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逃走7

 逃走7


 マリアカリアがオテル・ド・サンドリオンで公女クリスティーネに帝国の国債1000万マルクを渡した翌日、サボイ・ホテルに泊まるぺーラ・アンナのもとへ2人の婦人が訪れた。


「あんた誰?」

 アンナが怪訝そうな顔で若い方のブルネットに尋ねる。


「わたしだよ。わたし。2日前、濡れそぼったおまえを辻馬車に乗せてやり、今着ている服まで貸してやったお・ん・なだよ」

「はあ!?」


 アンナが判らなかったのも無理はない。マリアカリアはアフタヌーンドレス姿(襟にコサージュのついた白と黒のストライプ地の短い上着。同じ生地の裾の長いスカート。首から胸元にかけてはレースの飾り)で決めており、手には香りを染みこませた黒い長手袋をはめ、しかも大きなウエーブのかかった見事なブルネットのかつらまでしているのだ。

 普段の男装姿から隔絶している。そして、不思議なことにかなりの美人に見えるのだった。


「ぜんっぜん、判らなかったわ。今でも信じられない。あんたって本当に女性だったんだ!」

「ふん。言っていろ。これがわたしの実力のほんの一端だ。わたしの真の姿を知れば、おまえなど悔し涙でハンカチが何枚あっても足りんぞ!」


 アンナはしばらくマリアカリアのドレス姿に見入っていたが、やがてもうひとりの婦人に注意が向かう。


「こっちの人は誰なの?」

「わたしの知り合いだ。今日だけおまえの家庭教師であるエリカ・ヒルデガルト・マントイフェルとなる」

「えっ。似ても似つかないし。こっちのほうがずっと綺麗だよ。年も50には見えないよ。せいぜい25から上くらい」

「仕方が無かったんだ。こいつの本当の年も30を超えたばかりだし。老け顔にメイクしろと言っても聞かないし。

 でも、こいつしか適当なのがいなかったんだよ」


 マリアカリアは綺麗と言われてニヤニヤしているヨハンナを睨めつけた。


「お初にお目にかかります。お嬢様。あたしはヨハンナというケチな女ですが、今日一日、お嬢様の家庭教師ということでよろしくお願いします」


 マリアカリアが余計な事を言うなとばかりに肘を上げてヨハンナを脅かしつける。


「アンナ。こいつに旅券を渡してやってくれ。これから、帝国の領事館へ行く。

 二人共、念の為に言っておくが、取り決め通りうまくできなかったら後がひどいからな。覚悟しておけよ」


 *        *          *          *


 それから1時間後、芝居をする3人を前にして領事館の職員は困っていた。


「今日中に旅券の発行など無理です」

「2日前に旅券をスリ取られてから、わたくしたちは非常に難儀をしておりますのよ。ここで粋な計らいをするのが帝国の殿方ではなくって?」

「規則は規則です。まずは本国へ身元の確認を済ませてからようやく再発行の手続きにかかるのですよ。何日かは辛抱してください」

「わたくし共はさる高貴な身分の方に拝謁を賜る予定ですのよ。

 ほら、ここに紹介状と名刺がございますわ。ご覧あそばせ」


 マリアカリアが勿体つけて職員に見せる紋章入りの紹介状と名刺はすべて公女クリスティーネが用意したものである。


「ブレスラウ公国の公女殿下!?むむむ」

「わたくし共は公女殿下さまと勿体無くも交際させていただいておりますの。 公女殿下のお父上君がわざわざマイゼル公爵夫人の誕生パーティにお越しになられるというのに、旅券がないというだけでお目にかかれないということがあれば外交問題にも発展しますわよ。そうなった場合、責任をおとりになれますの!ヘル(ミスター)!」


 マリアカリアが畳み掛ける。

 そこへ打ち合わせ通り大使館の一等書記官がやって来る。


「マダム。事情は聞いております。ご心配なく。

(職員に向かって)おい。君。僕が保証する。

 レナーテ・フォン・ミューラー伯爵夫人とぺーラ・アンナ伯爵令嬢に直ちに旅券の再発行をしたまえ」

「ヤボール(承知しました)。一等書記官殿」


 こうしてマリアカリたちの旅券の再発行手続きが滞りなく行われた。

 ただ、その過程で。


「念のため、連邦へ来られた目的をもう一度確認させてください。

 (ぺーラ・アンナの方を向いて)旅行の目的はなんですか?」

 職員が事務手続き上、仕方がないとばかりに尋ねる。


 これに対して、ぺーラ・アンナが得意げに鼻を蠢かして答える。

「そんなの決まってるわ。わたしの幸せを捕まえによ!」

「……?」


 唖然としている職員に見えないよう、マリアカリアがアンナの足を思いっきり踏んだのは言うまでもない。


  *        *         *          *


 マリアカリアが念願の旅券を手に入れた翌日の夜。

 マリアカリアが根城にしている地下酒場のある界隈の雰囲気が妙であった。 普段、夜ともなれば客引きをしているはずの女たちの姿がほとんど見えない。その代わり、どこからともなく山高帽を被った男たちがほとんど音を立てずに集まって周りを囲み始めた。


 ひとりの男が街角に立つ。

 その男のもとに山高帽の男たちが報告らしきものをしに来ては消える。そこへ鉄帽を被った憲兵のハウプトマン(大尉)が現れて通り過ぎていき、横目で男を見ると、見られた男の方が憲兵大尉に頷き返す。


 やがて男が懐中時計を取り出し、針を見つめながら手を挙げる。

 9時30分きっかり。


 男が振り上げた手を下ろすと、そこかしこで警笛が吹き鳴らされる。

 通りに馬車に分乗した憲兵たちが現れ、通りを閉鎖した上、横一列になって行進をはじめる。猫の子一匹、逃がさないつもりだ。

 憲兵たちと山高帽の男たちは通りにいた男も女も片っ端から検挙しながら、地下酒場へと向かう。


「ハンデ・ホフ!(手を上げろ!)ハンデ・ホフ!シュネル!(早くしろ!)シュネル!」


 警棒を片手に外套を着た憲兵たちが出口から逃げようとする酒場の客たちを中へ押し返しながら連呼する。


「あたいを離しやがれ!ブタ!」「押すなよ。お巡りさん。抵抗はしねえよ」「クソッ!クソッ!」

 酒場の中は犯罪者面の客たちによる阿鼻叫喚の有様である。


「黙れ。静かにしろ!汚い豚どもめ」

 ひとりの男が山高帽の男たちと憲兵大尉を引き連れて地下酒場の階段を下りてくる。


「リッターだ。ハンス・リッターだ」

 客たちの間から悲鳴が漏れる。

 男は首都警察に5人しかいない警視のひとり、ハンス・リッターだった。犯罪者に容赦しないことで有名な男である。


「俺が貴様らに聞きたいことはひとつだけ。『プラチナ・ブロンドの男』はどいつだ?」

「……」

 並ばされた男女からはしわぶき一つ聞こえない。


「まあ、いい。

 犯罪者ども。一人づつ、俺の前に来てペーパー(身分証明書)を見せろ!」


 ハンス・リッターは手近なテーブルにあったグラスや皿などをきれいに叩き落とし、椅子にどかりと座った。


「コム!(来い!)まずはお前からだ」

 ベレー帽を被ったツイードの上着の男を指し示す。


 憲兵に身体検査されたうえ、ベレー帽を叩き落された男はハンス・リッターの前に突き出される。

 男はおそるおそる手帳をハンス・リッターに差し出す。

 ひったくった手帳を一枚一枚めくりながらハンスは口笛を吹く。


「ゲアハルト・シュナイダー。印刷工ね。

 ふん。なかなか見事だ。良く出来てるな、この身分証明書は。だが、透かして見れば、だ。ほれ。このとおり加工の跡が歴然としている。

 偽造屋め。刑務所に入って一からやり直してこい!次!」


 このようにハンス・リッターが客たちのペーパーを一人づつ調べている横で、山高帽の男達による酒場の徹底的な手入れがなされる。

 すると、出るは、出るは。コート掛けの下や壁の凹み部分から拳銃や金庫破りの道具一式、ナイフ、盗品であるらしい懐中時計、宝石などが続々と見つかる。


 今夜は、通称犯罪者通りに対するハンス・リッターの徹底的な手入れが深夜まで続くことになる。



 同じ頃、地下酒場のある建物の向かえにある、道一つ挟んだ建物の5階の窓からカーテンの陰に隠れてそっと外の様子を伺う影がある。


「ハンス・リッターのお出ましか。相変わらずやることが派手だな。

 しかし、おまえさんも有名になったものだな。『プラチナ・ブロンドの男』

 あのハンスを動かしたくらいだ。悪名も極まれり、というところだな」

「ふん」


 窓から覗く窃盗団の幹部の言い草にテーブルでカードを手慰みにしているマリアカリアが鼻を鳴らす。


「今夜は大量に検挙されるみたいだな。おまえさんのところの女たちもただでは済むまい」

「大丈夫だ。面倒なことになりそうな女たちはしっかり休ませてある。

 捕まったのは事前に手入れのあることを知っている女たちばかりさ。しばらく稼ぎに出ていない女たちで、犯罪の証拠がないからすぐに出てこられる」


 マリアカリアは怪訝な顔をしている男達にさらに解説をしてやる。

「うちの女たちの中にひとり、警察と仲良くしたいやつがいてな。そいつに今夜、あの酒場にわたしがいると教えておいたんだ。

 だから、今夜のハンス・リッターの手入れはもともとわたしが誘導していたというわけなのだよ。納得してもらえたかな。

 なんでそんなことをしたかというとだな。これからわたしが諸君に話すことは重大で、周りに警察の目がない必要があるからさ。今夜のハンス・リッターの手入れはすべての目を逸らすおとりというわけさ」


 マリアカリアが今夜のために借りた部屋には、首都で有名な窃盗団の幹部、その盗品を扱う故買屋の組合の長、方々にコネを持つ高名なギャンブラーなど警察で注目されている面々が集められていた。


 マリアカリアがプラチナのライターで紙巻に火をつける。

 窃盗団の幹部と故買屋がそのライターの価値に気づき、目を光らす。


「リンター・ウンデン・シュトラーセに外国資本のオテル・ド・サンドリオンという高級ホテルがあるだろう?

 わたしは5日前、あそこを事実上支配した。1年限りであるが、な。

 わたしはホテルを利用してマネーロンダリングと高利貸をするつもりでいる。

 元手となる金と使える人間は多ければ多いほうがいい。

 そこで、諸君に事業への参加を呼びかけたい。利益の分配は出資の額に応じてするつもりだ。損な取引ではないと思うが、諸君はどう思う?」

「へー。すげえな」


 紫煙の立ち篭るなか、犯罪者連中が一応感心してみせた後、計算をしているのか、しばらく沈黙が続く。


「景気のいい話だが、うちは金庫を破ったり展示してある絵画を奪うのが商売だぜ。畑が違うんじゃないのか?」

「いいや。窃盗団の諸君には是非協力を願いたい。それと世間様には大ピラにお見せできない商品を扱う故買屋の皆様方にも。

 つまり、ホテルの賭博場だけを利用するのではなく、ホテルでオークションを開くのさ。もちろん、表のと裏のを分けてやってもらう。表は真っ当な品だけを扱う、一般公開の当たり前のオークション。裏の方は、どんなことをしてでも手に入れたいと願うどうしようもないコレクター達だけに絞った秘密会員向けのオークションでね。君たちには裏の出品のための収集とどうしようもないコレクターの秘密会員への勧誘をやってもらいたいのだ。

 表でも裏でもオークションはいい。たとえば、表の方でつまらない絵画でもわざとべらぼうな金額で競り落せばマネーロンダリングが実に簡単にできる。もちろん、売り手と買い手はグルさ。裏の方は裏の方で、莫大な金額が動く。しかも、コレクター達は自分たちの欲しいものを手に入れるチャンスがある限り外部に漏らしたりはしない。極めて安全で効率的な金儲けの仕方だよ」

「ふん。検討する価値はありそうだな」


 窃盗団の幹部が唸る。故買屋の老人は嬉しそうに手をこすりはじめた。


「そうさ。君たちもいつまでも警察に追い掛け回されているだけでは浮かばれまい。これを機会に表の顔も持って、一気に表の金持ちの仲間入りをするがいい。

 日向を歩くのは実に気持ちのいいことだよ。地獄の階段から抜け出て天国の階段を駆け上るのさ」


 マリアカリアが紫煙をみんなの真上へと吐く。


 だが、ひとりの男がマリアカリアに顔を向けないまま、異論を唱え始めた。

「なるほど。他の連中にはありがたいお話だよな。しかし、俺は一体どう言うつもりで呼ばれたんだい?

 まさか縄張りを荒らされたのに祝杯を上げさせられに来たのではないよな」

「ヘルマン組か。

 わたしは君たちの普段の仕事ぶりについて感心しているし、尊敬もしている。いつも実にスマートにガラの悪い奴らをホテルから排除していて、完璧に紳士淑女の方々が安心して賭博をお楽しみできる。また、賭博の借金の取立てにも実力行使などはしない。ちょっと相手のプライドと世間体に不都合が出る可能性を仄めかせるだけだ。

 わたしは君たちのことを気に入っている。わたしは君たちの縄張りを取り上げたりはしない。これまでどおり仕事に専念して欲しい。われわれの事業と被ることは一切ないのだから」

「……」


 マリアカリアが灰皿に紙巻をもみ消して続きを言う。

「ホテルの評判がますます高まり、賭博場もこれまで以上に賑やかになれば、君らの仕事は増えることはあれ、減ることはない。もちろん借金の取立ては君たちにすべて任すつもりだ。餅は餅屋だ。専門家が協力してくれるなら、こちらとしても嬉しい」

「共存共栄ができるということか。確かに、うちとしても得な話ではある」


 今まで横を向いて話していたヘルマン組の組長が危険な香りを振りまきながらマリアカリアの方を急に片手を上げて振り返る。手にはいつの間にか、回転式の拳銃が握られていた。


「それでもよお。女衒野郎。

 うちの体面に泥を塗られた落とし前はどうつけてくれるんだ。ああ。

 うちはカタギの衆から信用されておまんま食ってんだ。それをよう。詐欺まがいな手を使って新参者に本丸のホテルを乗っ取られたんじゃ、うちの信用はがた落ちなんだよ。何のために今までカタギの衆から大金をもらってきたんだということになっちまうんだよ。

 さあ。どうする。

 今、俺がチャカ、ぶっ飛ばせば、当たらなくとも、音を聞きつけて表の憲兵どもがこの部屋に押しかけてくるぜ。悪人どもと雁首揃えてお縄にならあ。覚悟しやがれ!」

 

 ヘルマン組の頭に脅されてもマリアカリアは平然としている。それどころか低い声で笑いだした。

「ク、ククク。臭い芝居だな。脅しが本気でないのが透けて見える」

「何を言っている。おまえたちの運命は俺の手のひらに載っているんだぜ。強がりはそこまでにしておけ」

「わたしがもしおまえの立場で本気ならば、この部屋に入った途端、皆殺しにして消えているね。脅しとはそういうものだ。ここにいる連中は皆、組織を背負っているものたちばかりだ。そういう連中に脅しをかける場合、背後や周りにいるものたちにも均等に恐怖を味わってもらう必要があるんだよ。素人め。

 それに」


 ヘルマン組の頭はマリアカリアから目を離すつもりはなかったが、一瞬、見失った。気づいたときには、構えたピストルを掴まえられていて撃鉄が落ちないようにされていた。


「おまえのような間抜けでは、わたしに向かってピストルを発射することすら覚束無い。ほら、な」

 マリアカリアの蹴りが炸裂して男は苦鳴を漏らして蹲る。


「どうせ、ホテルの支配人に頼まれたんだろ。ここでわたしを脅して恐れ入らせ、借金の1500万マルクの半額くらいの棒引きを狙って、な」


 ピストルを取り上げたマリアカリアが冷たい目で顔にうすら笑いを浮かべながら男を見下ろす。

「せっかく、穏便に済ませようと思っていたのだが、な。気が変わった。わたし流のケジメをつけさせてもらおうか。

 わたしに脅しとは言え、銃を向けたんだ。覚悟はいいな」

 男の右の上腕へ踵が落ちる。


「グギャっ!!あああ、あ。う、腕が!ああああ」

「おまえの組は今日限り、解散だ。手下どもはわたしの息のかかった者がこれからは管理する。

 消えろ!今後、この街で見かけたら命の保障はない」


 部屋にいる残りの連中にマリアカリアは振り返る。どの顔も強張っている。

「諸君にはわたしのやり方がよくわかったと思う。裏切ったり反抗する者には容赦はしない。そうしない限り、わたしは利益を公平に分ける。

 ところで、わたしは今日限り、地下へ潜る。表立っては活躍はしない。諸君へは使いのものをやって連絡をつける。

 それでは、諸君。皆で一緒に天国への階段を上ろうではないか」


 この日から後に憲兵少佐カール・フォン・ヘラーリングによって追い詰められるまで『プラチナ・ブロンドの男』は地下に潜り続け、親しい人間の前にまで姿を現すことはなかった……。






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