私の時代が来た!12
私の時代が来た!12
マリアカリアがこの世界に飛ばされたのは静寂尼に文句を言ったためだ。少なくとも飛ばされる直前、マリアカリア自身はそう思っていた。
マリアカリアたちはセルマの試練『死の橋』を抜けてから非常な苦労をした。
謎の声(実は封印されていたセルマの声)に導かれ、溶岩の流れる地底の洞窟を灼熱と戦いながら駆け抜けた7日間、次に息さえ凍る雪で覆われた白銀の高山を極寒に耐えながら踏みしめた7日間、さらに妖艶な美女ばかりいる悦楽の世界で退屈と虚しさを我慢しながら過ごした7日間(マリアカリアたちは全員女性であるうえ、その手の趣味がなかったため)などと並の人間ならとうに死んでるはずの試練を乗り越え、ようやく聖杯のある古城へとたどり着くことができた。
しかし、静寂尼たちが先に到達して試練を達成しており、セルマの封印を解いたうえ別の世界への追放までしていた(反主流派エルフの記憶を持つ骸骨の魔導人形がセルマに対して幼女型の魔導人形を着て力を失ったままこの世界に居残るか、それとも別の世界への追放かの二択を強制した。反主流派エルフたちにはこれまで理不尽にもセルマを封印して世界の動力源として利用してきたことについて反省し陳謝するつもりはあったが、セルマの復讐を甘受する気はさらさらなかった)。
競争に負けたことについてマリアカリアはプライドから文句を言うことができなかったが、悔しい気持ちからつい「セルマを勝手に追放してしまっては自分たちの目的(敵であるセルマ並びにその背後にいるリリスに対する膺懲)が達成できないではないか」と静寂尼を責めた。
すると、マリアカリアの文句を聞いた静寂尼は表情を一切変えることなく、「そうですか」とだけ呟いてマリアカリアだけを追放したセルマのいる世界へと飛ばしたのだ。
静寂尼が何を考えてマリアカリアを飛ばしたかということまでは分からない。
静寂尼は動揺したアリステッドとエスターを放置してそのまま姿を消す。
* * * *
マリアカリアがふと気づくと、制帽とホルスターごと2丁の拳銃、それと一切の記憶を失ってドブ川に架かる橋のうえに立っていた。
大抵の人は自己のアイデンティティの喪失につながりかねないため記憶の喪失に極度の不安と混乱を感じるものである。
マリアカリアも記憶を失っていることに気づいた当初は大きく戸惑いと不安を覚え、普段の思考も周囲に対する警戒もすべてストップしてしまった。
そんなマリアカリアがぼんやりしていると、荒々しい声がかかる。
「このあたりじゃ、見かけねえ顔だな。ええ。
新顔がこの界隈をまともに歩いて行きたきゃ、それなりの人間に挨拶というものが必要だぜ。
(マリアカリアが川面を見たまま一向に反応しないのに業を煮やしてさらに大声で)無視すんなよ。こっちは親切で言ってやってんだぞ。ええ。
吹かしてんじゃねえぞ。この野郎!」
「コノヤロウ?」
このチンピラの言葉でマリアカリアは全身に電流が走る思いをした。
すべての記憶を失っても自身が女性であるというアイデンティティだけは失われない。それをこのチンピラ野郎は否定した。
どうして許せよう!
わたしは女だ!
精霊であることも軍人としての矜持も伯爵令嬢としての育ちの良さもすべて忘れ去ったマリアカリアは本能のまま動く、実に怖い存在である。その彼女が怒っている。
こちらを振り返ったマリアカリアの目を見てエルンストというゴロツキは度肝を抜かれた。
やべえ。さっきまでとは雰囲気が違うじゃねえか。コイツ、人殺しの目をしていやがる。
仲間の目もあったが、エルンストは全身が震えるのを止められない。無抵抗のまま、平手打ちをくらい、襟を掴まれて逆に脅されてしまった。
すごすごと逃げ出したエルンストはもうこの界隈で大きな顔をすることはできない。
それでもエルンストは命があるだけマシ、助かったぜ、と思ったものだ(初めのうちは復讐を考えないでもなかったが、後日、マリアカリアの悪名が高まるにつれ、やらなくてよかったぜと強く思ったそうである)。それくらいこの時のマリアカリアは恐ろしい雰囲気を醸し出していたのである。
チンピラを追い払ったマリアカリアはふと30がらみの女性と目が合った。
女性はチンピラと同じようにいつまでたってもブルブルと震えていて、その様子がマリアカリアの内心を大きく傷つけた。
なんでそんなに恐る必要があるというのか。わたしはこんなにも優しい人間なのに!
やがてマリアカリアも諦め、女性に食事のできるところを訊いた。気分を変えるため、ついでに酒まで飲みたくなった。
ところが、女性に連れられた場所がとんでもなくひどい場所だった。
壁には弾痕が残り、柱はみんなナイフの切り傷でいっぱいである。カウンターはスッポリと鉄格子で覆われ、料理や酒を給仕に受け渡すところだけが開けてあるという有様であった。
客は酒に酔って騒いでいる荒くれ男、密談している明らかに犯罪者である危険な感じの男たち、甲高い声で笑いながら男にしだれかかっている一見してその手の商売と判る女性。それと、髪を掴み合って取っ組み合いをしている女性たち(男の取り合いらしい)。
紫煙と喧騒が地下の酒場の中で渦巻いていた。
「どういう了見でここへ連れてきたんだ?ご婦人」
「ひぃ。あなた様を連れて行けるところはここしか思いつかなかったんだよ。その、なんというか。きつい、いや、男らしい雰囲気をしているから!」
「男、ら・し・い?」
若干弱まっていたマリアカリアの刺々しい雰囲気が一気に戻る。
女性が再びブルブルと震えだした。女性はマリアカリアのことを未だに男だと信じているからなんで不機嫌になったのかが分からない。
そこへ前掛けをした、凄まじく筋肉質の男がテーブルへやって来て、黙って立った。
ここの給仕らしい。ボクサー崩れらしく男の耳はカリフラワーのように潰れている。
「注文か。
(マリアカリアはまず女性に向かって)ビールでも飲む?それともなにか摘む?
(女性はプルプルと顔を横に振る。仕方なしにマリアカリアは肩をすくめて)そうだな。ソーセージとじゃがいもの揚げたやつをもらおうか。それとパン。黒パンでいい。
あとはウイスキー」
「お、おう」
マリアカリアの雰囲気に押されてファイティングポーズを思わずとっていた給仕が腕を下ろして返事をする。
「それから、この店ではこの金貨(メイプルリーフ1オンス金貨。額面50カナダ・ドル)は通用するのか?」
へんな給仕に辟易しながらもマリアカリアが取り出した金貨を給仕に放る。
給仕は金貨を噛んで本物と確かめると頷いた。50マルクとして通用するらしい。
「だったら、紙巻も欲しい。代金はその金貨から引いてくれ」
酒場の中の紫煙を嗅いで無性にシガレットを吸いたくなったマリアカリアは付け足した。
その後、食事を済ませる頃にはウイスキーを飲んだせいもあってマリアカリアの機嫌もだいぶ良くなっていた。
そんなマリアカリアを中二階からテーブル席の女たちがじっと見ていた。
前の方を左に流したプラチナブロンドの短髪。凛々しい眉。鋭い青い目。
黙っていればマリアカリアはニヒルな感じの美青年である。本当は女性であるが。
しかも、あまり評判の良くないヨハンナ(現在、嫌々マリアカリアの連れになっている女性)に対しても実に紳士的に振舞っている。
女たちのマリアカリアに対する好感度はうなぎのぼりであった。
機嫌の良くなっているマリアカリアも自分に微笑みかける女たちにグラスを掲げてニコリとする。
結果は、ヒモ連中の嫉妬を生んだ。
ナイフなどを持った5,6人がマリアカリアを襲ったが、当たり前のことだがすべて返り討ちとなった。
もっとも、この酒場ではその程度のことはなんの騒ぎにもならない(カウンターの奥からはオーナーの婆さまの「修理費は7マルク50ペニヒだよ。ツケは利かないよ」というキンキン声が飛んだけれど)。
そして、この日だけでも10人の商売女がヒモの鞍替えをしてマリアカリアを頼った。記憶とともにその手の知識まで失っているマリアカリアは意味も知らずに女たちに頷いたため、マリアカリアは女たちを以後保護し続ける破目になる。
ちなみに、その後のマリアカリアのヒモとしての評判は素晴らしいものであった。
女たちから不当なピンハネはしない。それどころか女たちの差し出す金銭を受け取らなかった。どうしても受け取って欲しいと言われた金さえも女たちの老後の資金か職業訓練の積立として銀行に預けてしまう。そのくせ、女たちの面倒は十分に見た(モテないはずなかった。悲しいことに男としてではあるが)。
だから、マリアカリアの保護を求めて続々とフリーの女たちが押しかけてきたのは仕方がないことだった。
その後すぐさまマリアカリアは裏社会ではだれもが一目を置く顔役(多数の女たちを束ねる大物のヒモ)とみなされることになる。
とにかく、こうしてマリアカリアは別の世界へ渡ったその日のうちにヒモとしての裏社会デビューを飾ることになった。
* * * *
マリアカリアが裏社会デビューを果たした同じ日、マリアカリアやセルマのいる大都会では、鉄鋼業界の大立者フリードリッヒ・アルフレート・フォン・ラインハウゼンと州知事を務めたことがあるアウグスト・フォン・ナッサウの娘マルガレーテの盛大な結婚式が執り行われた。
マルガレーテは評判の美人であるうえ極めて有能な才女であった(誰かさんと比較しては可哀想である)。
このマルガレーテという女性。
後日、結婚式の当夜、ベットの上で、違う世界の歴史上の人物であるポンパドール夫人と同様に「私の時代が来た!」と叫んだと噂されることになる人物である。
マルガレーテには実際、ポンパドール夫人との共通点が多い。
特に幼い時、「将来、国一番の男の心を虜にする」と占い師に告げられ、そのまま信じ込んでいたこととか、周囲の者が教育熱心であり、当時の令嬢に対する教育の水準をはるかに上回る英才教育を施されて知性と教養が磨きぬかれたこととかといった、彼女には男を虜にして上昇志向を満足するための道具立てがすっかり整っていた。
当然、ポンパドール夫人と同じく美人でもある。
ちなみに、ポンパドール夫人(1721年―1764年)とはフランス国王ルイ15世の公妾となった人物であり、当時のフランスに様々な業績(外交革命、百科全書の刊行、セブール磁器の振興、フランス・ロココ様式の大成など)を残した才女である。
本名ジャンヌ=アントワネット・ポワソン。1721年、パリの富裕な銀行家の娘として生まれる。
家は貴族ではない。しかし、ブルジョワであった。
父親は政治的な理由で長い間、プロイセンに亡命していたため、彼女に実際に未来の寵姫となるための教育を施したのは妖艶な母親とその愛人であった大富豪ル・ノルマン・ド・トゥルネームである。
その教育は実に多岐にわたる。音楽、絵画、彫刻、建築、社会思想、宗教論、数学、文学などなど。演劇にダンスは、実際に劇場で活躍中のプロを呼んで直接教わった。長ずるに従い、彼女は当時の有名な夫人たちの開くサロンに通い、多くの文化人たち(ディドロ、ヴォルテールなど)と交流を深めて一層の知性と教養、上品な立ち振る舞いなどを磨くこととなる。
こういうことには当然、お金が非常にかかる(衣装代だけでもバカにならない)。しかし、母親の愛人であるトゥルネームがすべてを賄った。彼は湯水のように金を使い、ジャンヌ=アントワネットを磨き上げ、その後見人にもなり、徴税請負人(当時、極めて旨みのある商売)である甥のシャルル・ギョーム・ル・ノルマン・デティオールと結婚させたうえ、セナールの森にあるエティオールの館、豪華な馬車、従僕5人などを贈った。
このセナールの森には国王ルイ15世の狩猟地があり、国王が頻繁に狩りに訪れる場所であった。
もとよりトゥルネームの謀であったのであろう、ジャンヌ=アントワネットはピンク又は青の幌馬車を操り狩猟中の国王の目の前を突然現れては消えるというパフォーマンスを繰り返して国王の関心を引くことに成功する。そして、遂に仮装舞踏会で国王の愛を勝ち得ることになる。
当時、平民の娘が国王の愛人になることはタブーであった。ルイ15世の先代ルイ14世も非常な好色家であったが、愛人たちはすべて貴族の娘たちに限られていた。国王の愛人、寵姫といった存在は国王の評判、威信に関わる極めて政治的な色彩を帯びる問題であり、かつ、宮廷貴族たちを国王側にとどめておく餌でもあったからである。
しかし、太陽王として名高いルイ14世の権勢を持ってしても変えることができなかった問題をトゥルネームとジャンヌ=アントワネットは変えることに成功する。
国王と出会ってから1年後、ジャンヌ=アントワネットは国王のポケットマネーで購入されたポンパドール侯爵の株を下賜され、正式に公妾の地位に就く。1745年9月14日のことであった。
そして、その夜、ポンパドール夫人はあの有名な「私の時代が来た!」と叫んだとされる。
ここまで長々と説明をしているのは、この有名なセリフの意味を考察するためである。
確かに、トゥルネームとポンパドール夫人の目標(王妃以外でフランスにおける最高の女性になる)が達成したことの喜びを表した言葉のようにもみえる。
だが、それだけの意味しかないのであろうか?
ルイ14世の公妾としてファンタジー小説の悪役令嬢張りに好き放題、権勢を振るい、我が世の春を謳歌した人物としてモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイズという女性がいる。
もしポンパドール夫人が権勢を振るいうる地位に就いたことへの喜びとして「私の時代が来た!」と叫んだとしたなら、このセリフはモンテスパン侯爵夫人の方こそが似つかわしい。
モンテスパン侯爵夫人は人のよい王妃や他の寵姫たちへ自分の優位を見せつけ、自己の虚栄心を満足するためだけに権勢を振るった女性にすぎない。彼女はフランスにこれと言った貢献はしていない。
これに対して、ポンパドール夫人は公妾の地位についてからは(公妾の地位を退いてからも)常にルイ15世の友人として政治的な助言を続け、また有能な人間を高官の地位につけてフランスに大きく貢献した。
このことを思うと、「私の時代が来た!」との叫びは、絶対王政の時代に貴族でないブルジョワ出身の、しかも女性の身で政治に深く関与していこうとするポンパドール夫人の意気込みを伝えるものとしか考えられない。
と同時に、この叫びは、彼女を寵姫とするために長年にわたり教育してきたトゥルネームからの独立宣言でもあるとも考えられる。それまでの人生は主体性がなく、ただ母親やその愛人の言いなりに美しい操り人形を演じてきたけれども、彼らが目標としてきた地位に就いた以上、人形の時代は終わり、彼らの手を離れて今からは自分の足で歩むとの彼女の決別宣告でもあると思われてならない。
実際、トゥルネームは彼女が公妾についてから表立った動きは何一つしていない。やったことといえば、フランス一有名な「寝取られ」夫となった甥への金銭的なケアーくらいなものであろう(トゥルネーム自身、彼女を公妾の地位に就かせるだけで満足していた節がある)。
この物語のマルガレーテがもし本当に「私の時代が来た!」と叫んでいたとしたら、その意味はポンパドール夫人の叫びと同じものであったはずである。
結婚以降、マルガレーテは夫を操縦してこの強力な連邦国家の鉄鋼業界ばかりか産業界に権勢を振るい続けるようになる。
彼女は愛を得るために結婚したのではなく、自分の人生を自身の足で歩くために結婚したのである。
彼女は強かであり、充実した人生を送るために障害となるものをすべて排除していくだけの実行力と意思があった。
別の世界のエンセンカという女王と同じように……。




