私の時代が来た!4
私の時代が来た!4
解放軍本隊が進駐している村、サンド村の一軒の百姓家にゲンセンカの叔父のドニが顔に傷を持つリタ、そして人形を片時も離さない少女マタと一緒に暮らしている。
謎の旅人に術をかけられてから彼らはずっと一緒である。家族ではないとわかっていてもなぜだか離れたがらない(もと森番の青年ジベだけは早々に実の母親に引きづられて帰っていったが)。
山国ディナリスでは、冬には雪が積もり高い山々からとてつもなく冷たい風が吹き降ろす。だから、百姓家は皆だいたい同じような構造をしている。
玄関の扉は防寒のため二重扉。表の庭に面した敷居のある扉を開けると、小さな空間があり、そこの扉をさらに開けて中に入り短い廊下を右に曲がると、暖炉のある居間に出る(もちろん、カーテンで仕切られている暖炉の上は体力のない老人や小さな子供たちのベットである)。
居間では、赤子のいる家庭なら天井からぶら下げられた木で作られたゆりかごが一番に目に付くことになるだろう。
百姓は皆迷信深いから、居間の入り口から見て左手の方には必ず壁に聖人の絵が架けられていてその下には獣脂臭いロウソクが立てられているはずである。
真正面には2枚の窓がある。当然、ガラス窓ではない。ハートや菱形模様に切られたいくつもの穴に羊皮紙のように薄く伸ばされた動物の皮が貼られているにすぎない(この世界にもガラスはあるが、すべてカリガラスであり、高価すぎて窓にガラスを使用できるのは金持ちに限られている)。そのため、昼間でも室内は薄暗く陰気である。
居間には、テーブルがあり、これが食卓となる。食事時になると、一番偉い家長が暖炉に一番近い席につく。
そして、右手の壁には、陰気さを少しでも軽減するためたいてい刺繍した布(若い嫁さんのいる所帯)か熊や羊の毛皮が張られている。
居間を横切ってさらに右へ進むと、こざっぱりとした寝室が出迎えてくれる。ここは一家の若夫婦か家長の妻が使用する。母親に添い寝をしてもらえるのは本当に小さい幼子の特権であり、年上の子供たちには居間の片隅や廊下に置かれている長櫃や長持ちの上(薄いマットレスが敷かれている)がそのベットとなる。
その、薄暗い百姓家の居間で暖炉の火を頼りにドニはセルマ修道会発行の聖人伝を読んでいる。
あの恐ろしい夜を経験してからドニは心の平穏を宗教に求めるようになっていた。
『自分の欲せざることを人に施すことなかれ』『嘆くことなかれ。ひとは暗闇の中でも他人の手を握ることができる』
いい言葉である、とドニも思う。
他人を陥れ、他人を裏切り、他人を痛めつけ続けた自らの半生を省みることも最近ではある。
だが、あの夜、窓の隙間から覗き見た情景が何かの拍子にふと思い出されると、彼は動揺し、強い疑念が心の底から湧き上がってしまう。
彼は見たのである。
四つん這いになっていた老婆がふと顔を上げて、血で汚れた口を大きく開け、抜け落ちてまばらになった歯をむきだしながら愉悦に浸りきった表情で笑ったのを。
あの口を汚していた血はいったい誰の血だったのだろうか?
気に食わない自分の伴侶の血?憎い息子の嫁の血なのか?それとも普段親しげに喋るご近所の誰かの血だったのだろうか?
いずれにしても愉悦の表情を見せたということは、あの老婆は潜在させていた憎悪の感情を相手の喉に食らいつくという暴力で吐き出したということだ。
おお。怖い。
どんなに普段親しげに振舞っていても、また、本人が意識しておらずどんなに否定していても、人間は憎しみの感情を心のどこかで必ず溜め込んでいるのだ!
ドニはその生まれた特殊な環境のせいで他人を信用してはならないときつく教え込まされていた。だから、彼は妻と娘のふたりという例外を除いて他人を信用したことがなかったし、愛したこともない。
彼の妻は裕福な貴族の箱入り娘で、人を疑うことのない非常に優しい女性であった。彼の評判がどんなに悪くとも、また、実際、彼がどんなに薄汚いことをしたとしても、彼の妻は常に彼の味方をし、彼を庇い、彼を信じた。これには、深い猜疑心を持ち他人に対して頑なな態度をとり続ける彼もその冷たい心を溶かさざるを得なかった。政略結婚であったものの、一旦、心を許した彼は妻のことを深く愛した。愛さざるを得なかった。そして、愛しい妻との間にできた娘を彼はさらに愛した。常に彼に従順で優しい妻との間にできた子供をなんで愛さずにおられようか!
それからの彼にとって大事なものとは、妻と娘をおいて他にはなかった。
妻と娘が幸せになりさえすれば、この世のことなぞどうでもよかった。
確かに、彼は金に執着し権力を追求した。ありとあらゆる汚い手を使い、他人を蹴落とした。だが、それは彼にとって世間から妻と娘の幸せを守るため是非ともしなければならない行為に他ならなかった。
彼が臆病なのは、彼がいなくなったら妻と娘の幸せを守る人間がいなくなってしまう恐怖からである。彼が金を溜め込んだのは、金の力が妻と娘の幸せを守る防波堤になることを知っていたからである。彼が侯爵になろうとしたのは、その方が妻と娘の幸せがより大きく長く続くと思ったからである。
ゲンセンカの解放軍が居城に迫っても、彼はまだ諦めていなかった。
膨大な資金を巧妙に隠して目につくものだけゲンセンカに差し出した。隠した資金とともにいち早く妻と娘を安全な王都のギド伯爵夫人のもとへと送り出した。その代わり、役に立たずに金だけ消費した私兵集団を解散し、路頭に迷う彼らを平然と見捨てた。さらに、見せかけだけの恭順の意を示して解放軍の内部に潜り込み、処刑されかかった少年を擁護するふりをして同情的だった人々の団結心を揺さぶろうともした。
しかし。
あの恐ろしい夜の情景を見てから彼は今まで信じていた様々なことに深い疑念を抱くようになってしまった。
今までの、良かれと思ってなしてきた自分の行為は本当に妻と娘の幸せに役立っていたのであろうか?何をやっても妻と娘の心には届いておらず、ただの自己満足ではなかったのだろうか?そして、もしかしたら妻と娘はそんな押し付けがましい自分のことが疎ましくて心のどこかで憎んでいやしなかっただろうか?あの老婆がそうであったように……。
もし、そうなら。もし、そうならば、自分は今まで何をやってきたのだろうか。不幸を撒き散らしただけ……か?
ふと、彼は傍らで編み物をしているリタの顔を見た。
普段は物静かな女である。わざと冷たい人間のように振舞っているが、それは表面だけのことであって、妻と同じく優しい人間であることが透けて見える。あの人形を抱えた少女ばかりでなく、俺にさえ、時より優しげに微笑んでくれる……。
いや。分からない。老婆の例もある。おぞましい憎しみの情を隠し持っていないと誰がいえようか。彼女だって顔を傷つけた鉱山の野蛮人たちをきっと憎んでいたはずだ……。
結局、判っていることは、誰も完全に他人を愛しきることも憎みきることもできないということだ。そして、そういう不完全な感情を相手に抱きつつも誰かからの愛情が欲しくて欲しくて飢えている……。
『自分の欲せざりしことをひとにすることなかれ』、か。
この消極的な表現(『自分の欲するところをひとにせよ』ではない)は、どうあがいても不完全な感情しか抱けない出来の悪い人間に対する、神の寛大な許しを意味するのではないだろうか。
人間よ。愛しきれない相手に対して自分のしてほしいことをするのは辛かろう。だから、おまえは自分のして欲しくないことを相手にしないよう我慢すれば十分だよ。
というふうに。
なんてな。ふん。
ここまで彼が考えたとき、急に玄関のドアが叩かれた。
訪れたのはゲンセンカとポランスキーだった。
……。
……。
ゲンセンカが帰り際に躊躇い勝ちに言った言葉がドニの心を打ち砕いてしまった。
彼は片手で顔を覆って怒鳴った。
「帰ってくれ。俺を一人にしといてくれ!」
ゲンセンカは王都に放ったスパイからの報告を彼に伝えたのだ。
処刑されたギド伯爵夫人のもとにいた彼の妻と娘が黒目黒髪の少年に惨殺されイヤリングが強奪されてしまったということを。
* * * *
地下都市の情報端末で溢れかえった一室にスーパーウーマンこと田中美香が飛び込んできて小野少年の胸ぐらをつかむ。
「あんた。なにやってんの!虫たちが津波のように現れて人々を襲ってるやないの!
どんどん街や村が消えていく!大人も子供も皆死んでいっている!
あんた、悪魔か!狂ってるわ!」
「……美香さん。もう少しだけ。もう少しだけ僕の自由にさせておいてください。
全ては元に戻ります。誰も死ななかったことになるんです。
あなただって5年前の大阪でOLをしていた頃に戻れます。あなたの旦那さんだって活躍していた当時の現役の野球選手に戻れるんです。きっと。絶対に」
「……あんたの言うてたマリアカリア大尉の能力のことか?それやったら今すぐ彼女にコンタクトをとらんかい!こんな残虐なショウ見て面白いんかい!(虫たちに襲撃させることを)即刻やめい!」
「僕だって辛い。僕だって自分のせいで人が死んでいくのを見るのも聞くのも嫌だ!
でも、ようやく僕は自分の呪いを解くチャンスを掴んだんです。このチャンスを逃したくはない!全ては元に戻るんです。だから、もう少しだけ僕に時間をください!」
小野少年はエンセンカ、ゲンセンカの姉妹が自分と同じ呪われた転生者であることを掴み、彼女たちを抹殺するためにピクシーにヒト族全滅の献策を行っていた……。




