少年 2
少年2
その頃、八田の館では一人の尼僧が杖で屈強な侍を打ち倒していた。
「利光殿。いい加減に諦めなされ」
「グハッ。……尼殿には懸想する者の心が分かるまい」
地べたに倒れ伏した男は近隣の地侍である。名を川村十兵衛利光という。園田流兵法の印可持ちで、流行りの傾奇者でもある。
この男、八田氏の息女苑に懸想し、度々嫁盗みを働こうとするのだが、その度ごとに尼僧に企図を折られている。
この地方では嫁盗みは血で血を洗う争いの発端になりかねないのであるが、男の行動は尼僧の働きで争いに発展していない。今ではもう八田の衆は男の行動に慣れてしまい、騒ぐ者すらいない。
「俗世を嫌う者が何故にひとの恋路の邪魔をするのや。もう8回目やぞ」
男は痛む体を引き起こしながら尼僧に問う。
「争いは好ましくないゆえ。仏弟子からすれば嫁盗みに執着する利光殿の心中の方が解りかねまする」
この地侍の属する川村一族と八田氏とは友好関係にあり、仲人を通せば嫁とりになんの障害も無い。仏弟子からだけでなく一般の世人から見ても男の行動は愚挙といえる。
対象の苑も男を嫌っている訳ではない。現に今も屏風の陰から男を心配そうに盗み見ている。
「今は乱世や。嫁一人、自分の腕で得られないようで何が男ぞ。何が侍ぞ」
男は強がる。が、ここには男の言を是とする者はいない。この度もまた男は郎党に手伝ってもらい痛む体を馬に乗せて在所へ帰るほかなかった。
男を帰らした尼僧の名は静寂という。やや汚れた尼頭巾に作務衣タッツケ姿の、小さい庵の主であるが、不乾山清凉寺派26代刀宗でもある。
齢24。
その黒目がちな眼をもつ色白の顔には清涼な輝きがある。美人と言ってよい。
静寂尼の前身は津の国の住人上村十太夫時次の息女、凛。
凛は15の年に発願し、霊山不乾山にある清凉寺の門を叩く。
この時、師となる25代刀宗静月尼は凛の発願に納得できず門を閉じた。凛は冬山の豪雪の降りしきる中、3日間門前に侍り、遂に入門を許された。
凛はどこかの高僧とは異なり、3日の間、ただ立ったまま入門を請うたわけではなかった。拒否されるのを予想し、食料その他防寒の具を準備したうえ、門の脇にカマクラをつくり許しを待った。清凉寺は禅宗の寺であり、禅宗は頓智を尊ぶ。禅宗の修業には想像力が欠かせないからだ。静月尼は凛が雪靴、手袋の中に唐辛子を塗りつけた布を忍ばせているのを知り、その賢さを認めたがゆえに入門を許した。
発願の真剣さをアピールするためわざわざ凍傷を負う食わせものや、寒さを予測できない愚か者を清凉寺は受け入れることはない。
仏弟子は輪廻から外れ解脱することを望む。禅宗では、悟りを開き解脱する方法として自身を悟りを開いた先人である釈迦に置き換えることを選ぶ。日常の行動の指針を釈迦に求め、我が身が釈迦であったならどうするのかを常に考える。そうして自身の振る舞いと釈迦のそれとが一致するとき、自身はすでに釈迦なのだから自然と悟りを開き如来となり解脱する、と考える。
悟りとは何か、解脱とは何かなどと面倒なことは考えず、とりあえず形から入りそれを全うするというのがこの世界の禅宗のあり方である。
夢想するのではなく行動するというべきか。
仏弟子は殺生を嫌う。刀は殺人の道具であり、それを修業の道具に使うのは矛盾しているようにも見える。
しかし、清凉寺ではそうとは考えない。
もし凶漢が幼子に刃を突きつけているのに出会ったならば、釈迦としてはなんとする。不殺生を説くのか、懇願するのか。
否、否、否である。
緊急のときである。凶漢を改心させている暇はない。釈迦ならば凶漢を打ち殺してでも幼子の命を救うはず。余裕があるならば凶漢の命をも助けるはず。言葉はこの場合、まったく役に立たない。刀は道具である。道具にすぎない。仏弟子は殺人の道具としてではなく、活人の道具としてよろしく用いればよい。
緊急の時、釈迦の望む状態を実現するためには何が必要か。力の弱い尼の身で実現するにはどうしたらよいか。
300年前、そこまで考えた静心禅尼は工夫を凝らし刀法の一流を立てた。それが清凉寺派刀法である。
初代刀宗静心尼が冬の池に映る月を観て得るものがあったと言い伝えられていることから、寒月流とも呼ばれている。
この刀法は目的が第三者の身命の保護にあり、かつ輪廻を嫌い自身の身命を捨てることに躊躇のない仏弟子のものであったことから、防御の技は一切無い。主にカウンター攻撃からなる、相手を迅速に制圧するための必殺の技法18式。それが全てである。
この刀法の修業は、18式の技法を身に付けさせるための型稽古、百日廻刀と、いかなる状況いかなる相手に対しても技法を使えるよう心身を鍛えるための千日廻刀との2種類のみである。
百日廻刀は型稽古といっても単なる木刀の素振りを指すのではなく、独自の呼吸法を伴うサーキット・トレーニングであり、持久力と攻撃の鋭さを養うものである。
そして、それは単に百日間稽古をすれば修業をおさめたといえるかといえば、そういうものでもない。初代が自ら編み出した18式の技法を身に付けたと納得するのに百日かかったことから付けられた名称にすぎず、人によっては1年でも10年でもかかりうる困難な修業である。
挫折するものも多く、修め得た者の力量は他流の名人、達人のそれをはるかに凌ぐとも言われている。
この困難な百日廻刀よりさらに困難なのが千日廻刀である。
刀宗に就いた者でも達成できた者は少ない。
300年間で僅か9人である。近年では静寂尼とその師静月尼の二人のみ。
修業の一端を示すならば、百日廻刀を修めた姉弟子たちが日常において一撃をくわえてくるというものがある。
清凉寺の尼僧である以上、禅宗の務めを怠ることはできない。作法に法った勤行をし、食事をし、托鉢に出かける。その折々に姉弟子たちが鋭い攻撃をし、修めんと欲する者は18式の技法をもって迎え撃たなければならない。得物は様々であり、食事中の箸であったり掃除のときのシュロ箒であったりする。
就寝中も例外ではない。
寺の務めに関わらない在家の高弟たちが木剣でもって襲いかかってくる。これに対して修行者は時に枕で時に無手で迎え撃たねばならない。
大抵の修行者はいつ襲来するかわからない姉弟子たちの攻撃に恐怖し睡眠もとれず、3,4日で神経を病み、挫折する。
ちなみに、静寂尼はその眼光をもってこれに対処した。
姉弟子たちが一撃を加えんとした時にはもう既に静寂尼の視線が18式の技法で攻めるべき相手の急所に注がれており、動けば必死という状態に陥っていた。双方とも百日廻刀を修めた達人である。次の一手に出ずとも結果は知れている。そのため、お互い合掌し礼を交わして終えたと言われている。
夜においては、静寂尼は睡眠中でも防衛本能が働くらしく、わずか一挙動で襲撃者の機先を制しこれを退けたとも言われている。
15で入門し得度した静寂尼はわずか5年で百日廻刀、千日廻刀を修め、26代刀宗に就く。
清凉寺では刀宗は一人でなければならないという決まりはなく、18代の齢80余の静聴尼以下5人の刀宗が現存している。
刀宗に就くと同時に静寂尼は清凉寺を離れ廻国の旅に出た。自身の発願を成就するためである。
一年前、偶々ここ泉の国八田荘に立ち寄った際、静寂尼は巻狩りで出払った八田氏の館を襲う河の国の悪党30余人をことごとく打ち払った。館に残っていた子女を保護するためであった。
この事件を契機に静寂尼は八田荘の住民と好を通じた。特に八田氏の息女苑に懐かれた。長寿丸ら寄子の子弟とも仲良しであり、手習いや剣術の初歩を教えもしている。
以来、静寂尼は思うところがあるらしく、旅に出ることなく八田荘に庵を建て居ついた。
最近では、静寂尼は10日に一度、隣の平岡の荘へ托鉢に出るか、近隣の地侍らに斎に呼ばれるほか、ほぼ毎日、八田氏の館で馳走になり、苑と囲碁を打っている。
本日もまた、苑と囲碁を打つため八田の館を訪れたのであり、利光の嫁盗みを妨害したのはついでであって、静寂尼の本命とするところではない。
この後すぐに、静寂尼は長寿丸に連れられた小野弘道を自称する異世界の転生者と出会うことになる。
この出会いが多くの人間の運命を変えることに気づいた者はいなかった。




