ってニコリとする。
「少し驚いただけですわ。お見かけした記憶がないので、失礼ですが、外国の方でしょうか?」
「はあ、そうです。僕は帝国からつい最近、こちらに参った者です」
「まあ、そうですの。それでしたら、こちらの生活はあちらの花の都のとは違って慣れないとなにかとご不自由にお感じになられることも多ございましょう?なにかお困りのことはございませんか?」
マルガレーテはまだ幕が開くまで時間があり、夫もまだ来ていないのでだれかと少しばかりおしゃべりがしたいとの雰囲気を匂わせながら、さり気なくルドルフに席を勧める。
ところで、かつて社交界の華と言われ、今では人前で貞淑な妻を完璧に演じきっている彼女は、ゴシップのネタ探しをしている連中から常に注目されている存在である。
今も、2階のボックスの観覧席にひとりで座る彼女をオペラグラスでチラチラ眺めながら内心で毒づいている社交界の雀たちがうるさいほどいる。
その注目を浴びている彼女がボックスに若い男の同席を許したうえ、親しく歓談しているさまを衆人に見せつけたらどうなるか?
翌日には社交界で持ちきりだろう。老公爵夫人に睨まれる恐れもあるが、噂が噂を呼び、いつの間にか婚約発表待ちのルドルフと人妻の彼女は親しく交際していることになってしまう。この噂が曲者であり、人妻が席を間違えた若い男を笑って許し少し言葉を交わしただけなのに、そういう真実を押し流して、美しい人妻が若い男と不倫の関係にあるという虚偽を事実に押し上げる。
彼女がもしラインハウゼンの屋敷にルドルフを招待(呼び出しともいう)した場合、夫のアルフレードへの釈明のためにもルドルフは出かけていかざるを得ない。老練な社交界の人間であれば、格下の家へは行けないと招待を蹴ることも考えられるが、彼は社交界慣れをしていなくてそこまで擦れていない。
かつて社交界の華と謳われた彼女の腕前はやはり衰えておらず、ルドルフは完全に術中に嵌り、彼女は夫から命ぜられた仕事を成し遂げた。
しかも、彼女の魅力にルドルフが舞い上がるというおまけつきで……。




