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逃走8

 逃走8


 その頃、ルドルフはマイゼル公爵の館で至れりつくせりの生活を送っていた……か、というと、そうでもない。彼には彼なりの苦労があった。


 朝、老僕のヨハンに起こされると、きちんと身繕いをして老人たちへ朝のご挨拶に伺わねばならない。この館の住人で使用人を除けば、彼が一番身分が低いのである。仕方がない。

 老公爵はまだいい。彼にとって一番堪えるのはなんといっても老公爵夫人への挨拶のときである。

 老人は朝が早い。夫人の居間(この屋敷には独立した住居空間がいくつもあり、住人はそれぞれ勝手に暮らしている)へ挨拶に伺うと、すでに夫人のお友達の老嬢たちも着席しており、その中央にいる夫人からだけでなく、多数の冷ややかな老人の目に迎えられなければならない。

 彼にとってマイゼル老公爵夫人は自分のお祖母さまと杖を持っていないだけで何ら変わりが無い。親しみ難く、言うことがなんでも権柄づくである。そのうえ、お友達である高位貴族の老嬢たち(未亡人が多い)からまるで珍しい昆虫でも観察するかのように一斉に柄付メガネ越しに覗き込まれるのは、なんとも不快極まる!


 今朝もまた、ルドルフは鬱陶しい気分を押し殺して夫人の居間へ御機嫌伺いに出かけなければならない。部屋の前で咳払いを一つしてから、夫人つきの従僕に扉を開けてもらう。


「おはようございます。公爵夫人。

 プラット伯爵夫人(79歳)、ベルゲン侯爵夫人(81歳)、ケンペル伯爵夫人(72歳)、メルケル侯爵令嬢(67歳)も御機嫌麗しく」

「おはよう。ルドルフ」

 公爵夫人は軽く頷く。他の老嬢方も椅子に腰掛けたままルドルフのお辞儀に対して首を傾けるだけである。


「ルドルフ。今朝はいい知らせがあるわ。

 昨日、マリア(ルドルフのお祖母さまである大公妃とは親戚であり、かつ親友でもあるため、愛称で呼び合う仲)から手紙が来たんだけど、おまえに侯爵の位を授ける内示があったそうよ。同時にマリアから××地方の領地を贈られたわ。これで、おまえも立派な領主さまよ。喜びなさい」

「……はい。お祖母さまと公爵夫人には感謝の言葉もありません。こんなに良くしていただいて」

 ルドルフが心にもない言葉をのろのろ述べると老公爵夫人は満足そうに頷いた。


 老公爵夫人にとってはルドルフの感謝が心からものであろうがそうでなかろうがどうでもいい。要は、結果がすべてなのである。

 老公爵夫人とその取り巻きにとって連邦と帝国を強固に結びつけることこそが長年の悲願であって、自分たちの発言権を高めることにもなる。

 彼女たちは連邦がまだ小さく北部の寄り合い所帯であった頃からの親帝国分子であった。かつて連邦は帝国との戦争に勝って覇権争いに決着を付け、南部の4つの公国を強制吸収して今の連邦を形づけた。そのため、彼女たちは連邦内で長年、冷や飯を食べさせられる破目に陥っていたわけである。

 しかし、国際情勢が急激に変化した。連邦と帝国が軍事同盟を結んだ今こそ、彼女たちにとって復権のチャンスなのである。

 そういうわけで、彼女たちはルドルフと公女クリスティーネの結婚を仕組み、その成功に懸命なのであった。


 朝の挨拶は、彼女たちのルドルフへの監視の意味も兼ねている。公女との結婚前に悪い虫などついたら大変なのだから。

 しかし、虫の方は2匹ほどすでに行動を起こしていた……。




「ふうっ」

 夫人の居間から退出してルドルフはため息をつく。

「お坊ちゃんも大変ですな」

 老僕のヨハンが慰めの声を出す。


「おまえはいいよなあ。どうせ昨日の夜も抜け出して遊び歩いていたんだろう。この不良老人が!」

「もちろん!最初は芋臭いと思っていましたが、連邦の首都もいいですな。花の都とはまた違った意味で爛れたところがありますね。

 食べ物にしてもシュニッツェル(薄い仔牛のヒレカツ)こそあまり流行していませんが、その代わりアイスバイン(塩漬けされた豚足を煮たもの)などうまい料理が味わえます。

 別段不自由はしませんよ。ここでもホイリゲ(本来は花の都のワイン酒場を意味するが、ここでは新酒の意味)は飲めますし、ね」

「なにが、『ね』だ。ひとの気も知らないで。こっちは半ば軟禁されているんだぞ」

「こちらのバール(居酒屋)にも結構面白いところがございますよ。舞台があって出し物があるんですが、綺麗な歌姫のお色気付きの演出がありーの、パントマイムや漫談までありーの、でございます。

 坊ちゃんにも見せたいですなあ。でも、実際問題としては、とても無理ですがね。

 まあ、坊ちゃんはもともと芋ですから、万が一、仮に見られたとしてもこういうちょっとひねった文化は理解できないでしょうなあ。いやはや、お可哀想に」

「けっ。口も利きたくない。目障りだからどっか行ってくれ」

「そんなにむくれなさんな。坊ちゃん。

 慰めに爺やがいろいろ面白いことを教えてあげますから。

 たとえば、そうですなあ。お相手の公女殿下のことなどはいかがですかな?」

「なに?あの美人だけどお堅そうな殿下のこと?

 どうせ杖の代わりに鞭でひとのことを躊躇いもなく打つとかというのだろう?いいよ。そんな話は」

「そんなに悲観なさるものではありませんぞ。坊ちゃん。人生、思わぬ番狂わせが時折起こるもんですよ。もしかすれば、こちらに都合のいいようにことが転がるかもしれませんぞ。ホ、ホ、ホ。

 つまり。公女殿下とその恋人が陰でなにやらゴソゴソしているご様子で。

 とある噂では、その恋人、突然勤めている大学病院に休暇を申請し巨額の大金を持ってどこかへ飛んでいったそうですよ。大金の出処はもちろん公女殿下。公女殿下自身は公国のお金など動かせないのですから、その大金、どこから来たものでしょうかな?

 謎ですな。魔法でも使ったのかもしれませんな。なかなか興味深いですぞ。ホ、ホ、ホ」

「へー。公女殿下には恋人がいたの?お堅いように見えて、結構、遊んでいるのか。嫌だな、そういうのも」

「これ。坊ちゃん。そういう軽薄なもの言いはいけませんぞ。女性は結構、敏いですから、こちらが幾分でも軽んずる気持ちを抱いていたらすぐ気づいて手痛いしっぺ返しをしてきますからな。気をつけるべきです。

 それに、男にとって最初に付き合う女性は経験豊かの方がなにかといいことが多いものです。経験ある女性は尊敬すべきであり、決して馬鹿にしていいものではありませんぞ」

「まあ、どうでもいいよ。そんなこと。

 どうせ僕の人生は僕のではない。偉いお年寄りのおもちゃなのさ。自分の意志に関係なくあちこち飛ばされ弄りまわされたあと、最後には飽きられてポイさ!」

「はっ!青年らしくない。『幻滅』などという言葉に付き合うのはもっと年を食ってからで十分ですぞ」


 主従ふたりが湿っぽい話をしながらそのまま館の庭へ散歩に向かう。冬薔薇の咲く季節も近づいており、きちんと手入れされている庭園の朝もそれなりの風情がある。


 ルドルフとヨハンが話をしながら刈り込まれた庭木に沿って歩いていると、ふたりに後ろから何かを投げつけるものがいる。


 コツーン!

 クリーム色の若い婦人用の靴がルドルフの後頭部に直撃した。


「痛っ!誰だ?頭、ハゲたらどうしてくれるんだ!」

「パードン。あら。ルドルフじゃない?ホジ ヴァン?(元気してた? プスタ平原の方言)」

「げっ!アンナか!どうやってここへ?」


 背後にはニヤニヤしているぺーラ・アンナが裸足で砂利道を踏みしめながらもう片方の靴を手で弄んでいた。


「プスタの家から散歩がてらに幸せ探しをしていたら、あら不思議。こんなところまで来ちゃいました。ついでに浮気者も発見よ。人生何があるかわからないわね」

「いやいや。偶然でこんなところまで来れるわけ無いでしょ。

 アンナ。おまえ、つけて来たんだな?なんて危ないマネするんだ。攫われたり事故に遭って怪我でもしたら、どうすんだ?家の親父さんが嘆き悲しむぞ」

「坊ちゃん。坊ちゃん。なかなかいじらしいことではありませんか。男冥利に尽きますなあ。

 こういう場合、叱るのではなく、優しく抱きしめて甘い言葉のひとつやふたつ、かけてやるものですよ。それからブチュッとキスをする。ブチュッと、ね」

「黙れ。不良爺い。

 そんなことより、アンナ。今、どうしているんだ?連邦の首都に親戚も知り合いもいないはずだろう?どこに住んでいるんだい?」

「ほっほう!結構、心配してくれるんだ。浮気者のくせに優しいじゃない。それじゃあ、特別に教えてあげるほかはないわね」

 アンナがまた得意げに鼻を蠢かす。


「わたくし、昨日まではかの有名な超高級ホテル、サボイ・ホテルで優雅に過ごさせていただきましたわ。

 とても広い、洒落たソファがいくつもあって金ピカの飾り柱が何本も立っている居間に、ゆったりとした大理石の浴槽つきのお部屋で、ね。

 毎日、換えてくれる綺麗なお花に囲まれてまるでお姫様になった気分でしたわ。うーん。贅沢って最高ね!」

「はあ!?はあ!?はあ!?」

 大変なことだから、ルドルフも3度、驚いてみせた。


「あの超高級ホテルに?

 どこにそんなお金があったんだ?

 ……って、おまえの家、貧乏だったよな。そんなお金、持っているわけもなし。こいつ、一応、美少女だけど、どこかの大金持ちのおじさまを誑かすほど器用じゃないし。

 ああっ。おまえ、ホテルだまくらかして食い逃げしてきただろう!なんてことするんだ。不良娘!

 でも、無事に逃げてきたからいいのか?いやいや、よくないよくない」

「ちょっと!なに気にひとのこと、ディスりながら、妄想に耽るのはやめてちょうだい」


 腕を組んで考え込み、なにやら唸り声まではじめたルドルフに対してアンナが抗議の声をあげる。


「だったら、どうやってそんなホテル暮らしができたんだ?犯罪の臭いしかしないぞ。

 アンナ。キリキリ白状しやがれ!と言いたいところだけど」

 ルドルフが腕を解き、急に投げやりになる。

「どうせこいつのことだ。見栄を張って適当なことを言っているのに違いない。くだらない。心配して損した。

 ヨハン。散歩は切り上げて帰るぞ。帰ってお茶でもしよう」

「はい。坊ちゃん」

 忠実な老僕が元気に返事をする。


「ちょっと、待ちなさいよ。あんたたち!もう片方の靴を投げるわよ!置いていかないで!」


 なぜだかサボイ・ホテル住まいのことを含めて首都まで追いかけてきたことが有耶無耶のまま、ぺーラ・アンナは無事、潜入に成功し、この日からマイゼル公爵の館に厚かましくも暮らしはじめることになる。すべては、こころ利きたる、忠実な老僕ヨハンの活躍のおかげであった。


 *       *          *          *


 一方、公女クリスティーネから巨額の帝国国債と信書を預かったフランツは一路、ベーネボーメ侯爵のもとへ急いでいた。

 彼には時間がないのだ。侯爵と上手く話をつけられたとして、養子縁組の届けと侯爵位の譲渡への皇帝の裁可に急いでも2日は費やすだろう。すべてがうまくいって、婚約発表の日までギリギリ。なにか支障を来せば何もかもパーである。

 鉄道と馬車を乗り継いでフランツはなんとかその日のうちにベーネボーメ侯爵の邸宅へとたどり着いた。


 夕方近くになっていたが、そんなことは構っていられない。フランツは馬車から降りると、急いで駆け寄り、館の玄関の扉を叩いた。

 しばらくしてようやく元気のない従僕がのろのろとした足取りで出てきた。だが、従僕は「お引き取りください。主人は誰ともお会いになりません」の一点張りで、フランツの要請を断る。

 それでもフランツは諦めずに従僕と押し問答をしていると、従僕の背後から怒鳴り声がした。


「ええい、まだ帰らぬのか。わしは会わんぞ。いくら押しかけてこようと、おまえたちに返す金などないのだ。諦めて帰れ。愚か者が!」

「侯爵。わたしは借金取りではありません。逆です。侯爵に大金を持ってきたものです!」

 フランツが必死になって怒鳴り返す。


「そんなわけあるか。騙されんぞ、わしは。

 ……いや。ひょっとして誰か死んでわしに財産を残したのか?」

「いえいえ。誰もお亡くなりではありません。ですが、その代わり、ブレスラウ公国の公女殿下から侯爵へ1000万マルクの帝国国債をお譲りしたいとの御意向があるのでございます。

 公女殿下からの信書も持参しております。侯爵殿。何卒、引見を賜りますよう、お願いいたします!!」

「1000万マルクっ!!」

 侯爵は絶句した。


 しばらくして侯爵がまた怒鳴る。その声に先程のようなふてくされた色はない。希望に満ちた、元気なものに変わっていた。


「パウル。何をしている?はやく使者のお方をお上げしないか!

 ありがたい!ブレスラウ公など知りもしないが、とにかく福の神様のようだ。

 使者殿!使者殿!むさいところですが、どうぞこちらへ」


 侯爵はフランツを急かすようにして荒れた屋敷の中へ呼び入れた。





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