逃走1
逃亡1
連邦の東には帝国の領土が広がっている。
かつては大陸に覇を唱えた帝国も今日では内部に様々な矛盾を抱えて昔日の勢いはない。来るべき破局に恐れおののきながらも今は表面上の平穏を貪っているだけの状況である。
そんな帝国の田舎、プスタ平原では、トウモロコシの収穫が行われていた。
すべて村単位の共同作業である。領主や地主たちが屋敷の庭を開放して、庭には収穫されたトウモロコシが山と積まれる。その山の周りで村人たちが男も女もトウモロコシの皮を剥き、剥かれたトウモロコシを乾燥のため屋根へ運んで並べ、一応乾燥の終わったトウモロコシを今度は倉庫の簀子状の台に選別して納める。
単純な作業であるが、作業中は無礼講となり、男も女も子供たちまでもが陽気に騒ぐ。景気をつけるため地主たちが楽士を雇って音楽を奏で、若い女たちが歌い、年老いた女たちが作業中の人々へ素焼きの壷に入った冷たいワインを運ぶ。
浮かれ具合がいよいよ頂点に達すると、誰かが踊りだし、やがて踊りの輪がいくつもできる。
このため、農作業だというのに人々は子供も含めて民族衣装で着飾り、特に若い女たちは頭に花冠を戴き編んだ長い髪の後ろから色とりどりの細長いリボンの束を垂らす。
地主たちはバルコンから村人たちが陽気に騒ぐ様に目を細め、秋の夜長の楽しみとする。
緑の胴着に重ね着した襞の多いスカート、白いブラウス姿のストローブロンドの女の子が踊り疲れたのか、ハアハア息を弾ませながら上気した顔でニコリとする。
地主の娘ぺーラ・アンナは大好きな幼馴染のルドルフといっぱい踊ったのだ。
「アンナ。話があるんだが」
深刻な顔をするルドルフに構いもせず、アンナはいたずらをたくらむ微笑みをみせる。
「ルドルフ。見て見て」
アンナはニーと笑って歯を見せる。前歯に海苔のようなものを貼って黒くしており、一瞬、歯抜けのように見える。一応断っておくが、アンナは緑の目をした相当な美少女であり、歯抜け顔はアンバランスさから非常に滑稽である。
「……」
「ねえ。ねえ。驚いたでしょう?アハハ」
アンナはその黄色い髪をいじりながらまだ笑っている。
「あのね。アンナ。僕は真剣に話がしたかったんだよ。いいよ。もう。
僕はもうすぐ西の連邦へ行く。たぶん、もう帰っては来られない。僕はお祖母さまに婚約を強制されたんだ。拒否はできない。
半年前に僕と婚約しとけば、こんなことにならずに済んだのに。
君が僕の婚約の申し込みを今みたいにふざけて有耶無耶したせいだからね。僕は悪くない!」
アンナの表情が固まる。
「じょ、冗談よね?今の」
おそるおそる問いかけるアンナに向かってルドルフは素っ気なく答える。
「冗談でこんなことを口にできるか。事実だよ」
ルドルフは顔を背け、アンナの目には涙が溜まりはじめた……。
* * * *
新婚6ヶ月目。
アルフレードとマルガレーテとの関係ははじめはギクシャクしたものの、ようやく落ち着いたものとなった。ひとえにアルフレードがあまり細かいことにこだわらず、大きな目で何事も見る性格をしていたおかげである。
アルフレードは小太りで眼鏡をかけており、そのうえ若いくせにその短かく刈った頭の前の部分が後退をしはじめていた。
絵に描いたような凡庸な男。
それが結婚当初のマルガレーテの印象であった。
アルフレードは冬は南の島で優雅に過ごし、夏は高地地方の別荘で暑さを避けた。夜は大抵、有名人の主催するパーティに人の良い笑顔を張り付かせて当たり障りのないように泳ぎ回る。目立つようなことはなにもしない。そして、ラインハウゼンの本宅にはあまり落ち着いて居るようなこともなかった。
結婚に愛し合う関係を期待していなかった彼女にとってはそれでよかった。むしろその方が好ましかった。中途半端にできる男であった場合、彼女のすることにプライドを傷つけられて要らぬ掣肘をかけかねないからである。
だが、アルフレードは彼女の想像していたような人間ではなかった。中途半端にできる男などではなく、かなりできる男であり、抜け目がない。
適材適所ということをよく心得ており、経営をすべて有能な生え抜きの社員グスタフ・アイゲナウに任せて、探り当ててきた情報を元に的確なアドバイスと重大な決断だけをした。
彼の一番の功績は会社に独自の社会保障制度を定め、労働者のために小奇麗な家を無償で建ててやり、働けなくなった老後もそのまま住んでよいと安心して働ける環境作りをしたことである。
そのため、志願者が殺到し、ラインハウゼン社は過酷な労働を耐え抜く4万5000名もの有能で忠誠心溢れる労働者を確保した。
何もしていないふりをしつつ三代前からの重工業界の重鎮という地位を立派に保っているこの男に対して、マルガレーテは当初の認識を改め、それなりの評価をしてお互いが損をしない協定を結んだ。
そのアルフレードとマルガレーテが珍しくもラインハウゼン家の本宅の居間で夜を寛いでいる。
「マルガレーテ。今度のマイゼル家のパーティには君も出てくれないか」
アルフレードがブランデーのグラスを手で遊びながら優しい声を出す。
「なぜですの。そのパーティは確かマイゼル家の最年長の婦人の誕生日を祝うものではなかったかしら。エバなんとかという老公爵夫人の」
「そうだよ」
アルフレードがニヤリとする。
「嫌ですわ。ああいうパーティは息が詰まりますもの。
出席してる方々はほとんどが軍人さんとその妻女。意味のない昔の手柄話を繰り返す退屈な老将軍だとか、誰それの家の格が低いだとか高いだとか陰口を扇子で口を覆いながらたたく老嬢様方。
パーティに出て貴重な時間を費やす意味がまったくわかりませんわ」
付き合いきれないとばかりにマルガレーテが美しい顔を歪める。
マルガレーテもアルフレードが意味もないのにそんなパーティへの出席を強制しないことくらいは知っている。だが、いまひとつ彼の意図がわからない。
「面白いことがあるんだ。その公爵夫人の縁でブレスラウ公国の公女殿下と帝国の大公の孫が婚約することになってね。その婚約発表があるのさ」
「まだ意味が掴めませんわ。高貴な方々のおめでたいお話がなぜラインハウゼン社に関わりがございますの?」
ラインハウゼン家は連邦の産業界を牛耳っており、皇帝陛下の特別な勅許(独占のための)をもらうほどの資本家であるが、家格としては相当低い。三代前が平民出身で、先代の頃、時の「鉄血政策」に多大に貢献したとしてようやく準男爵の地位と勲章をもらったにすぎない。マルガレーテとの結婚も男爵の娘ということで家柄に箔をつける意味合いが濃いものであった。
だから、ラインハウゼン家の人間が無理をして高貴な方々のパーティに出ても冷笑されるのがオチで、少なくとも金銭的な利益に結びつくものは何もないはずである。
マルガレーテはアルフレードの言う意味を測りかねた。
また、ブレスラウ公国といっても、連邦制を採った今、その地位は相当程度低下しており、連邦の政治に何らの発言権もないのだ。ラインハウゼン家が公女に阿る意味はない。
「公女殿下に新婚生活の秘訣でも伝授して差し上げたら喜びのあまり勲章でもくれるかもしれない。アハハ。冗談だけどね。
眼目は相手の帝国の大公の孫の方にある。そのお父さん、つまり大公の息子は帝国の勅任官で商工大臣なのさ。しかも、その親類には軍需大臣までいる。
大公の孫はスレてなくてねえ。あちらが本場のワルツもろくに踊れない田舎の純朴青年なのさ。本人は未だにさほどの地位にもないし、高位の貴族を毛嫌いしているから、付き合うには我々くらいがちょうどいい」
今生の皇帝陛下の御代になってから連邦と帝国は軍事同盟を結び仮想敵国に対抗している関係にある。連邦の重工業製品や武器の売り込み、資本や工場の進出をしても何の問題もない。
アルフレードはラインハウゼン社の帝国への売り込みを企図していた。
「僕は君のことを買っているんだ。君は本当に優秀だよ。
わずか半年余りですべての工場の作業効率を飛躍的に向上させちゃうしさ。
資本提携で傘下に収めた企業についても吸収するのでなく、すべて聞き分けのよい下請けにしてしまった。おかげで不必要な部品の在庫をなくすわ、本社の力をすべて製造のコアの部分だけに傾注できるようになるわ。都合が悪くなれば、資本を引き上げるだけで後腐れなく切り捨てられるしね。
君のおかげで、本当に恐ろしくなるくらいにコストが削減出来たうえ、製品の質が向上したよ。
特に生産ラインの過程を細かく分割して班ごとに責任を分担させたのは素晴らしかった。みんな必死になって効率化とコスト削減を考えて成果を出していったからねえ。人間、期待されて責任を持たされると頑張っちゃうからね。君の人のプライドを突いたあのアイデアは本当に素晴らしかった。
グスタフも今では君のことを賞賛している」
適材適所を心がけるアルフレードはマルガレーテの才能と意思を見抜いて、彼女の経営参与を許した。古参のグスタフが渋ったものの、蓋を開けてみれば大成果であって、今ではマルガレーテの参与を快く思わない者はいない。
「あら。わたくしは経営について些か助言は出来ても、社交はできませんわ。田舎の純朴青年のお世話は別の方に頼られた方が賢明ですわよ」
「よく言う。結婚前は社交界の華で、若い貴族たちに一喜一憂の思いをさせていたのに」
「そこまでおっしゃるのなら、わたくしも微力を尽くしましてよ。売り込みのために。
でも、田舎の純朴青年が舞い上がってお熱を出しても、わたくしは知りませんわよ」
「そこのところは君に任せるよ。
予備知識を与えておくと、公女殿下はすでに意中の人がいたらしく婚約については嫌々だ。そして、純朴青年の方もあまり乗り気ではないらしい。
破談になろうがどうしようが我々としてはどうでもいい。売り込みに役立てられさえすればいいから。
まあ、適当にやってくれ。マダム」
アルフレードは相変わらず笑い、マルガレーテは眉をひそめて真剣に考え始めた……。
* * * *
こちらの世界へ来て6ヶ月が経った。
マリアカリアの日常は最初の頃とそう大きくは変わっていない。
保護している女たちにちょっかいを出す者や厄介なお客に対してはちょっとした制裁を加えておとなしくさせる。商売敵でマリアカリアのことをよく思っていない大手の娼館や女衒たち、その差し向けた殺し屋といった類には徹底的に制裁を加えて黙らせた。
ただ殺しはしていない。記憶のないマリアカリアもそこまですると官憲が黙っていないことを認識していたから。
相手に徹底的に制裁を加えなければならない場合、マリアカリアはまずその相手の普段の行動を観察する。そして、相手のいつも使う通り道を確認すると、そこへ行って街角に身を潜める。相手が通りかかる。すると、マリアカリアは上着の下から棍棒を取り出して飛び出し、相手の向こう脛を正確に強打する。足の折れた相手は思わず手を足へやったままその場へ倒れる。あとはマリアカリアが適当に蹴りを入れる。間違っても相手の頭や腹部などの中枢を蹴ったりはしない。死ぬと面倒だし、苦しめることが目的ではない。反抗する気を起こさせないくらい恐怖を与えて心を折ることが目的なのだ。だから、彼女は上腕かもう片方の足を狙う。
相手に3箇所以上の骨折を負わせた彼女は素早く棍棒を上着へ隠し、何食わぬ顔をしてその場を去る。この間がだいたい5秒くらい。もちろん周辺に官憲や通報する善良な市民のいないことを確認済みである。
まだ終わらない。それからが彼女の恐ろしいところである。
病院に運び込まれ、手足をギプスで固定され身動きの取れなくなった相手のもとへ花束を持って見舞いに行く。恐怖で顔を引きつらせた相手の顔をにやりと笑って覗き込んだ後、花瓶に花束を入れ替えて立ち去る。この間、一言も発しない。
「お前は常に見張られている。ふざけたことをしてみろ。素振りを見せただけであの世へ行くことになるぞ」
このマリアカリアの無言の警告を相手は心にしっかりと刻みつけ、大抵は2度と逆らうことはない(ただ、何事にも例外というものはある。殺し屋を雇い、マリアカリアへ再襲撃をかけた相手もいた。一度だけだが。その場合、相手は深夜に四肢を折られた体をベットから引きずり出されて、そのまま市内に架かる大きな橋の欄干にぶら下げられて晒されることになった。このことは、相手が裏社会の相当な顔役であったため、他のマリアカリアの敵対勢力に対して非常にいい警告になったが、マリアカリアの悪名を不動に決定づけることにもなった。このため、彼女は女であることのカミングアウトの機会を決定的に失ってしまう。彼女はこの世界に来てからも異性に好かれることはなかった)。
このように表立って敵対する者はいなくなり、比較的平穏な日々を過ごしているマリアカリアだが、依然としてなにも思い出さない。もっとも、彼女は焦るのをやめていた。
初日において彼女は制服の隅から隅まで探ってみたが、彼女の身分を示すペーパーがどこにも見当たらない。襟についている階級章を女たちに見せても、彼女たちはそういう認識を示さず、変わった模様だとの感想を述べる以外反応がなかった。
そこで、マリアカリアは思った。
きっと、わたしは外国の王族か何か特別な存在であり(とても偉い人)、危険な陰謀に巻き込まれ(世界がひっくり返る重大事件)、身の危険を感じたために(複数の国が総力を挙げて追跡中)、わざわざ大都会の日の当たらない場所で男装して身を隠しているに違いないのだと。
もともとマリアカリアは「わたしはわたしである」という強烈な自意識を持っているため記憶喪失くらいではなかなか精神崩壊はしない。かえって自分のことを客観的に知ることのできる要素が頭から飛んでいるため、彼女の妄想では自分が偉い人であることは確定事項となってしまっていた。
しかも、制服から出てきたもの(純金製のシガレットケース、精巧なプラチナのライター、そして大量の金貨)がものがものだけに彼女の推測を補強してしまい、マリアカリアに他の妄想(特に何者かに追われている)まで確信を抱かせてしまった。
そのほか、ポケットからナックルが出てきたのも追跡してきた敵のエージェントと格闘するための武器であり、他の武器がないのはエージェントたちとの闘争で使い切ってしまったからに違いない。違いない……。
記憶がないのも、別人だとのリアリティを出すためにわざと自分で暗示をかけたか、それとも、捕まえたエージェントから拷問で聞き出した情報が途轍もなく精神に負荷をかけるもの(たとえば陰謀の黒幕が自分の最も信頼していた家族であったとか)で耐え切れなくなったに違いない。頭に外傷がない以上、そうに決まっている……。
このようなE級スパイ映画以下の妄想を抱いてしまったマリアカリアは極力、政治的に無知でかつ信頼の置ける人間以外には自分が女性であることを隠して、男装を続けることにしたのだ。
それゆえ、マリアカリアが紙巻と食べ物以外に最初に買ったものも、悲しいことに男物の古着であった。
妄想のせいで身を隠すことに強迫観念を抱いている彼女にとって制服の処分は最優先事項であったのだ。
現代人にとっては価値のないものであるが、大昔では古着といっても馬鹿にできるものではない。貴重品であって小型自動車並みの財産価値を持った時代もあり、それ自体が身分証明書代わりになった時代もあるのだ。
そういったものを扱う古着屋には質屋並みに世間の表も裏も知り尽くした海千山千が多い。
マリアカリアもそういった人間に身を変えた情報が漏れる危険を承知していたが、犯罪者の多いこの通りでは古着屋の主人の口は固い(特に官憲に対しては)と踏んだ。
地下酒場の婆さまのところでマネーロンダリングした金で彼女は目立たないツイード地のハンチング帽、同じくツイードの上着ほか何点かの上着、室内用のガウン、そして、一番大事な、身にぴったりとあった夜会服一式(もちろん男性用。燕尾服である。その略式である、いわゆるタキシードもあるが、あまり認知されていない。ごく親しい友人同士が喫煙室などで集まるときに用いられるくらいである。この世界のこの時代の、燕尾服は一般の夜の集まりはもちろん、宮中晩餐会に出席できるくらい格調高く、汎用性もあった。統一した型があり、逸脱は許されない)を買う。
夜会服は彼女が逃走活動資金を得るため夜の賭博場めぐりをする必須の道具であった。
マリアカリアのいる都市は連邦の首都であり、大都会であって、かつ大勢の外国人が訪れる場所であった。高級ホテルが建ち並び、そういったホテルには必ず紳士淑女の集う賭博場があった。
こういう賭博場ではきちんとした服装をした者以外入ることができないので安心して遊べる。外国人も多く、マリアカリアが遊んでも目立つことはない。
しかも、マリアカリアは用心深くて、大勝ちした賭博場へは2度と行かなかった。
この世界にもルーレットやカードがあり、微妙にルールが違ったり記憶の喪失とともに経験もすっかりなくしてしまっていたハンデがあったものの、持ち前のしたたかさでマリアカリアの賭博不敗の記録はここでも伸びた。
ある雨の降りしきる夜、マリアカリアは賭博場巡りの帰りに震えている一見して田舎出の少女を心ならずも拾うことになった。
夜会服の扱いについて修正しました。




