愛の牢獄1
愛の牢獄1
王女はたったいま届いた宅配の包を開けてうなだれる。
前回届いた包みに喜びを感じただけにこの落差は大きい。前回の包には欲しかったドレスそのものが入っていたのだ。
全ての記憶が失われている王女にとって今の暮らしは現実味がまるでない。
といっても身に危険の有るわけでもないので、王女は恐怖というものを感じてはいない。あるのは漠然とした不安と孤独であり、それらが王女を苛なみ苦しめた。
たとえば顔見知りらしきクラスメートと挨拶をしても、王女にはその人物との付き合いの記憶がまるでない。だから、人形やロボットと会話をしているような感覚に陥ってしまう。また、自身の家族の記憶もない。だから、いまいるこのマンションにだれか肉親のひとと住んでいたという記憶もない。当然、誰かと食卓を囲んだ記憶もなければ、部屋の中で会話をした記憶も、誰かが家の中を掃除したり料理をしていたのを見た記憶さえもまるでない。どの部屋にもかつて遊んだとか昼寝をしたとかおやつを食べていたとかいう記憶がなにもない。品のいいソファーにも重い机にもだれかとしゃべったとか勉強したとかの過去の思い出といったものが一切ない。
王女には部屋に置かれている家具にもカーテンにも部屋自体にもすべて彩がなく砂漠のように静まり返っているように見えてしまう。つまり、家のどこかに得体の知れない何かが隠れていて王女を不安にさせるのではなく、何もいない何もないという確信こそが家中ににあるすべてのものに冷たい空っぽの灰色を感じさせていた。
王女が何時も感じるのは、ここでは春野ヒナタなどと呼ばれているがそれは本当のことなのだろうか?御伽噺のようにどこかの悪い魔女によって入れ替えられた人間ではないのだろうか?それとも夢なのだろうか、一切が?あるいは本当は死んでしまっていて際限のない日常生活を繰り返すという地獄にでも堕ちてしまったのだろうか?という果てしない妄想と疑問だらけだった。
この漠然とした不安への対処として王女がとった方法は死んだように生きるというものだった。できるだけすべての感覚を麻痺させて、何も考えず何もせずにただただ生きる。
自身の体を何か大きな灰色の手でガッシリと掴まれているようで無力感に囚われてしまう。
自身の力では何も変えることができないのだから仕方がないじゃない。嵐が通り過ぎるのをじっと待つように何もしてはいけない、何も考えてもいけない、ただただ自動で動き出す人形か何かのように動くのよ、動くだけなのよ……。
王女はこう自身に言い聞かせて生きてきた。
この辛いことは時間が解決してくれるだろうという淡い期待だけを頼りにした王女の死んだふりは現実には半年足らず続いていただけだったが、王女には何百年にも思えていた。
幸い、生きるのに必要なものはすべてどこの誰かも知らないひとから十分すぎるほど送られてきていた。
だから王女は完全に自動人形になりきり、なにも考えなかった。
決まったように毎朝起きて冷凍のパンを解凍して焼く。学校へ持っていく不細工なサンドイッチを作る。時間通り登校して、誰か知らない人達と挨拶をする。お昼は人気のない学食で持参のサンドイッチとヨーグルトを摂る。強制されているクラブ活動には文芸部を選び、適当に読書感想などを提出して部室に居残るようなことはしない。だいたい決まった時間に寄り道をすることもなく真っ直ぐマンションへ帰り、出来るだけ早くベットへ入る。
なぜなら、夢の中だけが王女にとり現実感を抱けて安心できる場所だったから。
もっとも、いま現在では状況が全く変わってしまった。永遠に続くかとも思われた王女の灰色の闇は突然、光のようなもので振り払われ、一切が彩を取り戻したのだ。
記憶が戻ったわけではない。それは過去とはまったく違う別の、喜びの光だった。
王女はこの2週間ほど、夢を見ていない。
いまや現実こそが王女にとってその夢の中なのだ。
学食で漆黒の髪の男子学生と会うようになって王女の何かがすっかり変わってしまった。
そして、マリアカリアから仮装舞踏会の招待状をもらった王女はこの世界ではじめて願望というものを抱く。
あの漆黒の髪の男子と対になるドレスを着飾って、一緒に踊りたい。
だが、このささやかな願望は同時に悩みをも王女にもたらした。王女にはドレスを誂えるためのお金と時間がなかったのだ(王女は銀行口座に多額の預金を持っていたが、薄気味悪くて一度も引き出したことがなかった。手持ちの現金では小物を誂えられても、オートクチュールのドレスを注文するには到底足りない。仮に預金を引き出したとしても時間的に間に合わない。いつもニコニコしている転校生で自称天才デザイナーに頼むというのもひとつの方法だけれど、そこまで親しくはないし、付き合うには問題のある人物らしいし。特にそのお仲間たちが。困ったわ。本当に困ったわ)。
そこへ前回の宅配で、王女のささやかな願望を叶えるかのように王女にぴったりのドレスが送られてきたのだ。採寸も取られていないのになぜぴったりのドレスが送られてきたのかという疑問を抱くこともなく、王女はシンデレラのように喜んだ。有頂天になっていたといっていい。王女にとりこの世界では死んだ恋敵のベアトリスの記憶もなく、機会があれば殺しにかかる身内の王族たちもいない。王女が騎士のフランチェスコに恋をする障害はなにもないのだ。記憶が何もなくても無意識に感じるこの開放感が王女をかつてのようにやや騒々しく麗麗とした女性につくり変えた。もはや王女は死んだふりをして生きることなど忘れてしまっていた。
だが、その王女の風船のように膨らんだ歓喜も今回来た宅配によってしぼんでしまう。
中には白いコサージュと手紙があり、そこにはこれまで王女にすべての生活物資を送り続けてきた謎の人物から王女のパートナーとして舞踏会へ同伴することとパートナーの証としてコサージュをつけるよう命じる旨が日本語ではない謎の言語で書かれてあった。




