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逃走6

 逃走6


 ドクトル・フランツの診療はまだ続いていた。

 さきほどまで診療していた患者が帰り、フランツが懐中時計を見ると、最後の予約の3分前であった。

 コーヒーが飲みたかったが、フランツは我慢することにする。


「次の方、どうぞ」

 最後の患者が診察室に入ってくる。

 入ってきたのは、小太りのメガネをかけた若い男である。


 フランツは疲れた笑顔で長椅子を勧め、内心でため息をつく。また、これからしばらく忍耐の時間である。


「こんばんわ。ドクトル。

 もう3回目だね。そろそろ女性をその気にさせるテクニィークを教えてもらってもいい頃だと思うんだよ。僕も忙しい身の上でね。そう何遍も概論的な講義ばかり聞いているわけにはいかないんだ。どうだろうか?」


 患者は長椅子に寝そべると、途端にまくし立てた。

 この、世間で鉄鋼業界の大立者と呼ばれている男は顔に笑みを張り付かせながらも、目は笑っていない。かなり苛立った御様子である。


「ヘル・バロン(男爵殿)。

 ここは男女の性の悩みについて解決する診療所であって、女性を落とすジゴロやヒモの養成学校ではありません。

 それに、そもそも女性をその気にさせる技術などというものは存在しないのですよ。ごく普通に交際して相手の信頼を勝ち得れば十分なはずです。特別なことは何もない。貴方が普段からしている、友人との信頼関係を築くやり方と何ら変わりがないのです。

 貴方の問題は、ご自慢の美人の奥様とベットを共にできないことにあるのではなく、そうしなくてはいけないとの強迫観念を抱いていることにあるのです」

「強迫観念?いや。いや。普通、結婚したら、ベットを共にするだろう。夫婦は子供を作らなくてはいけないわけだし」

「おっしゃるとおり、普通はそうですね。今の社会では、普通の男女は食卓とベットを共にして家庭を築くことを前提に結婚しますから。

 しかし、貴方から今まで伺ったお話からすると、貴方と奥様はそういう前提で結婚なさったのではないはずです。少し変わった結婚契約みたいな取り決めをなされていましたよね」

「ドクトルはわれわれ夫婦が歪な関係で異常だから諦めろとでも言いたいのかね。いや。確かに、あれ(妻)は異常かも知れない。なんといっても、あれの結婚の目的は社会進出だったのだからな。しかし、わたしはまともだ。極めて正常で健全な男だ。わたしはまったく悪くない。

 それに結婚前の取り決めは、あれの会社の経営への参与を認める代わりに人前では完璧に従順で貞淑な人妻を演じきることだった。夜の夫婦生活についてはなんの取り決めもしていない。

 わたしが優しい夫としてあれを誘導して正常な夫婦関係にもっていこうとするのは当然だろう。わたしには子孫にきちんと我が家を受け継がせる義務があるのだ!」

「そういうことでしたら尚の事、お二人でじっくりとお話すればいいではないですか?

 でも、貴方はまだ奥様とベットを共にすることについてはお話し合いさえしていない。それはどうしてですか?」

「そんなもの、妻だったら当然受け入れるべきことだろう!」


 アルフレードは長椅子から飛び上がって大声を出す。しかし、真っ赤になった醜態ぶりをフランツの冷たい目で見据えられると、すごすごと寝直し眼鏡を拭きはじめた。


「……怖いんだよ。あいつは美しい。拒否されたらわたしは立ち直れない。だから、君に絶対に失敗しない方法の伝授を頼みたいんだ」

「僕には貴方が口ぶりとは裏腹に奥様のことを大変思っていらっしゃることがよく分かります。非常に好感を覚えることです。世の中には、力任せに無理やり関係を強要する夫もいますからね。そういうのは強姦と同じで、真の夫婦和合を遠ざけることにしかなりません。

 肩の力を抜いてお話し合いをすればいいのですよ。

 自信がない?恥ずかしい?それこそ夫婦なのですから恥ずかしがることはないのです。友人同士で明日、ゴルフでもしに行こうよ、と誘うような感じでいいのです」

「断られたらどうするんだ!君は(美形だから女性を誘って断られた経験は)ないだろうが、わたしには自信がない」


 フランツはため息をつく。

「断られてもいいじゃありませんか。今回は都合が悪かったのです。また日を改めてお誘いすればいいのです。ゴルフの誘いを断られた時と同じですよ。

 大事なのは、お互いの信頼関係を徐々に作っていくことです。ですから、断られて逆上したり、相手を冷たく扱うことはいけません。また、相手に義理でとか義務感で仕方なしに応ずるようにさせるのも最悪です。相手は性の関係について嫌悪感を抱いてしまう」


 アルフレードもため息をつく。

「そんなのではわたしは一生、思いを遂げられない。

 君は知らないのだ。あいつは結婚前、社交界の華と言われた女性で、男を手玉に取ることに長けている。どれだけあいつに泣かされた男どもがいたことか」

「マルガレーテ嬢でしょう。知ってますよ」

「!?……貴様が彼女の意中の人だったのか!だからイケメンは嫌いなんだ!イケメン、死すべしっ!」


 アルフレードが猛然とフランツに殴りかかる。

 しかし、兄のカールほどではないが、超絶美形もそこそこ強い。加減した張り手でアルフレードを押し戻し、長椅子に尻餅をつかせる。


「ただの知り合いですよ。彼女は性の問題に興味がなかったみたいなので、僕も彼女には興味がなかった。学生の頃の話です。

 それに僕にはずっと以前から心の中に決めた人がいるのです」

 言った途端、フランツは今朝のことを思い出し、表情を暗くする。雰囲気がものすごく刺々しくなる。


「ヘル・バロン。僕はとても疲れてしまいました。特別料金を頂いてもいいですか。850万マルクほど」

「へえぇっ!?」


 アルフレードは超絶美形の豹変ぶりとその口から出てきた数字のものすごさに間抜けな声を出した。


  *        *         *         *


 酔ったペール・アンナがはしゃぎ出し、サボイ・ホテルのダンス・ホールでチャールダーシュを踊るんだとダダをこねる。


「知ってるぞ。最初、両足を揃えて左右に体を揺らす動作から入るダンスだろ。膝の使い方がポイントだったな」

 なぜかマリアカリアも乗り気となり、ホールの楽団にチャールダーシュを演奏するよう頼んだ。


 バンドマスターのバイオリンを抱えた楽士が頷いて曲を引き出す。

 途端、ホールには帝国から来たお客も大勢いたらしく、たちまちいくつもの男女のペアが抱き合ってくるくると回りながら独特のステップで激しく踊り出す。


 ちなみに、ぺーラ・アンナのお相手はマリアカリアで、当然のごとく男性パートを担う。


「アハハハ。ホォバーィ!!(プスタ平原独特の掛け声)」

 アンナはすっかり有頂天である。上品なドレスのスカートが翻って皿のように回りだす。


 しまいにはマリアカリアが並んでステップを踏みながら左右の腕を持ち替えアンナを回転させては受け止めてを繰り返す。


 周りはみんな、にこやかに拍手喝采。コントラバスまでが興にのり、くるりと一回転させながら演奏を続ける。



 公女クリスティーネはそんな陽気で楽しそうなダンスを見ながら、去年の夏の終わりの夜会のことを思い出す。


 みんながダンスに興じていた頃合い、密かに席を抜けて夜風にあたりにバルコンへ出てみると、そこにはフランツが月の光を浴びて待っていた。

 クリスティーネはフランツの背中へ静かに歩み寄ると、そっとその左手に自分の右手の甲を触れさせる。

 フランツはチラリと左を見る。と、黙ったまま、左手でクリスティーネの手をしっかりと握りしめた。

 二人で眺めたあの月はとてもとても美しかった……。



「……自分の本心を申し上げれば、今回の婚約の相手にも反対です。

 家柄だけは帝国の皇帝の血にも連なる歴としたものですが、ルドルフ本人は美男ぶりだけが取り柄の優柔不断な男にすぎません。

 しかし……。あのピンク野郎(弟のこと)に比べれば百万倍はマシです。

 殿下!どうか弟のことはお忘れください。殿下がなんであんな変態に固執しているのか、自分には理解不能です」

「カール!」

「殿下もお知りのはずだ。あれの見てくれは超のつく美形だが、中身がどうしようもない変態であることを。この頃は妙に小難しい理屈を並べ立てて大人しいふりをしていますが、中身は子供の時からちっとも変わっていないのですよ。騙されてはいけません。殿下!

 殿下も覚えておられるはずだ。あれが10を過ぎたばかりの頃、女体を研究するのだと称してのぞき見をして大騒ぎになったことを」


 公女クリスティーネも小姓時代のフランツの変わった言動や行為について知っている。知っているどころか、被害者である。

 10を過ぎたばかりのフランツは毎日といっていいくらい公女殿下を捕まえては夢で見たピンクの情景をくり返し語った。立派なセクハラである。


「夢の中では僕は大人なんだ。いつもベットの中にいて横に裸の大人の女の人がいる。僕は彼女と抱き合ってあんなことやこんなことをするんだ」

「やめてちょうだい。聞きたくはない!」

 幼いクリスティーネは真っ赤になって両手で耳を押さえてフランツの夢の話を聞くまいとするが、フランツはしつこく話を聞かそうとクリスティーネの両手を耳から離しにかかる。

 そこへ騒ぎを聞きつけたカールがやって来て問答無用に弟に拳骨を落とす。

「無礼者!たわけ!ボケナス!何やってんだ!」

 

 彼らの子供時代はだいたいこういうふうにして過ぎていった……。



「わかっているわ。カール。でも、彼は病気なの。

 人間誰もが完璧ではないわ。欠点の一つや二つはあるもの。

 彼の病気は別段、人に害を加えるようなものでもないし、命に関わるようなものでもないわ。彼の頭の少し可哀想な部分を見て見ぬふりをしておいてあげたら。ね。どうということもないの。

 わたくしは決めたの。美しい思い出だけを心に残し、迷惑をかけられた子供の頃の彼の変質者ぶりについては締め出して忘れることを」

「殿下!」


 公女殿下はカールの言葉によって子供の頃を思い出してしまい、去年の夏の夜の美しい情景がぶち壊されてため息をつく。彼女としてもフランツについてなんの不満もないというわけではなかった……。





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