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逃亡4

 逃走4


 話の終わったマリアカリアはホテルの裏の通用口まで辻馬車を回すよう、支配人に言って、とあるスタンド・バーまでボーイを走らせてもらった。

 通用口を利用するのは、青いドレスの女を追いかけていった刑事たちが戻ってきて事情聴取をする危険があるからである。公女殿下もマリアカリアも人前で目立つわけにはいかない。


 外はもう雨が降っている。


「傘をどうぞ」

 支配人が通用口でふたりに傘を差し出す。


「支配人。明日、またな。アウフ・ヴィーダーゼーヘン」「アデュー」

 支配人は公女クリスティーネの方だけを向いて慇懃に頭を垂れる。どうやら支配人は彼女がどういう立場の人間であるかが判ったようである。

 彼は見送ると、すぐさま建物の中へ消えた。


 傘を受け取って公女に腕を貸しながらマリアカリアは囁く。

「これからどうするの?

 お嬢さまはお屋敷を黙って抜け出てきたのだろう。(心配している臣下のために)直ぐに帰りたいのならわたしが送ってあげよう。むろん、目立たないようにしてね。

 別にどうでもいいのなら、お腹もすいていることだ。夕食を快く奢って差しあげるが、どうだろう?

 この間、パスタの非常にうまい店を見つけてね。子牛の臓物料理も絶品だった。(コースで)7皿も出てくるんだ。その店ならお嬢さまもきっと満足すると思うよ」


 2台いる辻馬車の先頭の御者が扉を開ける。


 辻馬車はこの世界では見慣れた交通機関である。2頭立てで、御者が2人乗りの車室の後ろに座り、屋根越しに馬を御する。御者は当然、吹きさらしであり、今日のような雨の日には外套を着て濡れながら馬車の上で鞭を握る。

 ちなみに、この世界でも初期の自動車が存在するが、まだまだ大金持ちの道楽の道具にすぎず、一般の人の目に触れることはない。


「洒落者君。君にはその美しいお方に夕食を差し上げることは今回だけでなく未来永劫、無理だ。諦めたまえ」

「カール!」


 公女殿下は気づいていなかったが、通用口のすぐそばで山高帽をかぶり格子縞の袖無しコートを羽織った男が壁に背凭れてパイプを吹かしていた。


 男の名前はカール・フォン・ヘラーリング。弟と同じく漆黒の髪を持つ美丈夫。ブレスラウ公国の名うての辣腕憲兵少佐であった。


 カールも傘らしきものを持っているものの、開いた形跡はない。雨の降り出す前から通用口で待っていたのか、それとも……。


 その手に持つものの重量のある様子からマリアカリアはそれが傘などではなく仕込み杖の一種であることを看破した。


「おいおい。お姫様の警護か何か知らないが、物騒なものを持ち歩いているな。

 君は秘密警察かなにかか?」

「答える義務などない。

 それよりも貴様。はやくそのお方から腕をどけろ。悪党がそのお方に触れるなど、本来、あってよいことではない」

「悪党?見ず知らずの人間を悪党呼ばわりか。君はどうやら無礼者のようだな」

「言っていろ。俺は貴様の正体を知っている。『プラチナ・ブロンドの男』もしくは『バトン(棍棒)』。あるいは、女たちから『シガー(Zigarre)』と呼ばれていることを」

 どうせ、かつらでも被っているのだろうと馬鹿にした様子でカールが言い放つ。


 マリアカリアは今まで散々敵対する者たちを痛めつけたため、裏の世界の住人たちからは恐怖の思いを込めてその特徴である『プラチナ・ブロンドの男』あるいは好んで使う武器から『バトン』と呼ばれている。

 名前を忘れてしまったマリアカリアは自分から名乗ることはない。だから、彼女を表す記号はこういうあだ名となっている。

 ちなみに、保護している女たちから『シガー』もしくはその頭文字を取って単に『Z』と呼ばれている。理由は、マリアカリアが呆れるくらい紙巻を吸うからである。


「やはり警察か。そこまで分かっているのなら、なぜ本気で捕まえようとしない。警官隊がどこにもいないぞ。ひとりで十分だと自信過剰なのかな」

 マリアカリアがポケットからナックルを取り出し左手にはめる。相手が凄腕だとわかっているので、容赦などするつもりはない。


「うん?」

 緊張した雰囲気の中、マリアカリアの様子を見ていた憲兵少佐が不審そうに顔を歪める。

「貴様。さっき、少しばかり内股気味で歩いていたな。通常の人間にはわからない程度に微妙なものだったが。

 はあっ。もしかしたら、貴様、女性だったのか……」

「……」

 肯定とも否定ともつかない微妙な沈黙が続く。公女クリスティーネは目を見開いている。

「プハハハ。評判の悪党が女性とはな。これは傑作だ!」

「黙れ!そういうことは今は関係ないはずだ」


 一瞬で、マリアカリアの耳が赤くなった。

 普段、ものに動じないはずのマリアカリアが恥ずかしがっている。日頃から女性なのに男扱いされているマリアカリアは相当にストレスを溜めているはずだが、こうして面と向かって指摘されると、当たり前のことがなぜだかとても恥ずかしい。


「そうだな。おまえが女であろうがそうでなかろうがどうでもいいことだ。

 俺は地方の憲兵で首都に管轄権を持たない。おまえを捕まえることよりもそちらのお方を気遣うことの方がずっと大切だ。

 とにかくおまえはそのお方から離れろ。そのお方はおまえが思っている以上に身分のある高貴なお方だぞ」

「当然、判っているさ。彼女こそブレスラウ公国の高貴な公女さまなのだろう?

 今、首都で地方の警察関係者が出張ってきて警護に当たらなければならないほどの大物なんてそう多くはいない。しかも、女性。

 ちょっと情報を齧っているものなら誰にでも推測できること。況や耳が聡くなければ生きていけない悪党においてはモチのロンさ。

 そういう高貴なお方がなぜ大金を必要とされているのか、非常に興味を掻き立てられることだが、今は嘴を突っ込むのをやめておこう。

 まあ、なんとなく判るけれどね。どうせ男のためだろう。女性が大金を急いで欲しがる理由なんてこれしかあるまい」

「……フランツのためなんですか?殿下」


 憲兵少佐カールがショックを受け、暗い声を出す。

 カールは未だ公女殿下のことを思い切ることができていないし、あの出来損ないの弟のために大切な公女殿下が危ないことをしたのだと知って異常な腹立ちを覚えた。


「とにかく。雨の中で突っ立っていても仕方がない。

 呼んだ辻馬車は2台ある。わたしは先頭のにひとりで乗る。君たちは後続の馬車に乗りたまえ。このままお帰りなっても構わない。

 あすの大金の受け渡しについて話を詰めておきたいのなら、わたしについてくるがいい。わたしはこれからサボイ・ホテル(超高級ホテル)へ行く。あそこのセキュリティは万全で、人目を気にせずにプライベートなお話が出来るからね」


 マリアカリアの言うように雨の中をいつまでも立っているわけにはいかない。大切な公女殿下をこのままにしておくなど言語道断である。

 なによりもマリアカリアが公女殿下に危害を及ぼす様子もなく、見てくれは美青年だが中身が女性だとわかったので心の中の炎も消えた。

 フランツが大金の要る理由も気にかかるので、カールはひとまず矛を収め公女殿下の警護としてマリアカリアについていくことにした。


 乗り込んだマリアカリアが馬車の屋根を中からつついて出発の合図を送る。

 もちろん、辻馬車の御者たちはマリアカリアの息のかかっている者たちで、聞いたことを外へ漏らす危険はない。2台来たのはいつものことで、追跡者をごまかすためのマリアカリアの普段からの用心である。


 ところが、辻馬車が通用口のある裏通りから表の通りに曲がったところで事件が起こる。


 雨の中、マリアカリアたちの目の前で先へ行く立派な4頭立ての箱馬車(紋章付き)からその背に大きな荷物を抱えながらへばりついていた少女が力尽きて落ち、路上に投げ出されたのだ。

 マリアカリアたちの辻馬車が急停車する。


「やれやれ。今度は田舎出の少女らしいな。日に2度も家出少女に出会うなんてなんの因果だろう。妙なものに縁がありすぎて困る」

 マリアカリアは辻馬車から降りようともしないが、後ろの馬車からカールが飛び出て、少女の身体の具合を確認してから助け起こす。


 少女に怪我等はないようだが、ずぶ濡れである。

 カールがマリアカリアのところまで少女を連れてくる。


「憲兵殿はさすがに親切だな。でも、まだ荷物が路上に散乱しているよ」

「貴様!」

「おやおや。わたしは女性だ。こういうことは殿方の役目のはず。

 それに、無謀なことをする奴の尻拭いは御免こうむる。ツケは自分で払わせるべきだ。そんな奴のためにわたしが雨に濡れるなんて馬鹿げている」

「俺も悪党に人並みの同情を求めたりはしない。(少女を)サボイ・ホテルまで乗せてやれ。(少女のために)部屋は俺がとる」

「嫌だね」

「なぜだ?こちらの馬車はまだ一人分空いているではないか。殿下をおまえと一緒にするわけにはいかないし、俺がこちらへ乗って少女を殿下と一緒にするわけにもいかない。必然的におまえと少女が一緒になる他ないではないか」

「濡れそぼった奴に隣に座られるのはゾッとする。しかも、少女が馬車から落ちたとき、スカートの裾に馬の落し物をべったりつけてしまったのを見てしまった」

「おまえなあ」


 憎まれ口を叩いているが、実は嫌だと言いつつマリアカリアの心はとっくに軟化している。


「ふん。仕方がない。ここでゴネて後ろのやんごとない高貴なお方のお心をいたずらに騒がすことも無粋だな。

 わたしの人生で1度か2度ほどしかないことだが、愚か者に同情してやろう。

 乗るがいい。この田舎者め!」


 マリアカリアは濡れそぼった子猫のような少女のためにドアを開けて席を詰めた。




「何をジロジロ見ているんだ?」

 マリアカリアが乗り込んだ少女が怪訝な顔で見てくるのに苛立った。


「とても女性には見えないわ」

「フフ。わたしの変装は完璧だからな。素人では仕方がない。後ろの憲兵のような慧眼の持ち主しか見破れまい。

 注意してよく見てみろ。もみあげ部分が無いだろう。剃り落とした跡もない。それに喉。喉仏も出ていない。

 人を観察できる人間はごく小さなことでも見落としはしないものさ」

「いや。そういうことではなく、貴女、胸がない」


 少女が緑の目を瞬かせる。

 マリアカリアが一瞬、間を置いて激高する。

「言ってはいけないことを言いやがったな、このアマ!

 人の心の中にある触れてはいけないものに指を突っ込むとどうなるか教えてやろうか!今すぐにでも箱詰めにして橋の下に捨ててきてやろうか、貴様!」



 サボイ・ホテルに着くまでの間、少女ぺーラ・アンナはプスタ平原の片田舎から国境を越えて連邦の首都まで出てきた理由を際限なく得意になってしゃべり続けた。

 田舎出の濡れそぼった子猫は精神も肉体も強靭で、馬車から落ちたことなどもうすでに気にさえ留めていなかった。

 それもその筈。プスタ平原は牧羊の民のいるところ。羊ばかりでなく牛や馬も放牧している。凄まじいばかりの田舎であり、何事も荒っぽい。道路は舗装されておらず、ところどころぬかるみさえある。しかも、アヒルの群れなどどこにでもいる。

 アンナくらいの少女たちは普段、靴さえ履いておらず、裸足で泥だらけの中や動物の落し物が散らばる平原を駆け回るのがデフォである。

 つまり、牧羊の民は雨に降られようと風に吹かれようと平気である。ぺーラ・アンナも当然、牧羊の民の名に恥じぬほど逞しい。たとえ怪我をしたとて少しくらいのことなら気にもとめない(幸い、今回は怪我するようなことはなかったけれども)。


 一方、マリアカリアの方は先ほどの暴言のショックから立ち直れていない。アンナの話も半分位聞き落とし、何やらブツブツとつぶやいている。

 サボイ・ホテルに着いてからも、公女クリスティーネを見るなり、「公女殿下もわたしの敵か。くっそう!」とつぶやいてみせたり、しばらくは何やら様子がおかしかった。


「お、おい。どうしたんだ、一体?」

 憲兵少佐がマリアカリアに声をかける。


「どいつもこいつもわたしを男としてしか見ようとしない!」

「そりゃ、おまえが男装などしているからだ。お前が悪い」

「理由は分からないし、誰に追われてるのかすら定かではないが、わたしはとにかく追われているんだ。男装して身を隠すのは仕方がないだろう!

 だが、わたしの言いたいことはそういうことではないのだ!もっと重要なことを多くの人間から無意識のうちにディスられているのだ!これが怒れずにおられようか!」

「なんだそれは?よくわからないが、ともかく落ち着け」


 マリアカリアはふと気づく。

「そういう意味では、憲兵殿はとてもいいやつだな」

「はあ!?頭でも打ったのか?」

「まあ、そういうことにしておこう。

 すまなかったな。もう大丈夫だ。わたしは落ち着いた」


 カール・フォン・ヘラーリング憲兵少佐は自分を見るマリアカリアの目から少しばかり剣呑さが消え穏やかなものになったことをまだ知らない。




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