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私の時代が来た!1

 私の時代が来た!1


 風評被害というものがある。最近では農作物や工業製品の風評被害が話題になることもある。しかし、大昔から風評被害と言えば人物についてのそれが最も顕著である。

 例の『パンがなければお菓子を食べればいい』の言葉もその一つ。政治に無知で浪費家の王妃が傲慢にも機知を飛ばしたつもりで言ったセリフとして有名だが、マリー・アントワネット自身がこのセリフを嘯いたという事実はない。王妃の傲慢さを伝聞の形で面白おかしく悪意を持って捏造したのが始まりで、今日でも多くの人に信じられており、マリー・アントワネットのイメージとしてすっかり定着したセリフである。

 当のマリー・アントワネット自身は母である女帝マリアテレジアに実に厳しく躾られており、傲慢さというものとはあまり縁のない、平凡な女性にすぎない(貧しい人たちの話を聞くと、涙を流して喜捨したと言われている。悪く解釈すれば、金を払って不幸な人たちを自分の認識範囲から追い出しただけとも言えるが、当時としてはキリスト教徒的な慈愛に溢れた大変立派な行為であって、素朴で優しい人柄であったことが偲ばれる)。確かに結婚当初、若さもあってフランス貴族の悪弊に染められて一時期賭博に熱中したりファッション・リーダーを気取って衣装や髪型に凝ったりしたこともあるが、傲慢さとは関係がないばかりか、ルイ16世との間に子供が生まれると彼女はそれらをすっかりやめてしまっている。また、子供が生まれてからは変な自信がついてしまい、政治に無用な口出しをして事態を悪化させるところなど(情報収集に欠けるのに革命勢力に強硬姿勢で臨むよう働きかけたり、ミラボーを毛嫌いし、外国貴族フェルゼンを信頼してヴァレンヌ事件を引き起こしたりとその身を確実にギロチン台へと近づけた)、傲慢というよりもむしろ痛々しいものを感じさせ、逆の意味で、かつての某有名野球監督の夫人を思い起こさせるくらい、うんざりするほどの平凡さを見せつけてくれる(これらは、傲慢さ故に引き起こした過ちではない。平凡さゆえに情報分析もできず、情報の重要性にもおもいいたらなかったことによる過ちに過ぎない。傲慢と言えるにはその前提としてある程度の能力を持っていることが要求されるわけであって、その、ある程度の能力ですら持ち合わせていなかった彼女は傲慢では決してありえない。そもそも彼女には他人を見下す必要などどこにもない。彼女は名門オーストリア・ハプスブルグ家の王女に生まれたフランス王妃であって、それだけでひとから尊敬を受ける身分なのであるから。確かに、彼女がもしルイ15世の有名な愛妾であったポンパドール夫人ほど聡明ならばまず絶対にしない過ちであったろう。しかし、すべてのひとがタレーランほど優れた政治感覚を持っているわけでもフーシェのように人の弱みを的確に嗅ぎ分けられる能力を持っているわけでもないのであって、この名門のお姫様に生まれたというだけの女性を能力がなかったからといって誰が責められようか!)。


 話が風評被害からかなり離れてしまったが、話を元に戻すと、マリー・アントワネットにはさらに有名なもうひとつの風評被害がある。

『王妃の首飾り事件』がそれである。

 事件自体は単純な取り込み詐欺であるが、王妃の敵が民衆が事件の内容に無知なのをいいことにあらぬ噂を流し続け、それに乗っかる形で高等法院までもがルイ16世に反抗するいい機会とばかりに騙されて詐欺の片棒を担がされた枢機卿に肩入れしたため、複雑怪奇な政治疑獄に発展した事件である。

 最終的には、名前を利用された被害者であるはずのマリー・アントワネットがひとり悪者にされた挙句に、国王の威厳まで失墜するというとんでもないことにまでなった(すべてはマリー・アントワネット側の情報操作のまずさに原因がある。もっとも、生粋のお嬢様がこの手のことに手馴れた連中に太刀打ちできるはずもないのであって、言っても詮無きことではあるが)。当然、マリー・アントワネットは悔し涙にくれ、凹んだ。そればかりか、フランス市民革命の下地まで作ってしまう……。


 このように風評被害というものは、情報の重要性に思い至らない素朴な人たちが悪意のある人間につけ込まれて受ける予想外の被害ということができると思う。

 風評被害の対策には二つの方法がある。一つは、風評被害が拡がる前に人々の納得できる綿密な調査報告を開示して沈静化に努めるというもの(いわゆる正確な情報の共有というやつ)。もう一つは、拡がるだけ拡がらせておいてから真実を示す証拠とともに悪意を持ってデマを撒き散らした犯人を名指しするというもの。

 言うまでもなく前者が一般に取られる方法である。後者は騙されたと感じた人々の激昂を介在させるだけ効果が劇的(それまでの無数の匿名の加害者たちが一瞬で被害者と化し、今度はデマを流した犯人に対して強烈な怒りをぶつけ始める)であり、政敵を攻撃したりより大きな真実を隠蔽するために利用される方法である。前者とはとられる目的が全く異なる。


 さて。この物語でも露骨な風評被害に遭いつつある人物がいる。それは誰であろうか?そして、どんな対策がとられようとするのであろうか?


  *      *        *        *


 瀟洒な家具や調度品など全くない、机だけがぽつんと置かれた殺風景な小部屋にポランスキーがノックもせずに入ってくる。


「相変わらず物のない部屋だな。とても女の子の部屋とは思えん。ちっとは……。いや、やめておこう」


 部屋を見回したポランスキーがため息をついて肩を落とす。

 ポランスキーは野球バット、ボール、リボン、端切れ、シネマのチラシなど統一性のないもので一杯になっていたジャンヌの部屋を思い出し、ジャンヌがやはり女の子だったということを再認識する。

「(ジャンヌは)トチ狂ったやつだったがな。こいつ(ゲンセンカ)に比べれば不思議なことにまだまともに見える」

 ポランスキーは口には出さないが、そう内心でこぼした。


「……なに?用事なの?」

「まあ、そんなところだ。最近、王都でこんなビラがさかんにばらまかれているそうだ。行商人が拾ってきたものだが、見てみろ」


 ポランスキーが机の上にビラを広げてみせる。

 ビラには、目つきの悪い(マリアカリアに似た)女が馬に跨りながら襤褸を着た悪人面の民衆を指図して一見して高貴な身分の善良そうな人々を処刑している場面が描かれており、その上部には「警告!血に飢えた狼たちが涎を垂らして狙っている」との文字が黒々と踊っている。


「つまり、君の姉さんは俺たちのことを血に狂ったテロリスト呼ばわりして人々の恐怖を煽っているわけだ。とくに君を悪者扱いしてな」

「ふーん」

「こんなマスコミの発達していない世界では何が真実なのか確認が取りにくい。捏造し放題で、ほとんど言ったもん勝ちのところがある。早めに手を打っとかないとやばいぜ」

「あら。そうなの。ふーん」

 ゲンセンカはビラに落書きをしながら気のない返事をする。


「事態の深刻さが分かっていないようだな。俺のもといた世界では風評被害で身を滅ぼした歴史上の人物がごまんといるぜ」

「姉のやるいつもの手だわ。こうなると誰も私の言うことなど聞いてはくれない」

「諦めるのか?」

「いいえ。姉のやるオフェンスと私のするディフェンスは全く別物ということ。心配する必要はないわ。姉には慣れている。なんと言っても5歳の頃からさんざん苛められてきたのだから」


 ゲンセンカは現状を分析できないほど愚かではない。そのうえ、姉の行動パターンを熟知している。デマを飛ばしてくるということは姉がこちらを直接攻撃してくる前兆であることも当然知っている。


「姉はデマを飛ばして周囲がそれを信じ込むと必ず行動を起こした。事故に見せかけて私を殺そうと刺客を送り込んだり毒物を仕込んだりした。今回はたぶんガチで戦争を仕掛けてくると思う。言い換えれば、むこうは戦争をする準備が整ったということ」

「で、どうするんだ?ゲンセンカは」

「決まっている。いつものように行動で真実を示すのみ。逆に王都を占領して解放軍がならず者の集まりでないことをみんなに証明してみせる」


 かつてゲンセンカは周囲の見ている前で送られてきた刺客の喉をレイピアで刺突したり仕込まれた毒物を姉の侍女に無理やり食べさせたりして姉の悪辣なたくらみを暴露してきた(もっとも、暴露しても周囲の同情をひくことはなかったが。コーツ侯爵家では次期当主の座を巡って暗闘が行われるのはごく普通の出来事であったから)。姉に魅了という特別な能力があるように、ゲンセンカにも危機に陥ると神懸かったように異常に頭の回転が早くなるという能力があり、その能力を発揮していくつもの危機を乗り越えてきていたのだ。彼女はデマを飛ばされたくらいでは動じない。むしろ野生じみた闘争心みたいなものと姉に対する憎しみの情がフツフツと内部から湧き出してきて目が獰猛に輝く人種であった……。


「話は変わるけど、戦費が足りないとか言ってたわね。おじさんの世界で使われているという紙幣というものを刷ってみればどうかしら」

「紙幣に信用がないとまず無理だ。引当となるべき金や銀の準備もないし、確実な税収の担保もない」

「劣化する紙幣というのを発行するのよ」

「なんじゃ、そりゃ?」

「時間が経てば経つほど価値が低下するお金。使わなければ価値が下がるから誰も溜め込もうとしないお金よ。

 今、軍隊の維持や武器購入の支払いで領内では貨幣の量が極端に少なくなっていて誰も彼もが相対的に価値の上がったお金を使おうとしない。で、物が売れない。不景気で商人たちは弱っているわ。

 そんなところへたとえば軍隊の日当を劣化する紙幣で払えばどうなると思う?」

「やつら、我先に日用品や食料など買い漁る。紙幣をもらった商人どもも持っていたくなくて急いでそれを物に変えるだろうな。すると、市中に金が猛烈な勢いで回り始めるか……。ふん。それが狙いか。考えたな」

「それだけじゃないわ。みんな持っていたくないから最終的には税金として当局に押し付けようとする。全ては戻ってくるの。もとはただなのに確かなお金として。そして、(市中にお金があふれて)景気が良くなるから税収も確実に増える」

「増えた資金をさらに新たな公共事業の支払いに当ててそれも劣化する紙幣で支払いをすればもっと景気が上向き税収も増え続けるというわけか。まるで魔法だな」


「そう。これはマジックなのよ。経済を刺激すると同時に働かない資本家という奴らを撲滅するためのね」

 ゲンセンカはポランスキーには聞こえない呟きを漏らす。


 どんな金持ちでも劣化する紙幣を溜め込めば貧乏人に転落する他ない。劣化する紙幣を金や銀、不動産や債権と交換することを禁じられると(誰も交換する気を起こさないはず)、不労所得を得る見込みがなくなり、金持ちとしても労働して対価を得るほか生活する方策がなくなる……。


 危機を感じ取ったゲンセンカは頭を鋭く回転させ始め、姉と姉に与する集団に対する有効な打撃方法を次々と思いついていく。

 山国ディナリスでの騒乱の最終局面が今、始まった。

 勝つのは果たしてどちらであろうか?


  *       *        *         *


 カリカリと執務室で物書きをしていた大司教が時計を見て慌ててペンを投げ出した。


「もうこんな時間か。仕事のしすぎはよくない!よくない!

つい夢中になってやりすぎてしまった。

 オーイ!シシー君。コーヒーを入れてくれ」

「ハーイ!」


 シシー嬢は有能な私設秘書である。すぐさま熱々のコーヒーがいっぱい詰まったポットと大司教専用の金の縁どりのある青いカップを持参して好みのコーヒーを提供する。


「あれ。シシー君。なんか変な目つきで僕を見ていない?」

「なんか猊下が仕事のしすぎとかありえないことをおっしゃっておられるからオツムがとうとうイカレてしまったのかなって思ったのです。本来の仕事もみんな部下に丸投げにしていらっしゃる猊下にそもそも仕事なんてございましたか?です」

「ひどっ。僕だって仕事しているよ。ちゃんと」

「寝言は寝てからお言いアソバセ。です。ここ3ヶ月の間、なにか仕事らしいことをなされたか、ご自分の胸にお手てを当ててよーくお考えくださいな。猊下。です」

「えーと。えーと」

「ナッシングです。オール・ナッシング」


「ハハハ。えーと。シシー君。ミルクを入れないコーヒーは健康に悪いって知ってた?」

 山盛り2杯の砂糖とたっぷりの牛乳をぶち込んだカップを金のスプーンでかき混ぜながら大司教が顔を背ける。

「露骨な話題転換をなさった猊下には悪うございますが、シシーはもとの話題にかえっていただきとうございます。です。

 溜まりに溜まった書類に猊下の代わりに決済印を押すのは決して楽な仕事ではないのです。内容をくまなくチェックしたうえ添付の資料まで読み込んで……。目は疲れるわ肩は凝るわ、です。

 そこのところどうお考えになっておられるのですか?よーく、お聞かせくださいませんか。です」

「いや。だから。有能で美人の秘書君の健康に気を使ってミルクの入っていないコーヒーの害を説明しようと」

「ノー・サンキュです。そんなことより労働時間の短縮と残業手当の交付を申請致します。なんでしたらそれについての書類を今すぐお作りします。です。それに猊下が決済印を押せばグータラ上司のここ最近の仕事第1号ということで一石二鳥ということになります。です」

「……君がどんな目で僕のことを見ているかよーく分かるわ。ちょっとショックかも」

「詳しくご説明申し上げましょうか?です。いつも机の前でだらってしていて、『部下の功績は自分のもの。部下の失敗は部下のもの』が座右の銘で、何もしないくせにストレスが溜まると急に威張りたくなって部下に対して『気合で乗り切れ!米を食え!』とか妙な精神論をかます、とてーも嫌な上司。です。これが大司教猊下だ。です」

「あかん。心が折れる……」


 シシー嬢が密かに流す話のせいで、このところセルマ修道院本山内部での大司教のイメージはとみに悪いものになりつつある。だが、シシー嬢はデマを飛ばしている訳ではないのでこれを風評被害というわけにはいかない。極めて正確な人物評価というべきであろう。


「猊下はさっきまで何をお書きになっていたのですか?仕事もせずに」

「知りたい?」

「はい。一応。秘書たるもの、上司の悪事の企みはすべて把握しておきませんと災いが降りかかったとき避けきれませんので。です」

「災い?」

「世の中では都合が悪くなると、『秘書が勝手に。私は知らなかった』とか世迷言を並べたてるとてーも悪い輩が絶えませんから。です」

「いやいや。秘書ってそういう蜥蜴の尻尾切りの尻尾の部分だろ。事情聴取の後、自殺したりなんかして上へ捜査の追及が伸びていかないようにするための」

「猊下はひどい上司です。社会正義のため猊下の悪事はみんな匿名で内部告発してやるのです」

「ちょ、ちょっと」

「内部告発が嫌なら口止め料寄越しやがれ、です」

「……」

「それも嫌なら私を秘書から愛人に昇格させろ、です」

「……」

「……今のは勢いで口から出た言葉なので撤回するのです。本心からではないのです。です」

「ホッ。よかった。こちらもどうやってお断りしようかと悩んでおりました。お互い取り返しのつかないことにならなくてよかったです。です?」

「よかったのか悪かったのかいまいちよくわからない展開ですが、猊下が勿体ぶるからいけないのです。さっさと何を書いていたのか白状するのです」

「いや。最近何かと物騒なニュースで持ちきりじゃん?北の方で巨大怪獣が出たりして。だから、防衛上最終決戦兵器の配備が必要かなと思って、その配備計画を立ち上げていたところ」

「うちにそんな最終決戦兵器なんかあったのですか?です」

「じゃーん。ゾンビパウダー。これはゾンビ兵を作り出すためのツールであるばかりでなく、この世界の捏造された歴史を根底から覆す証拠でもあるのだ!正しい歴史を知ったこの世界の人たちはみんな、われわれセルマ修道会の味方についてしまうのだ!」

 大司教が机の下から黒革の鞄を引っ張り出してみせる。


「それはこの間、魯雪華とかいう危ない女が奪っていったものではないですか。無事に取り返すことができたのですか?です」

「大変だったんだよー。鞄にトレーサー仕込んでいたのがバレていて逆に待ち伏せされててさ。襲撃班のうちコマ君以外みんな返り討ち。魯雪華って女、ヤバイわ。

 それでもコマ君が頑張ってくれたおかげで取り戻せたんだけどね」

「コマさん、あれから元気になっていたんですね。人知れずお亡くなりになったとばかり思っていました。です」

「それ、ちょっとひどいわ。コマ君はね。あれから新しい顔と肉体を手に入れて元気になったの。なぜだか若い女の子連中に急にモテだして特に心が元気になりましたとさ」

「ホストか何かに改造したのですか?って、そんなことどうでもいいのです。コマさん、魯雪華という危ない女に見事、リベンジを果たしたかどうかを知りたいのです」

「うーん。リベンジを果たしたというのか?どうなんだろう。僕にもよくわからんわ」

「なんじゃ、そりゃ。です」


 ……今日もセルマ修道院本山は平和であった。です。



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