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逃走3

 逃走3


 公女クリスティーネは喜びのあまり何も考えられなくなっていた。それで、彼女は親切そうな栗毛の美青年の言うままに動いた。



 彼女は今朝、フランツの辛そうな顔を見て以来、何も手につかないでいた。そして、夕方、公館を抜け出し、フラフラと当てもなく市中をさまよい歩いた。雨が降りそうだったが、彼女には気にする余裕すらなかった。


 彼女とてもとより覚悟していたことではある。

 彼女は公女であり、正式な結婚をするには相手が大陸に散らばる各国の王族か、そうでないとしてもせめて由緒ある侯爵位くらいは必要であった。

 公女クリスティーネは婚姻によって大陸中の王族や有力貴族と血縁関係を築くというシュタイアーマルク家の伝統にひとりだけ逆らうことができないでいる。

 たまたま彼女に見合う王族の男子がいなかったおかげで今まで引き伸ばしてこられたのだが、それももう終わりそうであった。

 フランツの家は代々有名な軍人を排出する由緒ある貴族ではあるが、それでも伯爵家にとどまる。しかも、フランツは次男坊でしかない。兄のカールが伯爵家を継いでしまう。


 しかし、最近になって彼女は彼と結ばれるかもしれないという光明をようやく見い出した。

 彼女の故郷ブレスラウ公国の境界に大きな領地を持つベーネボーメ侯爵家という大貴族がいる。この侯爵家の当主クルトは領地経営の失敗と無謀な投機のせいで莫大な借金を背負ってしまった。社交界の公然の秘密であるが、このままでは当主クルトは期日までに返済ができずに裁判所から破産宣告をされる可能性が高い。そうなってしまえば、一大スキャンダルであり、当主クルトは自殺する他ない。侯爵家も下手をすれば取り潰しの憂き目に遭う。

 ここで、もし当主クルトに代わって借金を返済する者が出てきたらどうだろう。返済した者が立派な貴族の男子であれば、恩を受けた当主クルトは感激し彼を喜んで侯爵家の養子にしないだろうか。そして、自分は引退して侯爵位をその養子に譲る。当主クルトには幼年学校に通う息子もいるが、結婚後、要らなくなった侯爵位を返してしまえば誰も困らない。


 この夢のような計画を実現するには、とにかくお金。それも大変な額のお金が必要。


 そういう目的で公女とフランツが大金を集める算段をはじめたところで、今回の婚約の話が降って沸いた。


 どうして?こんな時に。

 時間が無さ過ぎるわ。ああ、もうおしまいなの?これで本当におしまいなの?


 今朝のフランツの打ちのめされたさまを見て、彼女もまた絶望に陥った。



 夕方、湿っぽい空気の中、彼女は夜会用の異常に品のいいドレスを纏ってひたすら歩いた。

 夜に活躍する蕩児たちがその美しさに目を引きつけられるが、彼女のあまりに暗い表情に声をかけそびれる。


 一体どれくらい歩いただろうか。公館から市中までは辻馬車を拾ったものの、中心部に入ってから彼女はずっと歩きっぱなしである。

 日も暮れ、光り輝く繁華街の真ん中で彼女は疲れをようやく感じて立ち止まった。

 彼女がいなくなったことに気づいて、今頃、公館は大混乱だろう。だが、彼女にとってどうでもよかった。


 そんなことより。

 いっそのこと、大学病院を退いてから夜にひっそり開かれるという彼の診療室へ押しかけて、彼の腕の中で大泣きしてみようか。

 少しだけ気持ちが晴れるかも知れない。


 ああ。フランツ……。


「もしもし。お空が泣きそうよ。こんなところにいたら、貴女、濡れちゃうわよ。

 おやおや。すでに心の方が土砂降りでしたか」


 青いドレスを着た薄い色の金髪の美女が公女クリスティーネに声をかけた。


「たとえ9つの子供のように大事にしていた人形の首が取れちゃって悲しんでいたとしても、貴女ならわたくしは同情するわ。

 大昔に貴女と同じような表情をした女の子を助けたことがあるの。

 大変、いいものが見られたわ。あれと同じものが見られるんだったら、わたくし、労を惜しまないわ。恋のお話って、とても素敵なのよね」


 公女は半ば自暴自棄になっていたのだろう。恍惚の表情を見せる青いドレスの女性に全てを話してしまう。


「要するに、お金があればいいのね。わたくしが差し上げてもいいけど、貴女、それでは納得しないでしょう?

 いいこと思いついたわ。そこで貴女が稼いでみない?ゆで卵のカラを割るよりも簡単なことよ」


 公女は半信半疑であったが、青いドレスの女性の言うままにオテル・ド・サンドリオンの賭博場へ行き、もらったお金を元手に言われた目に賭けると公女のもとには大金が転がり込んだ。


 1089万マルク!侯爵の借金を返してもまだ余る大金である!

 あれだけ悩んだのが、嘘みたい!

 これでフランツと……。


 公女クリスティーネは喜びに我を忘れ、未だ夢の中にいる心境である。




「支配人の不安はよくわかる。

 このホテル。賭博場の稼ぎも含めて月7,80万マルクの利益がせいぜいだろう。一年間でようやく1000万マルク。しかも、これは売上にすぎない。本国に利益の一部を送らなければならないし、他の株主に配当をしなければならない。従業員の給料だって払わなければならない。ホテルの維持費も馬鹿にならない。

 いろいろ差し引いて年間でようやく150万マルク程度の支払い能力しかないはずだ」


 公女クリスティーネが我に返ると、応接室でハンカチで汗を拭く支配人を目の前にして栗色の髪の美青年と並んで座っていた。

 美青年がとても気になることを支配人に向かって話している。


「端の89万マルクを仮に即金で払うとして、あとの1000万マルクの支払いをどうするか?

 ライヒ・バンクを支払人にする小切手をきる?それとも額面を2割ほど上乗せした約束手形を振出して市中で割引いてもらう?

 どちらも無理だ。小切手なら支払期日までに支払資金の振込ができずに支払い拒絶。また、一見して支払能力を超える手形なぞ誰が相手にしてくれる?不渡り確実な約束手形を裏書してくれる奇特な人間などいるものか」


 マリアカリアの言葉に支配人の顔が一層青くなる。


「それに端の89万マルクだって支払うことが難しい。

 なぜなら今晩、ここの賭博場でわたしは100万マルク近くほど稼いでいる。わたしがチップを現金化すればホテルの金庫は空になる。支配人がこちらのお嬢さんに89万マルクを支払うにはどうしてもあすの朝、銀行に緊急融資をしてくれるよう泣きつかねばならない。

 そうなったらどうなる?このホテルは信用を失い、銀行の方は大混乱さ。

 非常にまずいことだよね。これは」

「ああ。もう、おしまいだ!」

「いや。支配人、大丈夫だ。わたしがいる。

 君たちは実に幸運だ。

 わたしは帝国の国債を額面で1000万マルクほど持っている。固定利率5分のやつで、10年持っていれば1500万マルクに増える。しかも支払いは帝国の保証付き。言うことなしの素晴らしい債権さ。

 この帝国の国債でわたしが支配人に代わってこちらのお嬢さんに支払いをする。どうかな?

 むろん、ただではない。支配人にはわたしのささやかなお願いを聞いてもらうことになる。お願いを聞いてくれたら、誰もが幸せになれる。もちろん今回のことは本国に知られずに支配人は首を切られずに済むし、ホテルだって益々繁盛する。いいことづくめだよ、支配人」


 支配人がゴクリとのどを鳴らす。


「わたしのお願いとは、ホテルの賭博場をわたしの友人たちにも利用させて欲しいということだよ。ささやかなお願いだろう。

 大金持ちがある日、賭博で大きくスってしまった場合、すぐ近くで金を貸してくれる人間がいたら非常に便利じゃないか?

 その場合、大金持ちに借金の2割増の額面の約束手形を振出させる。最初の受取人は支配人、君だ。君は次に額面を3割り引いた額でわたしかわたしの友人に裏書をする。君は9割の借金しか回収できないけれど、損をした1割分は当然、わたしに対する今回の借金の返済に当てられる。わたしのアドバイスを聞いてホテルを繁盛させた場合、1年くらいで1500万マルクくらい返済できるのではないかな」

「1500万マルク?1089万マルクではないのですか?」

「当然の利息だよ。こちらは1500万マルクの価値を持つ有利な有利な帝国の国債を売り払うんだ。色をつけるのは当たり前だろう」

「……あなたはどうやら裏の世界の人のようだ。

 ホテルの賭博場を利用してマネーロンダリングをし、そのうえ税務署から追求不能な高利貸しをする?

 とんでもない悪党だ!なにがささやかなお願いだ!

 このホテルはそんじょそこらの安ホテルとはわけが違う。一流のホテルなのだ。悪党どもがおいそれと汚い手を突っ込んでいい場所ではない!」


 支配人の怒りの叫びを聞いてもマリアカリアは動じない。


「おうおう。怖いな。さっきまで青い顔をして冷や汗をかいていたというのに元気がいいねえ。

 ふむ。わたしの提案を聞けば、君の良心が痛むというわけか。

 でも、君には選択の余地はないはずだ。わたしの提案を聞かずに破滅するか。それとも聞き入れて、われわれとともにハッピーになるか。2つにひとつ。

 君がここで自殺しようが、興奮のあまり血管をぶち切らして死のうが、君の代わりはいくらでもいるし、ホテルが莫大な借金を抱えている事実に変わりがない。深く考える必要は何もないのではないかな。

 マナーの悪いゴロツキが我が物顔でのさばるとかいう君の懸念するような事態は起こりえない。わたしだって利益を考えればこのホテルが一流ホテルとしてますます繁栄していくことが望ましいのだからね。

 それに、カモになるのは大金持ちに限られている。彼らにとってちょっとした気晴らしで大金を散ずることなんてよくあることじゃないか。誰も不幸になったりしない。しかも、彼らは少しばかり痛い目にあってもまだ遊び足りないから、こちらの都合の悪いことが外に漏れる心配もいらない。

 何を躊躇うことがあるんだい?

 酸いも甘いも噛み分けた大の大人が少しくらいらしくないことに目をつぶっても罰は当たらないんじゃないのかな。君?」

「くっ。……わたしが承知しても、ホテルの利益を守るため必要悪として働いてもらっている連中が許さないぞ。彼らだって体面があるんだ。新参者の悪党に縄張りを荒らさせるようなマネをするはずがない」

「ヘルマン組のことを言っているのか。それなら問題はない。わたしは彼らのことが嫌いではない。実にスマートに仕分けをしてホテルによからぬ輩が入ってくるのを防いでるし、賭博場の借金の取立ても極めて紳士的だ。むしろ尊敬しているといってもいいくらいさ。

 わたしが筋を通して彼らと話をつける。

 これで、疑問点はもうないな。

 取り敢えず、代言人を呼んできて1500万マルクの債権証書を作ってもらおうか。詳しい話はそれからだ。

 あまり君とばかり長いこと話し合いをしていると、待っているお嬢さんに迷惑だからね」


 マリアカリアは支配人との話し合いを打ち切り、公女クリスティーネの方を向く。


「お嬢さんとのお話合いはより簡単だよ。

 わたしは明日、ここへ額面1000万マルクの帝国の国債を持ってくる。その時までに支配人の1500万マルクの債権証書が出来上がっていれば、それと交換で貴女に帝国の国債を渡す。

 無記名式の国債だから貴女が銀行に持ち込んで売り払おうが、バラして市中の金貸しのところで現金化しようが自由だ。それでいいよね?」


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