出会いから付き合うまで。
【かおりさんへ捧げる。】
知り合いのブログに掲載されていました。
mixiで知り合った人から依頼されて、実話をもとに書き下ろしました。
恋愛小説は初めてで、新鮮でした。
少年と少女は出会ってから数日の間に付き合うまでに至る。
恋人成立までの電撃性を書いた。
※携帯小説サイト、野いちごにも掲載しました。※
大学に入って二年目の九月、バイトをしようと思った。
ポストを何気なく開くと、そのチラシが入っていた。
二〇〇八年十月四日オープン!
そのチラシには黄色い地色に躍るような真っ赤な文字でそう書かれてあった。よくよく見ると、お好み屋さんのオープン記事だった。オープンにあたってバイトを募集する、と言う内容だ。そのチラシを見た瞬間に、あたしはそこでバイトをする決心をした。電話するまでそう時間はかからなかった。何気ない素振りで受話器を持っていた。
「それじゃ、自己紹介をお願いします」
副店長の田子池さんに言われ、あたしは名前を名乗った。
「あっ、更科です。よろしくお願いします」
すると、田子池さんの横で控え目に座っていた男の子が無表情に名乗った。
「草加です。よろしくお願いします」
あたしは無愛想な人だな、と思った。それが彼に対するあたしの第一印象。初めての出会いは、無味乾燥なものだった。
一焼堂のオープン前。あたしは一焼堂の社長専用個室でメニューを作成していた。真ん中に鉄板を配したテーブルが入り口の前に一つ、少し離れた奥の方にもう一つ。あたしは入り口付近のテーブルに座っていた。お座敷だから正座を崩した格好だ。そこへ田子池さんがニコリとも笑わない男の子を連れてきたのだ。男の子の名前は草加君。その時のあたしにはあまり興味がなかった。人見知りしそうだな、と言う思いはあったけれど別段それ以外の感情は抱かなかった。事実、彼はその様子であった。
スタッフルームにて挨拶を交わした後、あたし達は会話を交わすことはなかった。シフトが重ならない、と言う事もあるかもしれない。だけど、それ以上に興味をそそられなかった、と言うのもあった。別にバイト先で仲良しな人を見つけようなんて思ってなかったし、今もその考えは変わってない。話すことといえば、挨拶程度。おはようございます、お疲れ様です。その程度の仲だった。
だけど、あの日、彼に対するあたしの目が変わった。
初めて。
初めて彼の笑顔を見たのだ。
初日から暫くの間、店には閑古鳥が鳴いていた。
オープン初日から数日後、草加君は厨房で仕込みをしていた。あたしも手伝おうかな、どうせ暇だし、と思って厨房に行ってみた。ホール担当だけどお客さん来ないし、いいよね。
「あっ、手伝います」
あたしが言うと、草加君は振り向いて、
「じゃあ、これに生地を入れてください」
と言ってボウルを差し出した。この中に生地を入れろ、と言うことらしい。あたしは厨房内を見渡して量りを探した。厨房担当の人は目分量だけで量れるみたいだけど、あたしには無理。だから量りが無いと、と思って探しているのだ。厨房はホールほどではないけれど、十分にスペースを確保されているので程よく広い。壁際にはコンロ、業務用の大きな冷蔵庫などが並んでいて、中央に食器などの小物が置いてある。生地をこねる、などの作業は中央の作業台で行なっていた。厨房の中にはあたしと草加君の他にも、数名の厨房スタッフがいた。皆それぞれの作業に集中している。
「量り、ありますか?」
あたしが訊くと、
「あぁー、無いですね。いいですよ、僕がやりますから」
草加君が代わってくれた。多分、どこにあるか解らない量りを探すより早いからだろう。
草加君が生地を入れたあと、あたしが千切りにしたキャベツを乗せた。量はどうかな、と草加君を見ると、これでいいと言ってくれた。そんなあたし達を料理長が見ていて、声を掛けてきた。
「更科さんっていくつ?」
「二十歳です」
「草加は?」
「十九です」
「草加の方が一つ下なんやな」
「平成生まれなんですよね? 若いですね」
あたしが驚いて言うと、草加君が謙遜した。
「いやいや、一つしか変わらないですよ」
料理長がしげしげとあたしの顔を見ながら言う。
「更科さん、童顔やもんな」
「ちょ、それ、酷くないですか?」
厨房の中に笑い声が響いた。その後あたしはお客さんが来たので、ホールに戻っていった。それからだった、彼と話すようになったのは。
あたしの彼に対する興味が深まったところで、あの出来事が起きた。
「声出ししようよ」
誰かが言い始めた。声のした方を振り返ると、杉松さんだった。杉松さんは知的な女性で一焼堂のムードメイカーだった。ポニーテールをしていて目元がキュートな人だ。大人な女性、と言う感じがして凄く話しやすい。話の持っていき方が上手いんだ。背の高さは中背といったところ。面白い人、と言う印象が強い。
「バタバタしてる時は忘れやすいから声掛けを徹底しようよ」
皆が何だ? と言う顔で杉松さんのことを注視したから、杉松さんは言い訳がましく説明を付け足した。
この店にはデビル玉というハバネロなどの激辛素材をこれでもかというほど入れまくった、激辛お好み焼きがある。そのデビル玉をお客さんに提供する時にどろ辛ソースという辛いソースを一緒に持って行かないといけない。でも、店が込み入ってきてバタバタしている時は皆忘れやすい、だから声掛けをしようと言うのが杉松さんの主張だ。
「いい? 私がまず見本を見せるから、皆はまねをしてみて。焼き場とホールの連携ね」
皆静まり返って、杉松さんの方を注目する。
「提供お願いします」
「あいよ」
「どろソース」
「あいよ」
杉松さんの一人芝居だ。皆あっけにとらわれている。
静まり返ったホールの中、吹き出す音が響いた。何かと思って見てみると、草加君が一人で声を立てて笑っている。その笑顔がとても印象深くて、可愛いな、とあたしは思った。印象ががらりと変わった瞬間だった。その笑い声に釣られたのか、皆いっせいに笑い出した。場の空気が一変に変わった。やっぱり杉松さんは凄い。
それ以来、あたし達は杉松さんのアイデアを取り入れ、掛け声の絶えない店内になった。忙しい時など、活気があってとても良い雰囲気だ。
彼が笑った。あたしにとってそれは、とても大きな事件だった。
ある日、一緒にホールに入っている安井さんから、こんなことを聞かれた。
「最近、どう?」
「最近って……あ!」
あたしには思い当たる節があった。先日安井さんに、気になっとる人がいるやろ? と、訊かれたからだ。でも、訊かれた当初気になっていたのは、宮下君というあたしより一つ年下の男の子だった。しかし――、あたしは困惑して答えに窮した。
「あっ、いや……、んー……」
「……」
安井さんの、あたしを見詰める視線が痛い……。
正直、もう宮下君はどうでも良かった。いや、そんな言い方をすると語弊があるけど、でもあたしの中では宮下君の存在は小さくなっていた。それよりも、もっと大きくなった存在があったから。
「え? もしかして、他に気になる人がおるん?」
安井さんに突っ込まれて、あたしは当惑しながらも思わず頷いてしまった。二度ほど。
「誰? 誰? バイトの人?」
「いや……ちょっ……」
「えー! もしかして……、ウッチー?」
ウッチーとは、あたしとタメの社員で、内山君のことだ。あたしは即座に否定した。
「ち、違いますよ!」
あたしに否定されて、引くに引けなくなったからか、安井さんは一焼堂の男の子の名前を上げ始めた。もう、これは当たりが出るまで終わりそうに無いな、とあたしは半ば覚悟を決めた。
「あ、草加っち!」
何人めかの名前が挙がったとき、あたしの心臓が跳ね上がった。同時に頬から耳にかけて、猛烈に火照ってくる。あ、これ、多分赤くなってるな。そんなあたしの様子を見て、石井さんはやっと当たりを引いたかと、にやりと笑う。
「本当に? 何で? どこがいいの?」
これは逃げられないな。もう一度、覚悟を決めた。
「…………わ、笑った顔が、かわいいんです……」
なんか、説明してる。すっごい恥ずかしい。
「草加っちのアド知ってると?」
携帯をひらひらさせながら安井さんが言った。
「いや、知りませんよ」
当然だ。メルアド交換など、まだ早い。
「えぇー、訊かな!」
「でも、だって、訊くきっかけ、無いですし……」
「んーそうやね……」
先ほどまで饒舌だった安井さんが、突然しゃべらなくなった。不気味な静けさ。
その間、あたしは出来上がったお好み焼きを客席に提供したりしていた。
と、不意に安井さんが話しかけてきた。
「いいこと思い付いた。私に、安井さん、アド教えてくださいって言って、その流れで草加っちにも聞いたらいいやん」
な、そうしぃよ! と、あたしにやや強引に自分のアイディアを押し付けようとしている。あたしもそのアイディアは良いものだと思ったので、いいんですか? と、肯定の意味も込めて確認した。そうしたら、返ってきた答えがあたしには嬉しい答えだった。
「いいって! いいって! 頑張って!」
あちゃあ。完全に思い込んでいるな、あれは。あたしが草加君に恋してるって。まぁ、当たらずも遠からず、といったところなんだけど。安井さんはいい人なんだけどね。話しやすいし、仕事に対しても真面目だし。でも、ちょっとおせっかいなところがあるんだよね。
それから一焼堂にはお客さんが来なかった。夜だし、それは当然だと思う。今は九時を回っている。一焼堂は深夜一時まで営業してるけど、流石にこの時間になるとお客さんも来ない。暇だし、そろそろ帰ろうか、という話になって、一緒に帰る人をあみだくじで決めることにした。
あたしと草加君になった。
だけど、草加君は来てまだ一時間しか経っていないから、安井さんと一緒に帰ることになった。シフト表を確認したら、面白いくらいに草加君とあたしは重なっていなかった。今日を逃したら草加君とは暫く会えない。何故か、絶対に訊かないといけない、という焦りが浮き出ていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
ヤバイ。安井さんが帰ろうとしている。安井さんが帰ってしまったら、訊くきっかけがなくなってしまう。
「や、安井さん!」
「何?」
「良かったらアド教えてください」
「いいよ。あ、この際だから、知らない人みんな交換しようよ」
安井さんのフォローにあたしは密かにガッツポーズをつくった。
ポケットから携帯を取り出す。
「あれ? 充電、切れそうだよ」
宮下君が親切心から言ってくれた。その時のあたしの待ち受けは、電池がラスト一個の絵に、「愛が不足しています。充電してください」という文字が上下に挟み込んでいる画面になっていた。
「あはは。よく見て」
宮下君に見せたら括目した後、爆笑。解ってくれたらしい。草加君も横から見て爆笑していた。そう。あたしの待ち受け画面はネタ用の画像になっていたのだ。
笑の渦が一段落したところで振り返ったら、安井さんがいない。あれ? どこへ行ったの? ひょっとして、もう帰ってしまったとか? あたしは一人パニックになって、何がなんだか訳が解らなくなっていた。しかし――、ここまできたら一人ででも訊くしかない、と意を決した。
「み、宮下君のアドはこの前訊いたよね」
「うん。送別会のときに交換したね」
送別会というのは、田子池さんが副店長の座を降り、何処かへ行ってしまうということが決まったときに行なわれた送別会のことだ。どこへ行ったのかはあたしには知らないけれど、その時の送別会で宮下君とアド交換したのだ。
「草加君も良かったら教えてくれない?」
「いいですよ」
あたしの突然の振りに、草加君は快く答えてくれた。
「ありがとうございます」
あたしは礼を言い、草加君の携帯に自分の携帯の赤外線パネルを向け、プロフィールを送った。これでアドレスが受信出来たはずだ。次に草加君が赤外線送信してくれた。よし! これでアド交換は成功。バリ緊張したけど、行なってみると意外とあっさりしている。ついでと言わんばかりに、草加君の隣に居た篠田君にもアドを教えてもらった。因みに、篠田君も一つ下。一焼堂にはあたしの一つ下が多い。草加君、宮下君、篠田君、大田君、山西君、山下君。数えただけでも六人。平成元年から二年生生まれが多い。若いなぁ。羨ましい。
登録作業が終わったら、安井さんが戻ってきた。もう、どこへ行っていたんですか、と言ったら、あはは、でも登録作業は上手くいったでしょ、と返ってきた。ほんとにどこへ行っていたのだろう。
その後、あたしと安井さんとは着替えに更衣室に向かった。あたしの住んでいるところは一焼堂から五分のところだから、あたし自身は着替えない。安井さんが着替えるのを話しながら待った。下を見ていたけど、ふと見上げたら安井さんのブラが目に飛び込んできた。真っ赤なブラ。うわぁ、派手だな、セクシーと思っていたら、安井さんが気付いて恥ずかしげに笑っていた。あたしより一つ年上だけど、安井さんは見た目も中身も、当然服の中身も大人だった。感心してしまった。
都会の濁った空気の中、星は一つか二つしか瞬いていなかった。
あたしと安井さんは二人並んで歩いている。そろそろ肌寒くなってくる時期、息が白くなるまではいかないまでも手を擦り付けたくなるような肌寒い風が吹いていた。そろそろダッフルが必要かなーと思っていると、安井さんの方から話しかけてきた。
「寒いねー」
「えっ、ええ、そうですね。寒いですね」
「で、どうだったの?」
「えっ! な、何がですか?」
「とぼけないで。例の彼のメアド、交換できたのかって」
「ええ、上手くいきました。お蔭様です」
「これで一歩近付いたね」
ふふっと笑う安井さんの笑顔は大人びている。
女の子って、こういう恋愛系の話は好きだから助かるときもあるし、困るときもあるのよね。そんなことを考えていると、あたしの家が近付いてきた。安井さんの家はもう少し先にあるから、ここでお別れだ。
「あ、じゃあ、ここで」
「うん。また明日」
「また明日」
あたしはすぐ目の前に聳え立つ十四階建てのマンションに入っていく。ここら辺で十四階建てのマンションといえば有名だ。付近にはこれ並みの建物は商業施設以外には無い。あたしは郵便物を確認すると、セキュリティセンサーにカードキーを差し込み、普段はロックされている自動ドアを開ける。静かな音を立てて自動ドアが開いていく。あたしは澱みの無い動作でそれを潜っていく。吉本君にメール送らなきゃなぁ。あたしはエレベーターを待つ間、考えていた。でも今は送らない。家に帰り着いてから送ろう。エレベータが軽快な音と共に到着する。あたしはそれに乗って、目的の階数を押す。体が少し浮くような感覚と共に、エレベータが上昇していく。文字盤に十一階と表示され、扉が静かに開いた。
家の玄関を開ける。ほっとする空気が流れてきた。いつでも思うけど、自宅ほどくつろげる空間は無い。自分の領域という感じがして、なんだか安心する。
リビングのほうから生活音が聞こえる。お母さん、帰ってるんだ。あたしは声高らかに挨拶した。
「ただいま」
「あら、帰ったの。ご飯は食べてきたんでしょう」
お母さんがリビングの扉を開けて言った。あたしはぞんざいに返事をした。
「うん」
あたしは直ぐにでも自室に篭った。扉の向こうでお母さんがなにやら喚いているけど知ったことじゃない。あたしも大学生。バイトもしてるし、自立している大人なんだ。もう少しそっとしておいて欲しい。過保護は困る。
ベッドに寝そべりながら、あたしはメールを打つ。相手は吉本君。何で意中の人でなく、吉本君なのかって? ふふん。それには海よりも深い事情があるのよ。アドレス交換したとき、吉本君からは赤外線通信をもらったけど、あたしからは送信していなかった。つまり、吉本君のアドレスはゲットしたけどあたしのアドレスは送ってなかったわけ。自分だけ吉本君のアドレスを知っていてもしょうがないので、あたしは早速メールを送信しているの。家についてからそのことに気が付いて、慌ててやっているのは内緒。
草加君とはメールを送受信している。
その事実がどれほどあたしを落胆させていることか。つまり、もうこれで草加君にメールを送る口実が無くなった、ということだ。肩が落ちすぎて床に届きそうだわ。
でも。本当にあたしは草加君のことが好きなのだろうか。好きってどういうことなの? 人を好きになるって、どうなることなの? 好きって言う感情がよく解らない。本で読んだ好きという感情は、相手のためなら自分がめちゃくちゃになっても良いと思える感情の事だったり、相手を労わって慈しんだり。そういうのを愛だとか言うのだとはわかる。好きはその前の段階。まだ若い愛。だからあたしはまだ、草加君に対して好きなのかどうなのかわからない状態。
そんなことを考えながら、吉本君にメールを送る。「登録よろしくお願いします。あれからお客さん、来ましたか?」と打ち込んで送信ボタンを押した。暫く経ってから、いつもの着信音が鳴り響き、メールを受信したことを告げる。返信メールだ、と思ってメールを読む。結局、あれからお客さんは来ず、暇です、という内容だった。
『アド教えてくれてありがとうございます。これから仲良くしてください。』と、締めくくっていた。
それから、バイト中にもメールをしていた小川さんにまたメールを打つ。小川さんはあたしの高校の頃の親友で、れっきとした女の子。そう。あたしは女子高に通っていたのだ。
――良かったね。ちゃんとメールした?
女の子なのにギャル文字は使わず、絵文字も少なめのメールだ。几帳面さが窺える。
――いや、してないよ。メールする口実が無いし。
って、書いてメールを送る。すると、
――せっかく交換したんだからメールしないと意味ないでしょ!
と返って来た。
小川さんも恋をしていて、バイト中にメールしたときにあたしが「好きなら行動しないと、上手くいくものも上手くいかないよ! 今やれることをしないと絶対後悔するよ!」と送ったので、小川さんの発言を無視できない。それに、友達だし。こういうときにこういうことを言ってくれる友達は正直ありがたい。
あたしは小川さんとのメールをやり取りした直ぐ後で、草加君にもメールを打った。吉本君からお客さんゼロです、暇ですって返信メールが来てたから、心置きなくメールが打てる。
――アド教えてくれてありがとうございます。これから仲良くしてください。機会があったら遊びに行ったりしたいですね。
そういった内容を打ち込んで、送信ボタンを押した。暫しの沈黙。緊張する瞬間。うん。あたし頑張った。これでもう、思い残すことは無い。と思っていると、着信音が鳴り響き、メールを受信したことを知らせた。早い。さすが。バイト中なのに直ぐに返信してくれるなんて。ちょっとだけ嬉しい。吉本君が言ったとおり、全然お客さんが来ないのかな。
――ありがとう。これからも仲良くしようね。遊びに行くのもいいですね。
と言う内容だった。それ以降、メールは来なかった。バイトが終わって、家に帰って直ぐに草加君は寝てしまったようだ。仕方ない。あたしも寝るか。おやすみ。
翌朝。朝一でメールが来た。結構まめなところがあるのね。そう思って携帯を開いて見ると、挨拶らしき文面が。バイトのこととか、自身のこととかに触れている。その後何通かメールのやり取りをして、夜になったら草加君が寝て、翌朝メールのやり取り、と続いた。
その翌日。
電話をしよう、と言うことになった。
メールをしていて、実はお互い寂しがりやなんだという話になったから。その寂しさを埋めるために、肉声を聞こうと言うことなのだ。
その日電話をした。勇気を出して。そしたら、友達が泊まりに来ているらしく、草加君はいつもと違う雰囲気だった。ちょっと酔っている?
「楽しそうだね。いいな、若いって」と私。
「いやいや、一つしか変わらないじゃん」と草加君。
「昭和と平成の壁は意外と厚いのよ」
この電話は草加君からかけてくれたものなので、電話料金が気になった。だから切るね、と断りを入れてから切ることにした。時計を見たら一時間が経っていて、驚いた。一時間がこんなにも短いものだったなんて。時間て不思議。長く感じられるときもあれば、短く感じるときもある。それは主観によるところが大きいのだけど、体感時間って当てにならないよね。
電話を切って数分後、またメールが来た。「やっほ(笑)」かわいい。そう思ってしまった自分はすでに重症だなって思う。完全に草加君に惚れてるって。でもそれを表面に出してしまうと、周りが煩いから出さないようにしてるの。アド訊いた時から知っていたことだけど、あの日以来草加君とはシフトが重なっていない。
顔を見たくなった。ああなんだか、顔を見ていないと落ち着かない。このもどかしさ。恋する乙女って感じ? 電話が楽しかったから余計にそう、思えるのかもしれない。だから素直に返信してみた。
――声聞いたら会いたくなっちゃった。
――じゃあ、会う?(笑)
――草加君がいいなら。
――そっちまで行こうか? 迎えに行くよ。
夜半過ぎ。だから深夜一時だね。日付が変わってるから翌日なんだけど、あたしの感覚では翌日ではない感じ。多分誰がどう考えても翌日と言う感覚ではないだろう。こんな夜遅くに外出するなんて初めてだった。しかも両親に内緒で。胸が高鳴り、動悸が止まらない。両親が起きて来ないか、不安な感情に押しつぶされそうになりながら家を静かに滑り出た。
近くのコンビニに行くと、草加君が待っていた。なんだか急に気恥ずかしくなってきた。だって、こんな深夜に会うなんて……密会のようで周りを気にしないといけないんじゃないか、そう思えてくる。それに……実際に会うと羞恥が先走って声が出せなかった。メールや電話ではあんなに素直になれたのに。
「どこか座って、ゆっくり話せるところ無いかな?」
草加君が切り出した。あたしがこの近辺には無い、と言うと、草加君がじゃあ自分の家の近所に行こう、と言った。そこならゆっくり話せるから、と。並んで自転車をこいだ。平行して自転車を走らせる様は、端から見てると恋人同士に見えるだろう。福岡に住んで五年目。通ったことの無い道。その道を、曲がりくねった道を、あたし達は走った。暫く進んでいくと、海岸線が見えてきた。草加君の言っていた話せる場所って、海岸だったんだ。来たことの無い海を見て、あたしは感動した。
船が沢山停泊している岸辺にあたし達は座った。温暖化の影響で暖かいかと思ったけれど、海風が吹き付けてきて肌寒かった。髪が風に煽られて舞い上がる。
「寒い?」
寒がっているあたしを見かねて、草加君がそっと手を差し出してきた。
「俺の手、めっちゃあったかいよ」
あたしは逡巡した。ここは手を握るべきなのだろうか。躊躇しているあたしの手を黙って握ってくれる草加君。温もりが広がった。なんだか、暖かい気分になった。
「何でこんなに暖かいの?」
「んー、心が冷たいから」
笑って答える草加君。いやいや、そうじゃないでしょと突っ込むあたし。和やかな空気が流れる。そのまま語り合った。顔が火照る。緊張のせいか、会話が頭に入って来なくなった。
「手、小さいね」
「そりゃ、男の子より小さいよ」
「指、細っ」
あたしの心臓が激しく脈打つ。この心臓の音が草加君に聞かれやしないかと、心配で堪らない。気が気じゃないけど、離したくない。この相反する二つの感情に、あたしはどぎまぎしていた。
身動ぎしたり、立ち上がったりして手を離してしまっても、どちらからとも無くまた繋いだ。
「――って、その友達がさぁ……って、聞いてる?」
「え? う、うん。聞いてるよ」
にやけている草加君。この顔、何かたくらんでいるな。
「その友達が、今日泊まりに来ているんだ。呼んで良い?」
「え?」
突然の申し入れに、驚いて言葉を紡ぐことができないあたし。なんて言ったらいいか、直ぐには出てこない。何で友達を呼ぶの? とか、何であたし達二人だけでいられないの? とか、いろいろ疑問が浮かんだけれど、それは口に出さず、あたしは笑顔で肯定の頷きをした。
それから暫くして、草加君が言っていた友達が自転車に乗ってやって来た。三人で並んで座る。あ、もちろん、草加君とあたしは手を握ったまま。だからあたしと草加君は隣り合う形で座り、草加君の友達は草加君の隣に座った。顔は普通。特に特徴の無い人だった。けど、優しそう。優しく笑っていた。草加君と同じように。二人は本当に仲良しなんだろうなって思った。親しく声を掛け合って、息もぴったり。
草加君の友達も交えて、話は尽きなかった。お互いの学校のこと、ドラえもんの話。あたしの話もそうなんだけど、あたしの話よりもむしろ草加君の話のほうが盛り上がった。いろいろ聴けて楽しい時間だった。ふと時計を見ると午前四時。こっそり出てきたから、家族が起き出す前に帰らないと。あたしはそわそわし始めた。
「何? 何か心配事?」
草加君が気にして訊いてきてくれた。そんな、ちょっとした心遣いだけでも嬉しい。
「あぁー…………そろそろ帰らないと…………」
あたしは申し訳なさそうに言う。申し訳ないことなんて無いんだけどね。
本当は帰りたくなかった。話は弾むし、尽きることが無い。草加君のことをもっと知りたいと思っていた。でも……お互い、学校がある。あたしが帰ると言い出さない限り、この状況は続くと思っていた。でも、だからこそ、あえて切り出したのだ。
「……送るよ」
草加君が紳士的に言ってきてくれた。
「いや、いいよ。近いし。道分かるし」
「ううん、だめ。送るから」
草加君って、結構強情なところがあるんだな。新しい発見。
結局送ってもらうことになった。
自転車を併走して走る。こぐスピードが自然と遅くなる。二人とも無言でこいでいる。気恥ずかしさと、別れを惜しむ感情と。それが交互に押し寄せてきて、あたしの胸には複雑な波模様が描かれていた。その模様がだんだん広がっていく内に、目的地についてしまった。あたしは諦めとも悲しみともつかない感情を抱いた。
「ここの十一階が我が家なんだよ」
「本当に一焼から近いんだね」
「送ってくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
あたしがそう言うと、草加君は手を振って帰っていった。
あたしは自宅に帰って、お風呂に入ることにした。体を洗って、湯船に浸かると冷えた体が芯まで温まっていくようだ。
「草加君、手、温かかったな……」
手の温もりがまだ残っているようで、手のひらをじっと眺める。頬が紅潮していくのを感じた。あんなに男の人と接近したのって初めてで、まだ胸の奥がドキドキしてる。手を当てて、その胸の高まりを静かに感じた。
お風呂から出て、ベッドに潜った。先程までの出来事が夢に思えて仕方が無かった。けれど、このまま眠ったら全部夢として消えてしまいそうで怖かった。そのままじゃ眠れないので、メールをしながら眠った。
二時間ぐらいしか寝てなかったからなかなか起きられなかった。お母さんに怒鳴られてやっと起きた。お母さん、起してくれたありがとう。感謝してる。
起きて枕元に置いてある携帯を見ると、メールが来ていた。草加君からだった。アドを訊いてから、メールが途絶えたことが無い。それほど日数が経っていないと言う話もあるけど、あたしがメールを送ると直ぐに返ってくるし、おはようメールは欠かさない。結構まめな人だなあと思った。
さて、今日の講義は何があったかな。水曜日の講義は確か……二限目に地財会計論ⅠⅡ、三限目は韓国語Ⅱ、四限目は著作権法Ⅱだったはず。教科書やノートを鞄に入れると、部屋を出て食事もそこそこに眠たい目を擦りつつ家を出た。
「いってきまーす」
大学で、やっぱりと言うか当たり前のように寝てしまった。しかも授業中に。二限目はそれでも頑張って起きていたんだけど、三限目、四限目は爆睡してしまった。寝ていても怒られないし、何とかなる講義だからいいけど、少し後悔した。
「花梨」
キャンパス内を歩いていると、不意に声を掛けられた。振り向くと友達の加奈だった。
「あ、加奈」
「寝てたでしょ」
「昨日眠れなくて」
「いいよ。それより、大丈夫なの? バイト」
そう、問題はバイトの時間である。あたしが勤務する時間帯は、十九時から二十二時の三時間。ホール勤務なので立ちっぱなしな上に接客までしなくてはならない。眠たい中の接客は正直きついものがある。殆どお客さんが来ないとはいえ、眠ってしまったら社員の天城さんに怒られる。
でも、あたしは眠らなかった。
あたしはその時間、メールをしていた。みんなと一緒にキッチンでジュースを飲みながら携帯の画面を見詰めていた。ちょうど草加君からメールが来ていた。
――忙しい?
――全然。草加君いないからつまんない。
――俺も更科さんに会いたい。
――早退しちゃうか! 会いに行きたい。
――うん。帰っちゃえ。
私は思い切って天城さんに話しかけた。
「あの、すいません。検定の勉強をしたいので、早めに帰らせてもらえますか」
「お、検定か。頑張れよ。いいよ帰って」
天城さんに言ってみたら、暫く難しい顔をしていたけどあっさりと許可してくれた。いいのかなぁ。
あたしはそのままの格好で店を出た。秋も半ばを過ぎた頃、日も落ちるのがだんだんと早くなってきている。夜になると肌寒い。冷える、とまではいかないけれど、風は冷たさが加わったような気がする。二十一時半ごろだから、この頃にはもう星が瞬いている。一番星も遥か上の方に来ている。
この前と同じコンビニで待ち合わせたから、あたしは真っ直ぐコンビニに向かう。コンビニの駐車場の輪止めに座って、草加君が来る方を見詰めながらじっと待つ。今度はあたしが待つ番。秋の寒空の下待つのは辛い。しかも今はバイト先の制服のままなのだ。だんだん待つのに疲れてきて、外にも関わらずうとうとし始めた。
メールの着信音で目が覚める。
――着いたよ。
外から店内を見渡す。いた。草加君だ。
――外にいるよ。
そう、返信すると店から出てきてくれた。
「いつ来た?」
草加君が訊ねる。
「十五分前くらい」
「嘘!」
「そこに座って、うとうとしてた」
そこ、と言うところであたしは駐車場の輪止めを指差す。
「何やってんの。危ないだろ」
草加君は穏やかに言ったが、表情を見るに本当に心配しているようだった。
暫くして落ち着いて来た頃、どこ行く? と言う会話になった。あたしは徒歩。いける範囲は自ずと決まってくる。結局、あたしの自宅の裏にある小さな公園に行くことにした。
徒歩で数分。公園に着くと、小さなベンチに座った。この前と同様、誰からとも無く手を繋ぎ、そのまま話し込んだ。あたしは凄く寒いのを我慢して。
しかし、次第に疑問が湧いてきた。付き合ってもいない人と手とか繋いでも良いのだろうか? この疑問は直ぐに氷解することは無いだろう。堅いかも知れない。実際に、付き合ってもいない人と手を繋いだこともある。でも、こんなふうに当たり前のように繋いでも良いのだろうか。ひょっとしたら、あたしはこの人が好きなのかもしれない。
そんな思いが交錯する中、まともに話が入ってくる筈もなかった。
二人の関係をはっきりさせた方が良いのだろうか。でも……怖かった。何故だろう。凄く怖い。
静かに公園のベンチに座る。公園は昼間の喧騒とは裏腹に、静寂に満ちていた。夜中なので、誰もいない公園。不気味さもあって、あたしは草加君の手を握ろうとした。握ろうとしてはっとなった。
「手って、繋いでいいのかな?」
「え? 何で?」
「だって、普通付き合っている人が手繋ぐじゃん」
「そうだね……」
暫し沈黙が続いた。口を開いたのは草加君の方だった。
「はっきりさせる?」
「え?」
「関係」
公園の横の貨物列車専用線路を、長くて重い音を立てながら貨物列車が通り過ぎていく。長い貨物列車が通り過ぎていく間、どうしようかたくさん悩んだ。草加君とメールしていた時のこと、海岸で話したこと、様々な思い出が溢れてきて私の胸を包んだ。幸せだった。楽しかった。ずっと、いつまでもこのままでいたい……。手のことも触れなければずっと繋いでいられると思った。けど、曖昧なままでいていいはず無い。
貨物列車が通り過ぎて、静寂が再び訪れると勇気を出して言った。
「一度しか言わないから、よく聞いてください」
「はい」
「……す、すきです。付き合ってください」
声が少し上擦っている。鼓動が早い。こんなにも緊張するものだとは思わなかった。まるで入試のときのような、清々しい緊張感。
草加君が大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。緊張を和らげるためなのだろう。
「俺も、一回しか言わないからちゃんと聞いてください」
「はい」
「……いいですよ」
「え? ぇえ!?」
我の耳を疑った。横にいる草加君を見遣る。そこには恥ずかしそうに俯く草加君がいて。はにかんでいる草加君は可愛らしい。
「はぁ、……俺から言えばよかった」
「え? いや、信じられないんだけど」
息を吐いてみると視界がぼやけてきた。目じりに熱いものが込み上げる。ヤバイと思って、草加君に背中を向けた。え? どうしたの? そう言って草加君が覗き込んでくる。咄嗟に隠したけれど、隠し切れなくて。目に溜まった涙を見られてしまった。
「何で泣くの?」
「いや……あの…………」
「ん?」
「…………嬉しすぎて。あたし、自分から言うの初めてだから。余計に」
そう言ったら、草加君があたしの頭を撫でてくれて、抱き締めてくれた。彼の温もりがあたしの体の中に広がって、心が落ち着いていく。
その後話しをしていたら二十五時を回ってしまった。帰らないといけない、という話になって草加君が徐に、
「ちょっと、目を瞑って」
と言った。あたしは言われるがままに目を瞑った。唇に柔らかいものが触れる。心臓が一つ大きく脈打った。これって、唇と唇が……。顔から耳にかけて火照って紅潮するのがわかる。
一瞬で離れて、五秒後にやっと理解した。
「ちょっと、今の……」
信じられなかった。ついさっき付き合うってことになったばかりなのに、もう接吻するなんて。草加君って、意外と積極的なんだ。
あたしは恥ずかしさのあまり暫く硬直していた。草加君の、もう帰ろうの声に我に返る。
その日は家に着いても、どうしても接吻のことが頭から離れなかった。あんな事、初めてだったから。
それからあたしと草加君は、正式に付き合うことになった。
後日、草加君から、「ご飯食べに来るってなってたから、その時に言うつもりだった」と聞かされた。
でも、自分から言って本当に良かった。