名誉と汚名の狭間5
名誉と汚名の狭間5
「なんでドイツ人はユダヤ人を目の敵にしていっぱい殺しちゃったの?
わけがわからないよ」
ルイスのいつもの調子でした質問に鍵盤に置かれた美女の手が止まる。
「わたしも加害者なんだけれど、なんかそう軽い調子で聞かれると、カチンとくるものがあるわね。
まあ、君たちからしてみれば遠い異国の昔話なんだけれどもさ。
君たちは、たぶん、ナチスなんて古い戦争映画の悪役ぐらいにしか思っていないことでしょうね」
美女はため息をつく。
だが、次の瞬間、何かを察したらしく、いたずらっぽく笑った。
「あっ。わかった。なんでルイスがそんなことを聞くのかって。
妬いているんでしょ。君。さっき、わたしが付き合いのあったナチスの医者の話をしたから。
君は皮肉を言いたかったわけね。
ふーん。何ごとにも関心のないふりをしていても、わたしにだけはあるというわけか。可愛いじゃない。
君はさえない少年だけれども、それでも、まあ、うれしいわ(君にもてるのは当然なんでしょうけれどもね。だって、わたしはこんなに美女なんだから)。
でも。はい。ご褒美」
美女は横に座っていたルイスの頬にキスをした。
「そんなんじゃない!」
一瞬、ルイスは椅子から立ち上がりかけた。が、熱をもった自分の頬に気がついて足の力が抜け、再び椅子にペタンと腰が落ちた。
美女は難しい顔をしながら続ける。
「なんでドイツ人はユダヤ人を殺したのか。
ある意味、難しい質問ね。当時の雰囲気を知るものでなければ、到底、理解できないことではないかしら。
ドイツ人全員が全員、ユダヤ人憎しで殺しにかかっていたわけではないけれどもね(実際、中には戦争が終わるまで自宅に匿った人たちさえいたけれど)。
まあ、とにかく嫌われ者だったわね、当時のユダヤ人たちは。
強盗などをやらかす街のごろつきの大抵はユダヤ人だったし。ごろつきでなくても、彼らは閉鎖的でね。身内だけでコソコソコソコソ。彼らは身内以外には平気で嘘をつくし。
彼らがそうする理由はあったし、その理由についてもある程度、理解できるんだけれどね。それでも嫌な連中に変わりなかったわね。
もちろん、わたしは『シオン賢者の議定書』などという反ユダヤのために捏造された偽書なんて信じてはいないわよ。わたしは、そういうユダヤ人の陰謀という妄想に恐れおののいたというより、彼らの根無し草的な精神が大っ嫌いだったのよ。
彼らは社会に溶け込めないから依存先がない。そして、バック・ボーンのない彼らはその精神的な飢えを満たそうと、いろんなものにすがりつこうとあらゆるものに手を伸ばす。
金とか。社会主義とか(当時、若いユダヤ人の学生たちの多くが革命で自分たちの居場所を作ろうと、進んで社会主義運動に参加した。有名なスパタクス団のローザ・ルクセンブルクもポーランド出身のユダヤ人である。ロシア革命でユダヤ人の活動家が目立つのも同じ理由からである)。
わたしには、そんな姿がなんとなく軽薄でいじましく見えた。だから、わたしは彼らが嫌いなの。
まっ。わたしの彼らに対する感情はこの際、置いといて。
質問は、なんでドイツ人はユダヤ人を殺したのか、だったわね。
簡単に言えば、みんながそうしたかったから、かしら。
ナチスその他の右の連中がみんなの嫌われ者をスケープ・ゴートに仕立て上げ、それで、みんなはくすぶった感情のはけ口を得て満足し、ナチスはそれで権力を手に入れることができた。
ユダヤ人を殺すことで、みんな、ハッピーになれたというわけね」
紅潮した頬をこすりながらルイスが不満げな声を上げる。
「わるいけど、何を言っているのかよくわからない。
なんだって、当時のドイツ人はそんなことをしちゃいけないんだ、と思わなかったんだろうか。論理を気にするはずのドイツ人がなんだかとっても非論理的に見えるんだけれど。
それにしても、かなり理性的なはずの貴女がなぜあんなもの(ナチ・パーティ)に入ったの?そのこと自体、信じられない」
「あんなもの……。
まあ、たしかに、あんなものだったけれど(実態はただの暴力集団。それは否定できないわ)。
でも、わたしにはそこがよかったの。
ナチスにはね。イタリア・ファシストと違って理論というものがないのよ。それはマイン・フューラー自身も認めていたこと。
あるのは、人間の暗い情念の肯定。
あの時、ナチスが声高に言っていたのは、『地上のすべてを統べるべく神によって運命づけられた最優秀であるドイツ民族はそのために何をやってもいいし、またそうすべきなのだ。その他の人種に対する憐憫こそ罪。なんの呵責もなく奴らを叩きつぶさなければならない』、ということ。
言っていること、わかる?
君の言う良心の呵責なんて、弱者の泣き言、言い訳でしかないの。そんなものに同情して共存を許していては、高貴なドイツ民族の血が汚されてしまう。
彼らは粉砕されるべき民族の敵なのよ。彼らに同情することは罪なの。
そう。罪なのよ!」
当時を思い出してか、美女はやや興奮気味に声が震えた。
「ふふん。まあね。君の言うことにも一理あるわ。たしかに非論理的で、いつものドイツ人らしくないようにも見えるわね。
ドイツ民族が最優秀だと、論証があるわけでも何でもないのよ。自分たちがそう思い込んでいるから真理なの。それだけ。
非常に非論理的だわね。
勝手に自分たちを偉いんだと決めつけて他のすべてに対する攻撃を完全に正当化する。
でも、それが素晴らしい。
とっても素晴らしい考え方だと思わない?
これほど人間の持つドロドロとした暗い側面を堂々と肯定して、それを隠そうともせず、むしろ全世界に向かって主張したのをわたしは見たことも聞いたこともなかったわ」
美女はいったん言葉を切り、微笑みながらルイスを観察する。
「まだ何を言っているかわからないという顔つきね。
つまり。
国民のすべての帰属先、依存先がドイツ民族という大きな枠組みであって、その中に入っていれさえすれば何をやっても許される、と主張しているの。
裏を返せば、現実は自分たちが自分たちで思っているほど最優秀民族としては扱われていない。虐げられている。不満だ。なんであんな奴ら(ユダヤ人、ドイツ民族を堕落させる共産主義者、そして外国人たちを指す)をのさばらせていなければならないんだ、とかという妬み嫉みの心情を吐露しているのよ。
いわゆる、ルサンチマンというやつね。
コミュニストの連中も結局は同じルサンチマンを抱えているけど、彼らは外面を飾るわ。『人民の権利の擁護』だとか『すべてにおいて公正で平等な世界の実現』だとかの信じてもいない大法螺を吹く。
でも、ナチスは違う。
正義ぶった外面なんて気にはしない。
やりたいから、やる。気に食わないから、殴りつける。地上においてドイツ民族という最優秀の種さえ存在していれば、あとは要らない。だから、殺す。
実に爽やかじゃない?
わたしはそういう偽善的なものの欠片もないところが気に入ったのよ!」
熱に浮かされたような美女の演説はまだまだ続く。
「……ドイツという国は、今も昔も結局、田舎都市の集まりなのよ。せいぜい2万人程度の人口の(あっ。ベルリンとかハンブルクのような大都市の例外を除いてね)。だから、街の人は大抵が顔見知り。
そして、そんな地方都市では、中世から脈々と受け継がれてきた徒弟制度が根付いているものなの。
知らない?パン屋にも楽器職人にもマイスター(親方)というのがいるのよ。
これは、もう完全に身分が固定した社会だわね。
そういうところでは、誰も彼も勝手に自分のルールで新しいことを始めてはいけないのよ。それはタブーなの。みんな、先輩や師匠の跡をなぞることだけが要求されるの。
そんなのだから、パン屋の息子はパン屋の跡を継ぎ、肉屋の息子も肉屋の跡を継ぐということがいつまでたっても繰り返されていく……。
(そういう地方都市では)身分が固定されているから、職人の息子はたとえどんなに優秀でも、せいぜい町役場の書記位にしかなれない……、第一次世界大戦の頃くらいまではね。
学校制度からしても、そう。
もと領主で貴族の子弟やお金持ちの息子たちはギムナジウムへ行き、一般の町人の子供は職業訓練校へ通うことになっているの。
つまり、いつまでもたっても一般の人間は上には這い上がれずに、権力者たちが永遠に上に立っていられるように仕組まれていた社会なわけね。
ところが、第一次世界大戦の敗北でこの支配の構造が大きく揺さぶられてしまうの」
美人はピアノの鍵盤をポロンと爪弾いた。
「ひとというのはね。保守的な社会に育つと、その窒息しそうになる雰囲気を嫌う癖に、一旦社会が混乱しはじめると秩序だった安定を求めるものなのよ。社会に対する帰属意識というものが強いというか、帰属する社会を乱そうとするものに不安を大きく抱くものなの。
どこの社会でも、混乱が収まり経済が安定し出すと、中道やや左よりの政党にひとの支持が集まる。逆に、経済が混乱に見舞われてひとびとが先行きに大きな不安を抱くようになると、やけくそになって極左と極右に支持が分かれる。その場合、混乱期に(極左と極右の)どちらを選ぶかというと、それは社会の色によって決まる。
保守的な社会に育ったひとたちは結局は極左を避け、極右を選ぶものなのよ。
1929年の世界恐慌のせいで、それまでもっとも支持を得ていた社会民主党は議席の数を大きく減らしたわ。議席を伸ばしたのは、極左の共産党と極右の諸団体。それでも、ワイマール体制を維持してきた社会民主党と中道左派の勢力は穏健なヒンデンブルク大統領を取り込んで抵抗しようとしたわ。
でも、それもヒンデンブルク大統領の取り巻きのひとりで政治陰謀の大好きなひとりの軍人のおかげですべてご破算。1933年、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相にする……。
ナチスはね。ひとびとに民族という大きな帰属先を与えて安心させるとともに、それまでの息の詰まる社会構造に風穴をあけた。能力が有って出世したかったら、うちの党に入ればいいってね。ナチスに反対するひとたちも多かったけれども、安心と出世の糸口を与えたことから若い世代の多くが支持をしたの。
みんな、自分たちの欲望を満たすために喜んでユダヤ人を殺す片棒を担いだってわけ」
続きを話そうとする美女が突然、部屋の隅から起こった拍手に遮られる。
「まさに歴史の証人というやつ、だね。
実際、ユダヤ人たちを殺して回った君でしか話せないことだし。これは」
「あら。嫌味を言いにわざわざ遠いところからお越しになったのかしら。
わたしの命の恩人で、依頼主の精霊さん。
わたしとしては、あなたより先にイギリスの雌豚どもが押し寄せてくる方がずっと都合がいいんだけれど。
でも、歓迎しますわ。リリス・グレンダウアー。あなたもわたしの待ち人の一人ですもの」
部屋の片隅にいつのまにやら稀代のトリック・スター、リリス・グレンダウアーがその白く長い髪を輝かせて立っていた。
美女はそんなリリスに実に意味深な笑いを浮かべてみせた。




