逃走2
逃走2
ペール・アンナは拳を握る。泣いたあと、すぐに心が決まった。
ルドルフがそばにいない人生なんて考えられない。自分の人生から彼が消えかけているのならば取り戻さなければならない。取り戻してしっかりと自分にくくりつけておかなければならない。幸せとは自分の手でしっかりと握っておくものなのだ。
しかし、アンナが帝国の大公妃である彼の祖母を説得して婚約を撤回させることはほぼ不可能である。
彼の祖母は自分より身分の低い他人の言うことを聞く人間ではない。しかも、反対されると意固地になって、結果が思わしくない方向に向かうことが分かっていても自分の意見を貫いてしまう女性なのである。
機嫌を損ねると、彼女は使用人であろうと息子(すでに50代の立派な髭をもつ勅任官で大臣の)であろうと持っている黒檀の杖を振り上げ、厳かな声で「背中を出しなさい」とだけ言ってピシャリと打ち据える。
屈辱的なのは、この場合、殴られた人間が彼女に向かって必ずお礼を言わなければならないことである。
「マダム。物事を知らないわたくしめを叱ってくださってどうもありがとうございます」
アンナは暴君から杖で殴られ損になる以外の方法を考えなければならなかった。
幸い、アンナはルドルフの予定をすっかり知っていた。
彼がいつ花の都にある祖母の館を出発して、何時の連邦の首都行きの列車に乗るか、そして、首都についた彼が誰の館にやっかいになるのか、ということまでルドルフの妹(アンナの大の親友)からすべてを知らされていたのだ。
「これはルドルフを追いかけていって連邦の首都まで行くっきゃないじゃないの。
お祖母さまの目がない外国なら、ルドルフだって男気をみせて家族の反対を押し切るかも知れないわ。それに相手の公女さまだって事情を話せば生木を裂くような酷いまねはしないはず」
帝国から連邦へ向かうには旅券が必要だったが、アンナは自分の家庭教師である婦人のもとから旅券をよく似た赤い表紙の手帳とすり替えた。
アンナには罪悪感がさほどない。人を騙したり他人の物を勝手に盗ったりすることは悪いことではあるが、恋のためなら仕方がないこと。黙って連邦まで行くことは両親に心配をかけて悲しませると分かってはいるが、自分の幸せのためには仕方がないこと(ただ、アンナも弟を脅しつけ、両親あての手紙を預からせている。自分の行ってしまったあとの混乱に対する一応のケアーをしているつもりだった)。
通俗小説を読みふける彼女にとって恋愛はすべてに対する免罪符であった。
秋も終わりかけた、ある晴れた日の午後。
帝国の花の都、カイザー・ヨゼフⅡ世駅のプラットフォームから連邦へ向けて大陸急行列車が出発した。
ルドルフとその老僕ヨハンは手洗いとシャワー・ルームつきの特等客車の車内で優雅にお茶を楽しみながら走り出した車窓からの景色を眺めた。
一方、同じ列車の3等客室で木の座席の硬さに辟易しながらアンナは袋から取り出したソーセージを切り、黒パンを齧る。妙に埃っぽい車内で、他の乗客が持ち込んだ大量の籠に入れられた鶏たちや行商の大きなつづらなどに囲まれながら……。
「さあ、お食べ。いずれ羽根をむしられ、どこかのおじさんのお腹に収まってしまうとはいえ、今はおまえたちの時間なのだから」
アンナは零したパン屑をきょとんとつぶらな瞳でこちらを見ている鶏たちに与えた。
啄む鶏たちを見ながらアンナはため息をつき、少し昼寝をしておこうと座席の荷物を動かした。
* * * *
ブレスラウ公国の公女クリスティーネ・アンリエッダ・ナントカ・カントカ・ナンデモ・カンデモ・シュタイアーマルクとかいうとても長い名前(本当はもっと長いのだが、書く意味がないので適当に省略)の21歳になった女性はすでに連邦の首都にある公館で暮らしていた。
解くと、腰のあたりまで届く亜麻色の艶やかな髪。瓜実顔だが、厚髪で額はそう広くないので品がある。目は青く、濃い色の眉毛も自己主張をしすぎることもなく、ちょうどいい。美男美女の家系のため、鼻の形は完璧である。
尖った耳があれば伝説のエルフそのもの。
それが、公女クリスティーネの容姿であった。
短剣に蔓薔薇が絡みつた紋章の目立つ広間で公女クリスティーネは今日も謁見している。
「公女殿下。ご機嫌麗しゅう」
「おはよう。ドクトル」
朝から5番目に必ず拝謁を願い出るこの男、フランツ・フォン・ヘラーリングはとても変わった男である。
公女クリスティーネと同い年であり、故郷ブレスラウ公国の貴族の次男坊。
ごく幼い時からシュタイアーマルク家に小姓としてあがり、公女とはともに寝起きをして一緒に遊んだ仲である。
小姓を退くと、普通は士官学校へ行くものであるが、なぜかこの男は大学の医学部へ進み(飛び級で)医者になる。
「いつも言っていることだけれども、そんなに離れていては声が聞き取れないわ。もっと近づいてちょうだい。ドクトル」
苛立った公女は巨大な父の肖像画を背にした立派な椅子から降りて恭しい様子で立っている漆黒の髪の男のそばへと歩み寄る。
憎たらしいことだが、この超絶美形は公女が歩み寄るだけ恭しく後ろへ下がっていってしまう。距離が縮まらない。
小姓に上がった頃は生意気で、面白がってわたくしの鼻を摘んだこともあったのに(もちろん後でフランツは同じく小姓に上がっていた兄のカールからこっぴどく制裁を受け、公女は公女で別の日にフランツの背中にカエルを入れるという仕返しをした)。
「フランツ。ふざけてないで話を聞きなさい。
婚約発表の日が決まったの。1週間後、マイゼル公爵夫人の誕生日パーティで……」
そこまで言うと、公女は苦しくなってもう何も言えなくなった。漆黒の髪の男も顔を青白くさせ目を澱ませる。
しばらくして男はいつものように公女の手をいただいて口付けることもなく、無言で一礼して立ち去った。
* * * *
その夜、マリアカリアはオテル・ド・サンドリオンへ足を向けた。目的はいつものごとく活動資金獲得のための賭博場巡り。
オテル・ド・サンドリオンは名称のごとく外国資本による高級ホテルであり、宿泊客も賭博場の紳士淑女も外国人が多い。
マリアカリアはいつものようにルーレットを一回りしてからカードで遊び出す。
彼女はシガレットを口にくわえ、ホワイトタイを時折いじりながら完全なポーカーフェイスでカード台のディーラーたちを圧倒する。
いつものことである。
札が開けられる度にディーラーは自分に運のないことを呪った。
よりにもよって自分の担当の時になんでこんな客が来るんだ!また負けたぞ。根こそぎ持っていきやがる。支配人から許された(負けてもいい)極度額なんてとっくに超えちまっている。
どうするんだよ、オレ!
カードで散々稼いだ後、マリアカリアは潮時とばかりに帰ろうとしたが、途中で気が変わる。
ふと、ルーレット台のある方を見ると、不思議な雰囲気をもつ青い服の女性が上品な服できめている若い女性に盛んに話しかけているのが目に入った。
若い女性の方は艶のある綺麗な亜麻色の髪をしている。
着こなしの雰囲気からしてこの若い女性はかなり高貴な身分の人間にみえる。若い女性がシックな服を身に纏うにはそれなりのものが必要だが、この若い女性は完全に着こなしている。普段からそういうものを着ているとしか思われない。
また、賭博場など生まれて初めてといったぎこちなさが垣間見える。
彼女は高位貴族の箱入り娘であるとみて、まず間違いはない。
ふむ。面白い。
警察だろう、青い服の女に向けられたいくつかの目も気になる。
興味を惹かれたマリアカリアは普段ではしないことだが、ルーレットで再び遊ぶことにした。
トレードマークであるプラチナブロンドの髪を色の違う男性用のかつらでごまかしているマリアカリアは、本来は避けるはずの厄介な目(警察だとか敵対勢力だとかの)も気にしない。
見ていると、青い服の女性から財布を渡された若い女性が紙幣を取り出してボーイに渡し、1万マルクのチップに変える。
「さあ、賭けてください」
ディーラーが声をかけると、若い女性はなんの躊躇もなく1万マルクのチップをすべて赤の14の目ひとつに張った。
ルーレットが回転し始め、人々がこれ以上かけるのを制止される。
球がルーレットの中で最初勢いよく回っていたのが、弾けながら段々と速度を落としていく。やがて球がひとつの目にはまり込み、ルーレットが停止する。
「赤の14です」
ほおぅっというため息が周りの人々から一斉に漏れ出す。
赤の14の目へディーラーが熊手で33万マルクのチップを寄せる。
周りの人々の目が幸運の掴み手である若い女性が次にどうするのかとその手元に集まる。
だが、好奇の目以外の意味のいくつかの視線が青い服の婦人に刺さったことをマリアカリアは見逃さない。
「あっ。ちょっと、まずいかも。ごめんなさい。最後までお付き合いできなくて」
青い服の婦人が若い女性の耳元で何かを囁くと、尻切れトンボの挨拶を残して素早くその場を立ち去った。
青い服の婦人の後を私服の刑事と思しき2人組が追う。
「あのっ!お財布を!」
「いいの。いいの。それ、あげるから」
必死で呼びかける若い女性に対してすでに出口の人ごみの中にいる青い服の女は早口で答えた。
「どうされますか?賭けをお続けになられますか?マダム」
ディーラーの注意で若い女性の意識が再び台の方へと向かう。
「全部を黒の29の目にお願いします」
再びの一点賭けに周囲のどよめきが起こる。
今回は33万マルク、家庭を持つ中流の紳士が一生安楽に暮らせるだけのお金をまるで小銭を扱うかのようにして確率論からみて無謀としか言いようのない賭けに差し出す。
このご婦人、お金の価値が本当に分かっているのだろうか?
周囲は言いようのない好奇の眼差しを若い女性に降り注ぐ。
ルーレットが回り始める。
本人より周囲の方が手に汗握ってルーレットの中で転がり続ける球を見つめてしまう。
やがて球が目に入り、ルーレットが回転を止める。
「……く、黒の29です」
誰も彼も声が出ない。
高額チップの山を手元に積み上げられ、さすがの若い女性も呆然としている。
ディラーは真っ青である。手が震えている。彼はもう自殺の方法を検討し始めたに違いない。
「これ以上は止めた方がいい」
栗色の髪の美青年がボーイを呼んでお盆にチップを積ませてキャッシャーへ急がせ、若い女性に代わって大勝したときのおすそ分けをディラーに支払った。
「えっ。あのう」
「年季の入ったギャンブラーなら心配はいらないんだが、君のような初心者が大金を稼いだ場合、変な連中が寄ってくるからね。連中が寄ってくるまでに退散したほうが利口なのさ。
それに、わたしは金以外の点で貴女に興味がある。わたしはひとつ深刻な問題を抱えていてね。貴女ならその突破の糸口になれると思うんだ。
やんごとない高貴な身分のお嬢さん」
若い女性の腕を取ったマリアカリアがまるで恋人が睦言を甘く囁くようにして不穏なことを耳に入れる。
「せ、せん、1089万マルク!
と、とても現金で一度にお支払いできません。というか、手前どもに支払える額ではございません」
邦貨で110億円に近い請求にキャッシャーの男性は今にも悲鳴を上げて卒倒しそうな様子である。
「こういう時は支配人を呼ぶべきだろうな。ヘル(ミスター)」
「は、はい。そうでした。応接室にご案内させますので、そちらでお待ちください。すぐに支配人を参らせますので」
マリアカリアの助けに男性はハンカチで額を抑えながらようやく自失の状態から戻ってきた。
ボーイに案内され、廊下を進みながらマリアカリアは薄く笑いながら若い女性の耳元で囁く。
若い女性は先程から大人しく、魔法でもかけられたかのようにマリアカリアの意のままに動く。
「わたしがついているから何も心配する必要はないよ。
わたしは君のお金を盗ったりはしない。今日、君の稼いだくらいのお金はわたしも持っているから。ただ、君と違い、何軒も何軒も賭博場を回らなくてはならなかったけれどね。
玄人は目立ってもいけないし、(賭博場に)反感を持たれてもいけないんだ。一箇所で勝ちすぎてはいけない。
素人の君は当然、そういうことを知らずに勝ちすぎてしまった。これから厄介なことになるけど、玄人のわたしがうまくまとめてあげよう。だから、安心していい。
もっとも、ただではないけどね」
マリアカリアの最後の言葉を聞いて若い女性がぴくんと身をこわばらせる。
「そう警戒しなくてもいい。対価には釣り合いが大切さ。わたしは自分のしたささやかな助けに深刻な対価を要求したりはしない。相手がとびきりの美女で気に入っているなら尚の事。
ほんのささやかなお願いをひとつだけ叶えて欲しい。貴女なら簡単にできることだ。そして、もしよければ、あの青い服のご婦人のことも話してくれると嬉しい」
マリアカリアののぞみは身分証明書を手に入れることにある。
悪名が高まるにつれ、警察がマリアカリアを本気で警戒し始めた。
旅券も持っていないマリアカリアは不良外国人ですらない。公文書上、存在しないはずの存在。
そういう存在がもし警察の手に落ちたらどうなるか。さんざん調べられた挙句に軽くて国外追放である。この世界では無国籍者に対する扱いはひどい。残りの人生を監禁されて過ごさなければならないかもしれない。
なんといっても存在しないはずの人間なのだ。官憲がどう扱おうと自由である。
それに、マリアカリアの妄想上、彼女は複数の国に追われている身の上である。捕まって照会でもされたら目も当てられない。
だから、彼女は是非とも何らかの身分証明書を手に入れる必要があった。
そして、一番簡単なのは外国の領事館に旅券を発行してもらうことである。よその国の外交官のお墨付きがあれば、国内警察は外国にケンカを売ることもできず、多少胡散臭いと思ってもその通り扱うしかない。犯罪の証拠がない限り、裁判にかけることもできず、せいぜい国外退去にする他ない。
この若い女性がやんごとない高貴な身分の人間なら、融通のきく外国の外交官のひとりやふたり知っていそうなものである。
マリアカリアはそういう判断をして公女クリスティーネに近づき親切な振る舞いをしているのである。
彼女はコンプレックスを刺激されるので本当は胸の大きい女性にはあまり近づきたくない。
彼女がうすら笑いをしながらも公女クリスティーネを剣呑な目で時折見るのはそういう理由からであった……。




