この世は楽し1
この世は楽し1
サラ・レアンダーの父親は弱い男であった。
だから酒に溺れ、家に帰っては妻や子供に対して怒鳴り散らした。家では常に不機嫌であり、よく机を叩いた。
5歳の頃からサラには朝投げ込まれる朝刊を玄関先まで取りに行き食卓についている父親のところへ持っていく仕事を割り当てられていたが、サラはいつ机を叩いて汚い言葉で怒鳴りつけ始めるかわからない父親の前に立つのが怖かった。
サラが8歳の頃、父親は事業に失敗する。
それからの父親の荒れようはすさまじかった。
アル中となった父親のストレスの矛先はよく弱い立場にある幼い娘に向かった。彼はしばしば娘を些細なことで叱りつけ折檻することで支配欲を満たし優越感に浸った。その結果、サラは父親に甘えることができず、父親に甘えたいという憧憬と父親に対する憎しみの感情を同時に抱くようになる。
サラが10歳の頃、母親は離婚した。
サラとその弟は母親のもとへ引き取られることになり、サラは母親の実家のあるカンザスシティで暮らすことになる。
離婚した父親はサラの母親に裏切られたと感じており、もと妻となぜかサラのことをひどく恨んでいた。それゆえ、養育費は払うものの、面接交渉権を使って弟に会いに来てもサラに会おうとは一度もしなかった。
サラの母親の母親つまりサラからみて祖母にあたる人物はドイツ人であった。
彼女はベルリンの壁が築かれる前に現地に駐留していたアメリカ兵と恋に落ち、結婚してアメリカへ移り住んだ。彼女はその幼い頃に死んだとされる母親(サラの曾祖母)の持ち物を数多くアメリカへ持ち込んでいた。
サラが15歳の頃、祖母が死ぬと、遺言で祖母の持ち物の大半を可愛がられていたサラが受け継ぐことになった。
そして、サラが17歳になったある日、サラは市内の街角で黒人のポン引きが売春をさせている女性に殴る蹴るの暴行を加えているのに遭遇する。
なぜか異様な興奮に囚われたサラはすぐさま家へ取って返し祖母の遺品であるワルサーPPKを持ち出してきて、車中からポン引きの背中に向けて発砲した。
サラの最初の殺人である。
本来なら人種暴動が起こりかねない事件であるが、殴られていた女性以外目撃者はおらず、女性も沈黙したため、事件は未解決のままうやむやになった。
サラはこの他人の人間性を奪う行為に快感を覚え、生活でストレスを感じると人を殺したくなる衝動にしばしば駆られるようになる。
実際に2度目の殺人を犯したのは、その5年後。サラが22歳のときのことである。
被害者は彼女の父親であった。
◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆
美女はルイスに対して偉そうに振舞っているが、その長い生の間に幾度となく自己のアイデンティティを失っており、今現在も自己を肯定する要素を見い出せないでいる。
だから、自信に満ちた外面とはうらはらに彼女の内面は地獄だった。
ひとは無意識であれ常に内面において自己の価値を判断し続けている。
その自己という誤魔化しの効かない冷徹な観察者の目から見て自己に生きる価値を見い出せないとき、本来ならひとは自殺する他ない。そこをひとは自己ではなく他人の評価に自己の価値を見出し心の穴を埋めて、なんとか生き延びようとする。いわゆる外面を飾るというやつである。
たとえば、内面の本当の自分はどうであれ自分は若くて美しいから(あるいはそう見えるから)他人に好ましく受け容れられているのだとか、自分は高貴な身分の生まれであり(特別な存在で偉いのだから)他人から敬意を持って遇されるはずなのだとかという誤魔化しをする。
経済的に分不相応な高級時計をはめて他人に見せびらかしたり、車に大した興味も持っていないのに必要のない高級車をわざわざ借金をしてまでして買って乗り回したりすることも同じである。実際そうでなくても他人から羨ましがられたり尊敬される金持ちであることを自身で装っているのである。
この物語の美女が自分のことを他人から見て美人であることを意識していたり、ことさら『大』魔女であることに拘るのもそういう防衛行為であるといえる。
これは別段悪いことをしているのではない。非難されるようなことでもない。人の本能による自然な防衛反応なのだから。
そうしないと自分が潰れてしまうのである。
現実では大抵の人がこれをやって故意に内面から目を逸してなんとか生活をしている。
ただし、これは実に辛い生き方である。
常に他人の評価に合わせてその通りの自己を演技し続けなければならない。まるで一旦履けば死ぬまで踊り続けなければならない赤い靴を履いてしまったような人生である。
しかも、一生涯踊り続けられる人は滅多にいない。大抵の人は破局を迎え、また別の仮面を被って踊り続けるのかそれとも自己の内面に肯定できる要素を見出すかというきつい選択を迫られることになる。まさに地獄である。
そうかといってこの選択を拒めばどうなるのであろうか。
少数ながらこの選択を拒否する人も現実にいることはいる。
そういう人の末路は自殺か安全が保証されている妄想の世界への退却かに尽きる。
過去にこの選択を拒否した人物にカスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドィー二という女性がいる。
伯爵夫人と大層な肩書きであるが、その出自は別に貴族でも何でもない。ただのイタリアの踊り子である。彼女はサルディーニャからフランスに送り込まれたスパイであり、イタリア統一を認めさせるべくナポレオン3世の愛妾となった。
彼女のウリは自身の美貌だけであり、彼女自身が思っているほどスパイとしての能力は大したものではなく、影響力も実際には微々たるものしかなかったらしい。
40代になったとき、彼女は自身の容色の衰えに気づいてしまう。
破局を迎えた彼女は伯爵夫人の肩書きやフランス、イタリアの要人にコネを持っていること、あるいはそこそこの金持ちであるなどとといった新たな仮面を被ろうとはせず、ひたすら自身が美人であったことにこだわり続け、その評価を他者から壊されるのを回避するため屋敷に引きこもった。
彼女は屋敷の使用人にみな自分より年寄りで醜いものしか雇わず、自身を映す鏡をすべて叩き割り、壁はすべて黒く塗りつぶし、ブラインドを下ろして窓を開けようとはしなかった。
そうして彼女は自分が若くて美貌のままいられる夢の世界の住人となって死ぬまで過ごした。
まさに進むも地獄、退くも地獄といった有様。そこに救いはない。
やはり安心して楽に生きるには、自己の内面に自己を肯定できるなにかを探り出してくる他ないように思える。
偉い先人たちが親離れをする若い時期に自己のアイデンティティを確立する必要があると声高に説いたのも、そういうことなのだろう。
では、その自己を肯定する「なにか」とは一体どんなものなのか?
それはわからない。他人にわかるはずもない。価値は各人各様のものであり、絶対的な基準というものはないし、他と比べるものでもないからである。
ただし、それは絶対的な善とかというような大層なものであるはずがない。必要もないのに最初から自己を否定的に見ていることこそが問題であって、ハードルを限りなく低く設定してもかまわないのだ。容易に自己を肯定できる、各人のそれぞれの人生で「これだけはこだわりたい」「これだけは言いたい」とかというもので十分である。
たとえばオレは電車の中で老人に席を譲らなければ気がすまないくらいの優しさがあるぞ、といったくらいのものでいい。そんな偽善的なものは犬にでも食われてしまえと思うひとならば、コーヒーの味が分かるとかお好み焼きのつくり方には一家言ありとかいうようなものであってもいいと思う。
要するに、そんな大したものではないのだ。自己を自己であるとあらしめるものなどは。
そして、たったそれだけのことに気づきさえすれば、人の人生はバラ色に変わる。
背が低かろうが頭が禿げていようが太っていようが、オレはオレ。目が細すぎようが胸がなかろうが背が高すぎようが、ワタシはワタシ。なのだ。
簡単だろう。自己を肯定することなんて。
だが、不幸なことに美女は気づいていない。
美女はときおり疼く自己否定の痛みを他人が人間性を奪われる想像をして優越感に浸るという気休めによって紛らわしている。
こういう生活が千何百年も続くとは実に痛ましい話である。
美女は決して根っからの悪人というわけではない。大昔、スカンジナビアで名医と言われたこともある。知の探求者、賢者と言われたこともある。
だけど、今はただのサディスト。
実に痛ましい話である。
◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆
美女はルイスと付き合いだした最初のころ、ルイスのことを(自分のことは棚に上げておいて)自己否定するネクラなやつで、安全な夢の世界に退却してそこから外をボーっと眺めているから何事に対しても無関心でいられるのだと決めつけていた。
だが、美女はその認識を改めはじめている。
「なんでわざわざ送りつけたんですか(美女は例の写真の入った封筒を複数のシリアルキラーとなる可能性のある人物もしくはすでに殺人を犯したことがある人物へ郵送した)。家にあるパソコンを使えば一発なのに」
ルイスがどうでもよさげに気の入らない質問をする。
「わかってないわね。ネット経由だと送られた側の感じる脅威の度合いが小さいのよ。よくあるイタズラで済まされてしまうわ。それにネットは誰に監視されているのかわかったものじゃないわ」
「そういうものなのですか」
「そういうものなのよ」
ルイスは曖昧に頷く。「ふーん」
「ルイスは(私に)どうしてそういうことをするのか、という質問は一切しないのね」
「はあ。別に興味もないし」
「私はそういうルイスに興味が出てきた。君が何をよりどころとして生きているのか知りたくなったわ。
いいわ。サービスよ。君の関心事を知るため私の力を使わせてあげるわ」
美女がそう言うと、ダイニングテーブルのうえに水柱のようなものが立ち始めた。水柱の中には光り輝く無数の文字の羅列が蠢いている。
「これが私の自前のパソコン。クレイ社のスパコンなんて目じゃない性能よ。
さあ。ルイス。
中を覗き込んで知りたいことを念じてみなさいな。どんなことでも知ることが出来るわよ」
ルイスが水柱を覗き込むと、たちまち彼の夢の世界がそこに映し出された……。




