情けは人の為ならず12
情けは人の為ならず12
1200万もの軍隊アリに半包囲されつつある現状にジークフリードの絶叫が止まらない。
「おい。スルト。10万かそこらのアリを焼き殺したところでなんの解決にもならないと言っているだろうが。
奴ら、ピクシーの羽根の鱗粉に狂わされているんだよ。わからないのか。エサもなにもかもほっとらかしにして俺たちを襲ってきているだろうが」
「じゃあ、どうするのだ?このまま何もしないでアリに食われちまうのか」
「逃げの一択だよ。おまえは薄い炎の壁を築いて西側のアリどもの触角を焼ききれ。ついでにフェロモンを吹き飛ばせるだろう。奴らが目標を見失って混乱する機を狙って突破する。
突破口は俺が切り開く。切り開いたら、馬があぶくを吹くまで走らせろ」
「アハハハ。筋肉バカどもが必死の形相で逃げていくわ。
でも、アリたちから逃げきれても空を飛ぶムカデどもからは逃げ切れるのかしら。フフフ。
呼ばれもしないのにノコノコわたしの守護地に入ってくるからよ。バカはお呼びでないということを身にしみるがいいわ」
ピクシーが残忍そうな笑みを浮かべる。
「ちょっと、いいかな?」
悦に入っているらしいピクシーに向かって同じく100階建てのビルより高い蟻塚のてっぺんにいる小野少年が質問をする。
「どうもおかしい。さっきから考えているんだけれど、君が僕をさらった意味がよく解らない。
いくら考えても、君に力を持たない僕をさらうメリットがないんだよね。
君の趣味に付き合わせるため?
冗談ではない。
たしかに僕はもと平安貴族で陰陽師のこともよく知っている。でも、それは現代日本のサブカルチャーの一部でもてはやされているものとは似てもにつかないものだよ。迷信とまやかしと不潔でいっぱいのものだ。そんなものを僕の口から教えられても、君の趣味には何の役にも立たない。
では、なんだ?
結論から言うと、君はきっと蓬莱山の仙人たちとなんらかの取引をしたに違いない。
端的に聞くよ。それはなに?」
「フ。昔のお貴族様は筋肉バカどもとは少しは違うようね。
そう。あんたの言うとおりよ。あんたをさらってもそれ自体にはなんのメリットもない。
あんたはピーターパンでもないしね。欲しい人材でもない。
わたしが欲しいのはあんたの世話をしているセイジャクというシスターの力よ。あんたはそれを引き出すための取引の人質というわけなのよ」
「あっ。それは悪手だと思う」
ワルそうな笑みを浮かべるピクシーにあきれたように小野少年が首を振る。
「静寂さまは一筋縄でいかないから。斜め上を行くひとだから、何をしだすかまるで予想がつかない。きっと僕だけ連れてハイさようならがおちだよ。君の計画はめちゃくちゃにされてしまう。
静寂さまを煙たがっている仙人たちから何を言われたかしれないけれど、きっと君は騙されたんだ。
ああ。ついでに言っとくけど、(取引の)キャンセルはできないよ。もう静寂さまはこの世界に来ちゃっているからね」
「ちょっと。冷水をぶっかけるようなことを言わないでよ。
それでは念願の計画が泡と消えちゃうじゃないの」
「ふーん。別に僕には関係のないことだけれども。
でも、まあ、事によっては弟子である僕から静寂さまに取りなしてあげてもいいよ。静寂さまはそれそれは僕を可愛がってくれているから、きっと僕の説得を聞き入れてくれると思うんだ。面白いくらいに」
ピクシーは思わず二度見した。小野少年がすっかり豹変しているのだ。
誰だ?この狡猾そうな若造は。
「僕はねえ。300年もの間、他人の手のひらの上で踊らされ続けて鬱憤が溜まっているんだ。これでも羽林の家の出なんだよ。人を手のひらの上で踊らせるのが得意の高位貴族がなんでいつまでも踊らされ続けなければならないんだよ!
いい機会だ。本来の自己というものを取り戻すため、僕は戦う。
(敵が)誰だかしれないけど、300年ぶりに公家の高等的テクニークというものをお目にかけてやろうじゃないか。
まずは計画というやつを聞かせてもらおうかな。ピクシー君」
より悪賢いやつに立場を逆転されて世界が動かされるということはよくあることである。
たいていは悪い方へと向かうものだけれども……。
ピクシーの語るところによれば、この世界のもともとの支配人種はエルフ族であった。数千年も前には超高度な魔法文明を築いて絶大な繁栄を誇っていたそうである。しかし、それが彼らの頂点でもあった。
社会というのは様々な利益の衝突を上手く調整して成り立っているものである。ひとつの利益だけを優遇し他を抑圧するやり方などは早々長続きするものではない。彼らの中の小さな内紛がやがて内乱に発展し、ついにはお互いの絶滅戦争という最悪の結果をもたらした。
繁栄を誇ったエルフ族は約2割程度にまで激減したうえ、大地が汚染されて世界の半分は繊細なエルフにとっては住めない不毛の地へと変わった。生き残ったエルフたちはかろうじて文明を維持し、残った土地の地中深くに巨大な地下都市を築いてそこに住むようになる。
エルフたちの悲劇はこれで終わらない。
汚染された世界の半分には、当時、エルフ族の奴隷人種だったヒト族が自然による除去が済むまでの暫定的な管理者として地下都市から放逐されていった。さながらリンゴの実を食べたがために神の怒りを買ってエデンの園から追放されたアダムとイブのように。
だが、このことに大いなる不満をもったヒト族の奴隷女がいた。
名前は伝えられていない。仮にイブということにしておこう。
彼女自身は自分の主人にかなり優遇され汚染された地表へ強制移住させられることはなかったらしい。
イブは同族が絶滅させられるかもしれない強制移住を目の当たりにして(一説には、強制移住させられるメンバーに彼女の恋人がいたとのことである)激しく怒った。そして、願った。
よその世界から来訪した存在にエルフ族を根絶やしにしてしまえるくらいの大いなる力を与えられんことを。
これが今から約7000年前の出来事である。
この奴隷女の起こした騒乱のせいで既に数を減らしていたエルフ族のほとんどが死に絶え、わずかな生き残りたちは虫たちが守護する地中深くの秘密の場所に今もコンコンと眠り続けている……。
虫たちを統括するためにエルフによって造られた魔法生物ピクシーの計画とは、7000年前に奴隷女に与えられたと言われる超絶兵器『聖遺物』の完全破壊と封印を解いてエルフたちを目覚めさせ再び地上の支配者へと復帰させることにあった。
「どう?これでもわたしに協力するつもりはある?
騙して協力させることも考えたのだけれど、あんたの本性を知ってしまった以上、そんな危険な賭けはできない。だから、正直にすべてを話したわ」
半ば諦め半ば期待といった複雑な表情をしているピクシーに向かって小野少年は事も無げに告げる。
「喜んで協力させてもらうさ。ここは僕の世界ではない。同族とはいえ、僕とここのヒトとはなんの関わりもない。また、エルフの復讐劇にもなんの興味もない。
これは僕自身の問題なんだ。僕は僕自身の力でどこまでやれるかが重要なんだ。自分の中の本当の価値を見出すために。そんなものが本当にあるのかどうかも含めて。
はっきり言って俗な僕には静寂さまの説く涅槃の境地にはたどり着けそうにない。仏性というものも理解できない。やれ。風流などと言ったところで、土台、公家などというものは皇室の藩屏にすぎず、帝を中心に世界が回っている時にそのおこぼれをもらって喜ぶようないじましい人種なんだ。有職故実で武装して自分たち以外を地下の人と軽蔑するしか能のない拗ね者たちなのさ。骨の髄までそんな公家である僕がいまさら坊主の真似事をして見せても極楽などへ行けはしない。現世で戦って戦って戦いまくって他人を蹴落とし踏みつけて、末は地獄へ落ちていくしかしょうがない生き物なんだ」
ぎょろりと品のいいはずの小野少年の目が虚空を睨む。
「武家と違ってわれら公家には武力など必要ない。商人とは違って金の力も信じない。
ただパワーバランスを逆手にとって世界を回していく。
そのためには手段を選ばない。褒める。騙す。名誉をくれてやる。権威づける。泣きつく。二枚舌を使う。裏切る。ありとあらゆることをする。
ふん。ひととしての矜持はないのかだって?
お生憎様。公家はね。帝を除いて自分たちが世界で一番偉いと信じているから、そんなものは必要ないのさ。
武力にも金にも頼らないで、天下を回す。
強いて言えば、これこそが公家の矜持さ」
「アハハハ。あんたはどうやら他の異世界人たちとは随分毛色が変わっているみたいだわね。これなら信じてもいいかも。いや。信じたくなったというべきかな。
この世界にはエルフたちの残した文明のかけらを狙って野盗もどきの異世界人たちがちょくちょくと送り込まれてくるのよ。送り込まれてくる奴らと言ったら、ほとんどが元の世界で居場所のなかった惨めったらしい連中でさ。自分たちが評価されなかった恨みでいっぱいで、そのくせ自分の価値を見出すために抗う努力さえしなかった夢想家ぞろい。
そんな連中。虫たちの餌食にしちゃってもよかったんだけれど、なんだか可哀想でさ。話を聞いているうちについ同情しちゃって、そのうちわたし自身が彼らの趣味にはまって今では首までドップリ。
でも、これはこれでよかったのよ。
無気力人間どもが自虐癖もないのにわざわざろくに食い物もないうえ水洗トイレもない勇者もどきのサバイバル生活なんてできやしないでしょ?
衣食住の面倒をみたうえゲームでもマンガでもなんでもござれの妄想の世界を提供してやったら、二つ返事で使命を忘れて遊び呆けることを承知してくれたわ。
この方法で今までは残されたエルフの地を守護するという役目を上手くこなせてきた。
でもね。このやり方もそろそろ限界なのよね。
そこへ仙人たちからうまい話が舞い込んできて思わず乗ってしまったのよ。わたしは。
わたしとしては海老(小野少年)で鯛(静寂尼)を釣るつもりだったのだけれど、驚いたことに海老のほうが鯛よりずっと高級品だったみたい。
小野少年。さあ。わたしを楽しませて頂戴な。
ベットにはこの世界の半分が乗っかっているのよ。
賭けの代償に見合ったゾウゾクするような楽しみをはやくわたしに味あわせて頂戴な」
「君は公家という大時代な骨董品がつい昭和の時代まで生き残っていた理由を知っているかな?
公家というのは、どんな時代のどんな状態にでも世の権力者たちの欲望というものを正確に見抜く。
この能力があったればこそだ。
この能力があったればこそ、室町の時代から江戸に至るまでの不遇の時代をも生き延びて明治維新までつなげてこれたのだ。最後にリングに残るのはいつでも公家たちなのさ。
以前は人の顔色ばかりを伺う卑屈な属性だと僕自身で忌み嫌っていたけど、考えてみればDNAにまで刻み込まれた僕の大切なアイデンティティそのものではないか。
正真正銘の公家である僕は決して君の期待を裏切らないよ。安心おし。ピクシー君」
ここにも一人、暗い情念から顔に笑みを浮かべる人物がいた……。
✽ ✽ ✽ ✽
「君は職務怠慢だ。エスター中尉。わたしに4体も始末させおって」
「……どうも昔から生体反応のない敵は苦手でして。大尉殿」
マリアカリアの怒鳴り声に振り向きもしないで、エスターはフリッター状にした2体の人形を見つめたままつぶやいた。
「言い訳はいい。それよりシガレットをくれ」
「……」
マリアカリアはもらいタバコが嫌いだったが、シガレット・ケースごとリリスに取り上げられているので、エスターに嫌々ねだるほかはない。
マリアカリアの頼みに対し無表情のエスターが新たに生やした3本目の腕を自身の胸の中に突っ込んで中からシガレットのケースを取り出す。
「で。どうなのだ。自称美人の方は?」
「……狙い通り真名を突き止めました。大尉殿」
「そうか。では、行くぞ。エスター中尉。今は壊れた人形を見つめて追憶に浸っていていい場合ではない」
✽ ✽ ✽ ✽
屋敷内で銃声とマリアカリアの怒声が響き渡っていたちょうどその頃、ひとりの女性がシーツを伝って二階のバルコンから中庭へ降り立った。
『サラ。あなたって、見かけによらず体力ないわね。もう息が上がっている』
「ハアハア。
ババア。また、ひとの体を勝手に使って。もういい加減、出て行け!
わたしは下の階に降りるときはエレベーターか階段を使うの。シーツでロープの代用をしたりはしない」
『あんたがとんまなのがいけないのよ!さっさと猪女たちから離れてくれればどうにでもなったのに』
「どうにでもなった?
ババアはわたしの体を使ってお得意の人殺しをしながら生きていくつもりなの?わたしは嫌よ。絶対。
わたし。この世界で一人では生きていける自信がないわ。だから、あの人たちにくっついてた方が断然いい」
『甘いこと言っているんじゃないわよ。
あなた。あんなトラブル・メーカーの猪女と一緒にいたら命がいくつあっても足りないのよ。わかっている?
そもそも、あなたはなんで異世界来訪当初からあんなのにくっついているのよ。いまさら愚痴を言っても始まらないけどさ。
サラ。これから言うことをよく聞いて頂戴。
あいつらにわたしの真名を知られてしまったの。これは致命的なことなのよ。あなたは自分には関係ありませんと思っているでしょうけど、今やわたしとあなたは一心同体。わたしが魔術で縛られるとしたら、あなたも自由ではいられなくなるの。
理解できた?わかったなら、さっさと逃げるのよ。逃げて生き延びるのよ』
サラの体を自由に操っている美女は中庭の隅に桶を見つけるとそれに跨り、襲ってきた人形の持っていたナイフでルーン文字を刻みつける。そして、ため息をつく。
『空を飛ぶなんて3世代ぶりのことだけど。追いつかれる前に逃げなくては』
口だけしか自分の思うようにできないサラは急に動き出した桶に慌てふためき、悲鳴を上げ始める。
「あああ。体が浮いてる。ヒーッ。急にスピードをあげないでー。ぎゃあー」
『サラ。こら。黙りなさい。猪女に気づかれる!』
浮かんだ桶のうえで上体を仰け反りながら悲鳴を上げるサラに向かって内なる美女が叱りつける。
だが。
なんとかサラたちが飛行を続けてようやく渓谷に架かる石橋が見えるところまでたどり着いたその時、20メートルにも及ぶ皮膜の翼を持った黒っぽいものが高速で突っ込んできてサラたちを無情にも跳ね飛ばした。
「ああら。そんなに慌ててどこへ行こうとしてらっしゃるの?自称美女さん。
月が綺麗だからといって素人の夜間飛行はとても危険だわよ。フフフフ」
殺しをするための最適化なのだろう。美しくはあるが恐ろしい何かに身を変えたエスターが夜空で翼をはばたかせながらサラたちを見下ろして嘲笑する。
「おやおやおや。屋根で腰を打ったの?それは痛いわね。可哀想に。
でもね。わたしに人形を差し向けて嫌なことを思い起こさせたのだもの。もっと可哀想な目に遭わせてあげるわね」
エスターが現代戦車の複合装甲ですら切り裂くその爪に八つ裂きにした人形の髪の毛を絡ませながら、陰惨な目つきをくれる。
乗っ取った魔導人形では足止めにもならなかったの?
割れた屋根瓦が散乱した屋根の上で腰を抑えつつ美女が空中のエスターを睨みつける。ちなみに、サラはエスターに跳ね飛ばされた衝撃ですでに意識を失っている。
「わたしは大魔女。精霊などに負けやしない!」
美女が虚勢を張りながらなんとか逃げ出す方法を見出そうと考えを巡らすのだが……。
「アハハハ。なんだ。その笑わせるセリフは。
真名を知られても相手が自分を縛る魔術を行使できないのかもとかいう儚い期待でも抱いているのか。とんだお笑い種だぞ。
そもそも真名など知れなくても勝負は最初からついていたのだ。おまえは負けたのだ。諦めてしまえ!」
今度は制服に着替えたマリアカリアが建物の影から出てきた。
顔を歪める美女を尻目にマリアカリアが憎憎しげな言葉を吐く。
「でも、なんだ。美女、美女と言うのもわたしは飽きた。やはり真名で呼んでやろう。
エスター中尉。こいつの真名はなんだっけ?大きな声でもう一度言ってみてくれ」
月の光に照らされたマリアカリアの顔がうすら笑いで歪んでいる。彼女の癖で、負けた相手を完膚なきまで叩きのめして心を折ることに無上の喜びを感じているのだ。
『言うな!黙れぇぇっ!!!』
美女が絶叫する。
ドガッ
絶叫した次の瞬間、黒っぽい何かが残像を跡にしながら屋根の上をすべってサラの体をはね上げた。
「おいおい。エスター中尉。わたしの命令を忘れてやしまいな。わたしは殺すな、と言ったのだぞ」
「大尉殿。口の利き方を教えるため裏拳で軽く撫でてあげただけですよ。こんなものでは死にやしませんよ。フフフ」
「エスター中尉。わたしは君の慇懃無礼な性格をよく知っている。
まかり間違えても『つい。うっかり』などという言い訳は通用しないと心得ておけ」
「大尉殿。完全に死にはしなければいいのでしょう?8分の7程度は殺してもいいのでは。
あんなことをされたんですよ。わたしの気が収まりません」
エスターには暗い記憶がある。7000年以上経っても忘れられはしない。襲ってきた人形の無表情ぶりが彼女に開けてはならない過去の残滓を見せつけてしまった。
「おお。話には聞いていたが、ものすごくどす黒い情念だな。それは。
だが、それを許す気はわたしにはない。エスター中尉」
言葉ほど驚いた素振りも見せずにエスターに向かって淡々と告げると、マリアカリアは右の上腕の骨を砕かれて苦しみに悶えているサラこと美女に視線を向ける。
「どうやら、大魔女という輩でも理性のある精霊には敵わないらしいな。
現実というものがよくわかったか。エエ?
おまえが自慢らしく狩っていたとかいうのは、マイナス40度の猛吹雪の中、生命の暖かさを求めてうろつきまわるしか能のない奴らしいではないか。
そんなのと一緒にされたのでは、こちらとしては堪らない。
相手をよく見るべきであったな。喧嘩を仕掛ける前に」
「クッ!?」
「おやおや。屈辱に顔を歪めているようだが、アリステッドよ。そんなに悔しがることもないぞ。
力のあるなしに関してだけ言えば、おまえなどはわれわれに比べればほとんどゼロに等しいゴミだからな。悔しがることすらおこがましい。
フン。わたしなどはこんな力など要らないのだがな。今でも持て余し気味でお荷物でしかない。
わたしにはこういった力に憧れるおまえの心境がよく理解できない。少し教えてくれないか、変態のシリアル・キラーさん?」
冷たい目をしているが、マリアカリアにはもう既に美女こと『アリステッド』を抹殺する気はない。
彼女は軍人である。彼女の定義によれば、軍人とは戦争の道具であり、そのために人を殺す。戦争以外で人殺しをするのは彼女の軍人としての信条に反する。戦場という同じ土俵に上がったもの以外を殺すつもりは彼女にはないのだ。
彼女に言わせれば、軍人という暴力装置は制限された目的にのみその存在価値があるのだ。その枠を飛び出てしまえば、ただの犯罪者に堕ちてしまう。もとより犯罪者になるつもりなどマリアカリアにはない。
今回は当初、アリステッドが東京中の人の命を巻きぞえに戦争を仕掛けてきたのかとも思った。だが、マリアカリアはサンフランシスコまで出張ってすぐに気づく。
こいつ(アリステッド)は戦争をしているのではない。ただ自分のために殺人を繰り返す無力で惨めなシリアル・キラーにすぎない。たしかにこいつの罪は許さるほど軽いものではない。しかし、こいつを裁いていいのは法であり、裁判所の役目だ。自分のするべきことではない、と。
だが、殺すつもりはなくとも、マリアカリアはケジメとして教育だけはしっかりとしておくつもりだ。これはシルヴィアやアーサーとグロリアたちにもしてきたことである。
「わたしはさっき、真名など知らなくても勝負がついていたと言っただろう。その意味についておまえは気づいていたか?おそらくは気づいていないことだろう。わたし自身、気づいたのがつい最近のことだからな。
フン。もとから気づいていたのはマルグリットとリリスだけだろう。たぶんな。
ユグドラシルのりんごを囓ったばかりのわたしに出会ってマルグリットがなぜ慌てて洗脳をかけてきたのか?
なぜわたしをやっつけたくてウズウズしているリリスが直接顔を見せないのか?
それはわたしの能力の暴走を恐れているからだ」
言葉を切り、マリアカリアが少し疲れた表情を見せる。
「わたし自身が気がついたのは、最近の『正義の味方』いじめをしていたときのことだった。
見かけのうえで強いのもそうでないのも一様に重機関銃弾を浴びせかけてやった。だが、それで誰ひとりとして死にもしないし怪我すらしない(もちろん、殺す気はないから、不慮の事故が起こった場合、控えているエリザベス伍長にすぐさま再生させるつもりでいた。だが、その必要はまったくなかった)。
フン。あの12・7ミリ弾だぞ。それが一人の例外すらもないのだ。
最初はこういうその世界の仕様かとも思っていた。だが、訪れる異世界どこへ行っても同じだった。何万もの『正義の味方』が誰ひとりとして怪我すらしない。
さすがのわたしも考え込まざるを得なかった。
思いついた一つの仮説は、わたしが『正義の味方』とはそういうものだと思い込んでいるからだ、というものだった。つまり、『正義の味方』というものは物語を盛り上げるため敵役にいつもいつも最初はいたぶられるが、それを死にもしないで耐えに耐え、最後にはスカッと逆転を決める。そういうものなのだから、重機関銃弾をちょっと浴びせかけられたくらいでは怪我すらしないものだ、とな。
次に監獄島の悪党いじめに行ったとき、この仮説が確信に変わった。
実際はやつらはそれなりに強かったように思える。だが、わたしの固定観念があいつらから実力を奪い去り、喜劇的な何かに変えてしまった。
つまり、わたしには主観で現実の世界を変える力があるということなのだ。わたしはその力に『過去を変える力』と名づけた。実際、思っただけで過去が変わっているのだから。
信じられないか?アリステッドよ。
ならば、その目をよく見開いてエスター中尉を見てみろ。わたしは今、今夜の魔導人形による襲撃はなかったと思い込んだからな。
その結果が如実に現れているはずだ」
サラことアリステッドが振り返ると、翼を背負った悪魔じみた姿ではない、いつもと変わらない黒スーツに黒革のコート姿のエスター中尉が立っていた。
「あああ。そんな……」
「おい。エスター中尉。最近、君は人形の衝撃を受けたことがあるか?」
「冗談でもやめてください。大尉殿。
ひどいトラウマがあるんですよ。そのネタであまりいたぶられると、わたしがわたしでいられなくなります。
普段の温厚で目立たないわたしのままでいさせてください。
そっとしておいてください。そっとね。大尉殿」
「おお。それはすまなかったな。わたしの言ったことを記憶から消去してくれ給え。エスター中尉。
なに。ちょっとした実験だったんだ。君の犠牲で実験は大成功だ。
おっと。わたしの頭の中を覗くなよ。エスター中尉。それをすると、最悪の結果しか生まないからな」
マリアカリアが痛むはずの腕をかまうこともせずに呆然としているアリステッドに向かって再び講釈を垂れる。
「どうだ。納得したか。アリステッド。
1が消えれば当然、2も消える。右腕はもう痛むまい。屋敷に帰っても壁にも床にも穴など空いてはいない。
おまえは月に誘われて夜の空中散歩に出歩き、わたしとエスター中尉もおまえの跡を追った。話はそれだけだ。そういうふうにわたしが過去を書き換えたからな。
これでおまえも真名を知られて悔しがる理由のないことに納得したな。エエ?」
「ううううっ!わたしを殺せ!猪女。今すぐに。
わたしは大魔女!
そ、そんなおまえごときに馬鹿にされていいような卑小な存在ではない。ないはず。
自分の矜持にも見合わない存在ならば、今すぐこの世から存在をかき消したほうがいい!わたしを今すぐ殺せ!
ハイル・ヒトラー!」
「フン。一寸の虫にも五分の魂というやつか。
わたしはそういうのは嫌いではない。
でも、他人のためとは言え、わたしは自分の信条に反してまで人殺しはしない。自殺の幇助くらいはしてやるがな。それと、少しばかりなら過去を変えてやることもやぶさかではない。ただ、それはどこまでが少しばかりなのかの見極めがとても難しいがな。下手をすれば人殺しと同じことになってしまいかねないから。わたしは他人の価値をすっかり変えてしまえるほど偉くはないのだ。
さっきも言っただろう。わたしもこの力を少々持て余しているのだと」




