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逃走5

 逃走5


 マリアカリアの目には憲兵少佐が少しばかり好ましく映りはじめた。


 たとえば、サボイ・ホテルに入るとき、憲兵少佐は気を利かして濡れそぼった少女が風体を咎められないよう自身のコートで覆い隠した。また、貧乏そうな少女に恥をかかせないよう、フロントとの交渉は一切、自分ひとりでして少女に宿泊料の心配をさせなかった。

 この憲兵少佐はさりげなく紳士的な振る舞いができる男なのである。


 ただし、マリアカリアには、この憲兵少佐が女たちからは絶対にモテていない男であるとかなりの自信で言える。


 この憲兵少佐の公女殿下への偏愛ぶりが傍目にも明らかなのだ。

 絶対に自分を振り返ってくれないと分かっている男にどこの女がこころを寄せてくれるというのか。

 憲兵少佐になにか特別な魅力でもあれば別であろうが、噂の弟のように超絶美青年というわけではないし(それでも見てくれはかなりいい方に分類されるが)、女をすっかり安心させるような特別な雰囲気をもっているわけでもない。

 二枚目にも三枚目にもなりきれない、やや二枚目寄りの中途半端な存在なのである。この憲兵少佐という男は。

 これでは、女たちがわざわざ男の妄想の中の公女殿下と争ってまでして男の視線を自分の方に向けさせるよう積極的な態度に出る気も起きない。



 この残念な、件の憲兵少佐は食事中であるにも拘らず、田舎少女とその所持する旅券のことでもめている。


「エリカ・ヒルデガルト・マントイフェル?(もとの服装が連邦で多数を占めるであろう民族のと違い)明らかな偽名。そして年齢が50歳!

 よく国境を通過できたな」

 取り上げた少女の旅券を見て憲兵少佐は声を張り上げた。


「アハハハ。車掌とともに警備隊員が来ていたらしいけど、寝てたもので」

「嘘つけ!」

「いや。本当よ。ショール被って寝てたから、窓際にあった旅券を見て勝手に納得しちゃったらしいわ。隣の行商のおばさんが言っていたから間違いないわ」

「大丈夫か!?うちの国境。

 いや。そんなことよりこの旅券、他人のだろう。犯罪行為だぞ!反省しろ。反省を!」

「えー。いやよ」

「えー、じゃない。いや、じゃない。普通に窃盗のうえに密入国しているから。牢屋に入れられた上、国境地帯で5年の強制労働を伴う徒刑をくらってもおかしくないから!」

「恋愛はすべての罪を許すのです!」

「あかん。こいつ」



「ご苦労なことだ」

 マリアカリアが額に手を当てた憲兵少佐に労りの言葉をかける。


「悪党に同情されるようでは、俺もおしまいだ。そういう言葉は俺に向かって吐くな!」

「いや。どう見ても君は同情されるべき存在だよ。モテる要素満載なのに実にこう残念感で溢れるというか」

「俺は女性だからといっておまえに気を許したわけでは……。えっ!今、何と言ったんだ?」

 マリアカリアは肩をすくめてみせる。

「いや、なんでもない。

 ただ、君もよくやるよなあ、と思っただけだ。どうせ家出少女を見逃すつもりなんだろう?そのうえ、宿泊の世話まで焼いて。

 このホテルの宿泊料は高いのに。憲兵の安月給ではさぞ懐に響いたろうな。

 ちなみに、わたしが泊まるいつもの部屋は一泊300マルク(邦貨にして約30万円)もする。

 600マルク、1000マルクの部屋もあるらしいが、わたしは見たことすらない。当然、公女殿下はそこへお泊まりになるだろうが(カールが電話で公館へ公女殿下を無事保護した旨を伝え、同時に彼女の失踪についての箝口令を厳命した。公女殿下は急な発熱のため病気療養中ということになるらしい)。

 下世話な話だが、この田舎出の少女をどのランクの部屋に泊めたのだ?よもや最低の100マルクの部屋に泊めたのではあるまいな」

「ほっとけ。俺がその最低の部屋に泊まるんだよ。代わりに田舎少女のはランクを上げてある」


 余程、財布に堪えたのだろう、憲兵少佐が実に嫌な顔をする。



「よかったな。いいおベベが着れて、山盛りのご馳走をたらふく食べて、最高級のホテルにも宿泊できて。

 いい思い出ができたんだ。明日には故郷に帰れよな。家出娘」


 今度はマリアカリアが田舎少女の相手をはじめる。


 ぺーラ・アンナが熱い湯からあがって着替えたドレスはマリアカリアがすべて調達したものだった。

 マリアカリアは目測だけで相手のサイズを正確に言い当てることができる。それを辻馬車の御者を通じて女たちに伝え、女たちがマリアカリアの隠れ家からドレス等を引っ張り出して紳士然とした者(マリアカリアに恩義のある)に届けさせたのだ。


「なによ。これでも国では由緒正しき伯爵家の娘なのよ。馬鹿にしないでちょうだい!」

「ソーセージ持参で国境を越える伯爵令嬢などあってたまるか!」


 ぺーラ・アンナはあまり賢い少女ではなく、国境を越える旅の準備として旅券(他人の)と食料しか思いつかず、豊かなプスタ平原の住人らしく大量のソーセージとチーズ、それとライ麦パンの持参(家からの持ち出し)であった。

 お金の方は帆船の模型を買うために溜め込んでいた弟の貯金箱から失敬してきていた。なんせアンナは性格的にお金を貯めておくということができず、あまり買う必要のないリボンや飾り紐などにお小使いを浪費してしまうダメな少女であったからである。

 男の兄弟というのは、長ずると甘えて母親や姉妹たちを食い物にするが、年少のうちは姉たちの子分もしくは召使でしかない。アンナの専用の用語で弟から“借りて”も、アンナの良心は痛みはしない。たとえ弟が悲しんでも、この世に子分や召使に同情するような主人などいないのだから。


 ちなみに、マリアカリアなどは疑っているが、ぺーラ・アンナが伯爵令嬢であるということは本当である。

 住民の10人にひとりが貴族であるという帝国の北方ほどひどくはないが、プスタ平原にも約50人にひとりの割合で貴族がいて、そこの地主のほとんどが由緒正しき貴族である。

 大昔、帝国では大規模の反乱があり、ピンチに陥った皇帝を助けたのがプスタ平原の遊牧の民だった。恩を感じた時の皇帝はプスタ平原地方を格上げして二重帝国とし、自称に過ぎなかった遊牧の民の貴族位をすべて認めたのだ。しかも、同化政策を進めて本来の帝国貴族との婚姻を奨励したため、もと自称貴族たちは高貴な血を受け継ぐ本物の由緒正しき貴族となって、地主として土着している。

 もっとも、貴族だと威張ったところで、鉄道沿線にしか電気も電話線も通っていない田舎にすぎず、大したことはない。


「そのルドルフとかいう青年、大公の孫とはいえ、大した地位でもないのになんでブレスラウ公国の姫君のような高貴なお方と婚約できるのだ?

 釣り合いが取れていないのではないのか?」

「それは大公妃、つまりルドルフのお祖母さまのいるせいよ。

 帝国の大公にはね。息子が何人もいて、そのうえルドルフのお父様は長男ではなく将来大公の地位を受け継ぐ可能性は低いの。

 それでも、お祖母さまの胸先ひとつでルドルフは何にでもなれる。お祖母さまは帝国の各地にご自分の財産として広大な領地を持っていて、ルドルフにその一つを与えたうえ、皇帝を動かして好きな爵位を与えることができちゃうわけなの。

 あーあ。あのお祖母さま、ほんと気まぐれで意固地で意地悪なんだから。これまでずっとルドルフなんか全然構いもしなかったのに急に構い出したりなんかして。

 おかげで苦労しちゃうわ。恋する乙女は大変なのよ!相思相愛の恋人同士というのは幸せの前に一旦は生木を裂かれるようなひどい思いをしなくちゃいけない運命なのかも」


 相思相愛!?


 アンナを除く3名の紳士淑女たちは、ルドルフへの迎えの馬車に張り付いてまで追いかけていこうとする少女のストーカーぶりを思い出し、それはアンナが勝手に抱いている、ただの妄想に過ぎないんじゃないのかとの疑問が口からこぼれそうになる。


「そのルドルフ君とやらに会いに行ってはいけないよ。真実を知らずに綺麗な思い出だけを胸に過ごしたほうが人生は楽だから」

「なによ、あんた!さっきから嫌味ばっかり。わたしの華麗な恋愛に嫉妬しちゃっているわけなの?男のフリしていて全然モテないから!」

「ふん。モテないだと。わたしが、か?

 おまえはわたしの真の実力を知らないのだ。もし本当のわたしを知れば、おまえなど、わたしの足元から10メートルは離れてひれ伏すしかないとしれ!!」


「今、墓穴を掘ったぞ、おまえ」

 マリアカリアの精一杯の強がりに、目を料理にだけ向けやや俯き加減の憲兵少佐がポツリと呟く。

 困惑した公女殿下も目を合わさないように横を向く。


「君らも、か!?君らもそう思っているのか!?」

「仕方がないだろう。周りの御婦人方の視線をよく観察してみろ」


 憲兵少佐の指摘でマリアカリアが注意を向けると、少し離れた他のテーブルにいらっしゃるすべての御婦人方が目を輝かせ、何やら意味深な期待のこもった眼差しを一心にマリアカリアへ向けている。


「くそっ!」


「確かにおモテになるようね。本人の望んでる方向とはだいぶ違うようだけど。フフフ」

 田舎少女が意地悪く笑う。



 少々、今夜のマリアカリアたちの話し合いは長引きそうであった……。


   *        *        *         *


 一方、公女殿下から大金を獲得した旨の知らせを未だ受けていないフランツは大学病院の勤めを終え、ひどく気落ちした様子で、今夜も秘密の診療所を開けた。


 フランツはかなり優秀な外科医ではあるが、この診療所の治療とはあまり関係がない。


 フランツには幼少の頃から研究を極めたいものがあった。

 この変わった研究願望があったがため、何をしても兄には敵わないとのコンプレックスと相まって、彼はとうとう陸軍の士官学校へは行かずに医者の道を志したのだ。

 外科の腕がいいというのは、もののついでにすぎない。


 診療所はヴィクトリア・シュトラーセ262番地にある。

 完全予約制であり、診療室には診療机とドクトルの座る回転椅子、それと患者用の長椅子しかない。

 診療報酬は1時間15マルク。高額であるが、予約はいつも満杯である。


 本日最初の患者は、××夫人。


「……これまでお話しましたように主人とはうまくいっており、何の問題もありませんわ(わたくし自身はそう信じております!)。

 ただ、その……、夜の営みと申しましょうか、主人とアレしてコレしてもですね。いえいえ、その……行為といいますか、アレしてコレすること自体はうまくいくんですよ。そうじゃなくて、その……恥ずかしい。アレしてコレしてもですね。少しも……なんて申しましょうか、よ、よ、歓びを感じないんですの。これって、変なのでしょうか?

 小説ですとか。いいえ。いいえ。わたくしはそういう下品なものは読みません。

 うっ。しょ、小説を読んだ方から聞いたのですが、物語に出てくる女性の方たちはみんなアノことに、も、燃えるとか。

 燃えるのが普通なんでしょうか?

 わたくし、病気かなにかではございませんでしょうね?」

「普通です。貴女の方が断然、普通です。

 もし何らかの器官的な欠陥ないし肉体的なご病気をお疑いでしたら、きちんとそちらの方面を診察してもらえるよう腕が確かで信用のできる産婦人科医を紹介しますが。どうなされますか?」


 ドクトルは今朝のショックを未だに引きずっており、暗い顔したまま、普段と比べて言葉少なに元気がない。


「も、もう少し詳しく説明していただけないでしょうか?」

「統計では、すべての女性のどの年齢別を見ても異性との性交渉ないし性的行為によって快感や“イった”感じを得る割合は30パーセントにも到りません。つまり、経験者を含めたすべての女性の70パーセント以上が性的快感を得ておらず、普通に健康な生活を送っておられるのです。

 貴女は心配されておられるが、病気でも何でもありません。巷間では『不感症』とかいう、さも病気であるかのような俗語が実しやかに流布しておりますが、医学用語でもなければ、正確に身体の状態を表した言葉でもありません。

 そもそも女性の脳は男性のとは異なり、器質的にはなにが性的快感なのかそうではないのか、あるいはそういったものが本当に肉体的な接触によって生じるのかを判断できるようには出来ておりません。判断できるのはあやふやな快感的ななにかにすぎません。

 明確に感じ取れるようになるためには、継続した訓練が必要なのです。

 脳に同じような刺激を与え続けて後天的に取得する感覚だと言えましょうね。

 しかも、その取得には繊細でかつ慎重な配慮が必要です。もし女性の体が乱暴かつ無配慮に扱われてしまったら、逆に脳が性的なものに対する嫌悪感を記憶してしまい、その修復はかなり大変なものになります。

 世の中には、女性の特徴的な部分を執拗に刺激し続けさえすれば女性が喜ぶものと信じきっている馬鹿者たちがいますが、あんなもの、馬鹿な男の勝手な妄想でしかありません。全部、嘘ですから忘れてください。

 だいぶ余談をしてしまいましたが、貴女は病気でも何でもありません。性的な快感を得られなくともどうでもいいことなのです。そんなものが感じられなくとも、人間、別段、死にはしませんから」


 しばらく沈黙が続いてから××夫人が口を開く。


「でも、そうだとしたら(女性が性的快感を得られない場合)、とても味気ないものですわね。女の人生なんで」

「そうですか?逆に性的快感が得られるようになった場合、大変ですよ。いろいろと女性は」

「……」



 フランツが幼少の頃から研究を極めたいと願っていたものは、男女の性的問題であった。かなり以前から身内にバレてしまい、兄などからは「脳内がピンクでいっぱいなのか!」と罵倒し続けられたが、彼はどうしてもやめられずに今現在に至る。


 フランツとは超絶美青年のくせに中身がかなり残念な男であった……。





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