第1章 解呪と覚醒 5
マンチェスター家の屋敷に戻ったルカを迎えたカーシンとアンナは、砂埃だらけのルカを二人してぎゅっと抱きしめて、無事の帰還を喜んだ。
「ああ、良かったです。アンナ、すぐに湯あみの準備を。それから、坊ちゃんの着替えもすぐに。」
「分かりました!」
「どうしたの?そんなに慌てて」
いつになく焦り気味のこの有能な執事に、ルカは首をかしげていた。
「旦那様がご自宅に戻られているのです。実は、旦那様には、坊ちゃんの山登りについてはご報告していなかったのですよ。旦那様は荒事などを好まれませんので」
「そっか。いろいろ気遣ってもらっていたんだね。カーシン、いつもありがとう」
「滅相もございません。無事でお帰りになられて、嬉しいです。まずは身なりを整えていただいて、もし、お疲れでなければ、明日、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「うん、僕も聞いてほしいことがいっぱいあるんだ。ありがとう」
湯あみの準備が出来たとアンナが声を掛けてきたので、ルカはそのまま浴室に向かった。その後ろ姿を見つめながら、執事はマンチェスター家の令息の成長を実感していた。
翌朝、マンチェスター家の人々がそれぞれの活動に出かけていくと、ルカは早速カーシンを自分の部屋に招いた。そして、無事にスズランの朝露を得られたこと、オオカミの子を助けて、自分が転げ落ちたこと、気が付くとオオカミたちが介抱してくれていたことなどを話して聞かせた。
「坊ちゃん…。随分と危ない橋を渡って来られたのですね。ですが、オオカミたちの態度を伺ったことで、私としても、決心がつきました。今からお話することは、実は、奥様から託されている話です。」
「え?母上から?」
急に母エミリアの名前が出て、ルカは戸惑いを隠せなかった。カーシンは、ベルを鳴らしてアンナを呼ぶと、紅茶とお菓子を依頼した。
「坊ちゃん、少し長い話になりますので、まずはお茶でもどうぞ」
「カーシン。それって、もしかして魔法に関係すること?」
それには答えず、カーシンはにっこりとほほ笑んで、アンナから紅茶を受け取ると、ルカへと勧めた。朝食は済ませていたが、ベルガモットの香りにほっとして口をつけると、カーシンがいつになく優し気な顔をしていた。
「坊ちゃんがお生まれになった時、それはそれは、ご家族皆さんが喜ばれたものです。あれからもうすぐ14年ですね。時が経つのは早い。」
ルカは、カップをそっとテーブルに戻して、カーシンに向き直った。
「奥様のご実家、テイラー伯爵家は実は魔法使いの末裔と言われている家柄なのです。ルカ様のおじい様・イアン・A・テイラー様のセカンドネームAはアリアの略なのです。」
「アリア…?」
聞きなれない名前に首をかしげると、執事が説明した。
「昔話などで有名な、ドラゴンと戦って岩になった魔法使い、名前をグレース・アリアと言います。」
「え、それじゃあ、母上は魔法使いの子孫だったの?」
「そのようです。エミリア様からその話を伺った後、私もいろいろ歴史を調べてみたのです。知人に王立図書館に勤務するものがおりましたので、お願いして調べてもらったりもしました。あのドラゴンと戦った話はおとぎ話などではなく、本当の事だったのです。彼の魔法使いの本当の名前はアリア・コートミスティ。つまり何代か前の国王の第二王女でした。アリア様は類まれな魔力を持ってお生まれになりましたが、当時の貴族の贅沢な暮らしぶりをお嫌いになり、社交にも参加されず、引きこもり姫と笑われていたそうです。ですが、アリア様は、社交をしない代わり魔法の腕を磨き続けていらしたそうです。ですから、強く魔力をもつ王族ですら、なすすべがないと歯噛みなさる中、突然のドラゴンの襲来に対応出来たのでしょう」
あまりに驚きすぎて言葉が出ないルカは、無意識に左肩に手を当てていた。そう、この左肩には、7つのほくろがあるのだ。それはまさに北斗七星のように。
「ドラゴンの襲来は一度だけではなかったようです。最初のドラゴンは、お一人でも倒せる個体でしたが、国境付近に、目撃情報が入るようになると、国王は国を挙げて、強い魔力持ちの者を集め、アリア様に師事するよう命じられたのです」
「それが、魔法使いの弟子たちと言われている人達なんだね」
「そのようです」
テーブルの紅茶がすっかり冷めてしまった頃、アンナが新しい紅茶を用意して現れた。
「気が利きますね、アンナ。今お願いしようと思っていたところです」
「あ、ありがとうございます」
アンナの頬がほんのり赤くなって、キラキラした瞳が彷徨っている。ルカはそんなアンナの様子を見ながら、どこかで似たような光景をみたなとぼんやり考えていた。
「そして、先ほどお聞きしたオオカミの話で、ルカ様にもそのような力があるのではないかと思い至ったのです。オオカミは人を襲いますが、昔から山の守り神とも言われています。スズランの朝露を集めるという指示も、なにか関係しているのかもしれません。私がお話しできるのはここまでです。もっと詳しいことをお調べになるなら、テイラー伯爵家を訪問なさってはいかがでしょう?今日のうちにお願いのお手紙をお出ししておきます。幸い、伯爵家は馬車で1日とかかりません。奥様の鳩便を使えばすぐにお返事もいただけるでしょう。夏休みが終わるまでに何か分かるかもしれません」
「分かった。手紙の件は、お願いするよ。ところで、カーシン、近々この地域で赤ちゃんが生まれる予定の家はあるだろうか?」
「赤ちゃんですか?う~ん、少しお待ちください。」
カーシンは再びベルを鳴らし、アンナを呼んだ。
「ああ、アンナ。すまないね。この辺りで、もうすぐ赤ちゃんが生まれるお宅を知らないだろうか?」
「赤ちゃん、ですか?えっと、どうしてご存知なのでしょう。実は、私の姉が今日予定日だと聞いています。でも、まだ産気づいていないそうで、いつになるやら。」
「そうだったんですか。それはおめでとう。」
「アンナはお姉さんの傍にいなくていいの? 初めてのお産なんだろ?死にそうに痛いって、聞いたことがあるよ」
真剣な顔のルカに、アンナはクスっと笑いながら答えた。
「産婆様が来てくださっているので大丈夫です。でも、お気遣いありがとうございます。姉は、お腹が大きくなってからは、家にもどっていて、私もお腹を触らせてもらうのですが、時々ぽこんってお腹の中から赤ちゃんが蹴ってくるのが可愛くて。」
「ええ!お腹の中にいるのに、蹴ったりするの?! 痛くないのかな」
「姉はちっとも痛くないみたいです。それどころか、とっても幸せそうな顔になるから、どんなにお産が痛くても、赤ちゃんに会える幸せの方が勝るんだと思います。だから…私も、だ、大好きな人と結婚して、その、赤ちゃんを産みたいな、なんて…。あ、すみません。しゃべりすぎました。失礼します!」
アンナは脱兎のごとく逃げ出してしまった。
「そっかぁ、赤ちゃんに会えるのって、そんなに幸せな事なんだね。ん?あれ?カーシン?」
ふと向いの席を見ると、顔を赤くした執事が下を向いていて、ルカには意味が分からずひたすら首をひねるばかりとなった。
「生まれたての赤ちゃんの産毛も集めないといけないんだけど、アンナのお姉さんにお願いしてもいいだろうか」
「あ、失礼しました。そ、そうですね。アンナを通じてお願いしましょう」
その日、ルカは珍しく両親と3人で朝食を摂っていた。アランは休み中だというのに、早朝の委員会があると言って出かけ、スカーレットはコンクールにむけて、バイオリン教室の合宿に出かけていた。
「ルカ、おじい様に会ったら、よろしく伝えてね」
「テイラー伯爵家はうちより格上の貴族だからな。失礼のないようくれぐれも気を付けるんだぞ。おまえがどんな道に進むか分からないが、人脈は広い方がいい」
「はい。分かりました。」
素直な返事に二人は満足そうに頷いていた。ルカが祖父イアンに何を問いただすのか、エミリアはともかく、ダニエルに知る由もないことだった。
ルカは、マンチェスター家の馬車に乗って、数日の予定で出かけて行った。
砂浜沿いを走ると、海風の香りが微かに変わっているのが分かった。季節はこの海側でも、移ろい始めている。岩場の陰に、あの日見かけた人魚が座っていた。どうやらあの辺りをなわばりにしているようだ。ルカはリュックの上から、スズランの朝露と星の砂をぎゅっと握りしめた。
海が見えなくなって、草原を超えたころ、果樹園が目立ち始めてきた。ルカの祖父、イアン・A・テイラーは広い土地に果樹園を作っていた。会社経営に力を入れている父ダニエルと違い、イアンは伯爵でありながら、領民と共に果樹園に出て一緒に作業する人だった。
馬車がテイラー家の館前に到着すると、身なりをきちんと整えた好々爺が満面の笑顔で迎えてくれた。
「ルカ様、ようこそ、お越しくださいました。私はテイラー伯爵家執事のスチュアート・ミゼルと申します。以後、お見知りおきを。」
「よろしくお願いします。」
薄茶の髪にモスグリーンの瞳が柔和な印象のスチュアートにほっとしながら、ルカはぺこりと頭を下げた。
「おお、そのように使用人の私などに、頭をおさげになってはなりません。主から、ルカ様にはすぐに果樹園の方にお連れするようにと、申し付けられております。お越しになって早々で申し訳ございませんが、お付き合いのほど、よろしくお願いします。お荷物はこちらでお部屋までお持ちします。」
「分かりました。」
好々爺然とした姿からは想像もできない素早さで、部下に荷物の指示を出し、スチュアートはルカを振り返ってにっこり微笑んだ。
「さぁ、坊ちゃん。行きましょう」
スチュアートに連れられて館の裏手の山道を登ると、パチ、パチっとリズミカルな音が聞こえてきた。
「旦那様、ルカ様をお連れ致しました。」
「ああ、ご苦労。では、館の方の準備を頼む。」
姿の見えない主に頭を下げると、スチュアートはさっさと元来た道を戻っていった。
「あの、おじい様、初めまして。ルカ・マンチェスターです。しばらくお世話になります」
祖父の姿が見えないまま、懸命に挨拶していると、すぐ頭上からクックックっと声を殺した笑い声が聞こえ、ルカは慌てて上を見上げた。
「ははは。やっと気が付いたか。なぁーにが初めましてだ。ワシはおまえさんのおむつを替えたこともあるんだぞ。」
そう言いながら、身軽に木の枝を渡って地面に降り立った人物は、どう見ても農夫そのものだ。
「驚いたか? ワシがおまえさんの母エミリアの父、イアンだ。よく来たな。ふふ、すっかり大きくなりおって、見違えたぞ。両親や兄姉は息災か?」
「はい、おかげさまで、みんなそれぞれの仕事に従事しております。」
「うむ。では、就業時間の終わりまであと2時間ほどあるんでな。おまえさんにも手伝ってもらおう。おーい、グレン。軍手とハサミと籠を持って来てくれ」
「へーい」
坂の下から声が返ってきた。ルカが戸惑っていると、すぐさまグレンがルカに軍手を渡し、柑橘の木の根元に大きな籠をおくと、すっとハサミを差し出した。
「坊ちゃん、柑橘はすぐに実の根元を切ると傷みやすいんでさ。いったん枝を長めにカットしてから、このように整えてください」
そういいながら、手元にある果実をパチっと切りとると、実の近くでもう一度きれいに切りなおして見せた。有無を言わせず差し出されたハサミに戸惑うルカを笑いながら、イアンは自分の登っていた木の根元にも新たな籠を用意していた。
「ルカ、これからの2時間で、どちらがたくさん収穫できるか競争だ。いいか、この果実は出荷する分だから、丁寧に扱えよ。では、スタートだ!」
「ええー!?」
イアンはまるで子どものように楽し気に言い放つと、さっさと先ほどの木に登って収穫を始めた。
「こらこら、早く動けよ。時間がもったいないぞ」
イアンが煽ると、周りにいた農夫たちも一斉に笑い出した。やっと到着した伯爵家でいきなり農作業をさせられることになったルカは、ぽかんとしていたが、イアンの挑発に火が付いたように木によじ登り始めた。下からグレンが肩掛けのついた小さめのかごを手渡す。
「坊ちゃん。一個ずつ持っていたら時間の無駄になるんで、ここがいっぱいになってから下に下りたら効率的ですぜ。がんばってくだせぃ。俺、まだ一度も伯爵様に勝てないんです。でも、若い坊ちゃんなら、いけるかも。応援してますぜ!」
「ありがとう!よーし!」
ルカは、一日かけてここまでやってきたこともすっかり忘れて、黙々と収穫作業に当たった。手元の籠に果実がこんもり入る頃には、気持ちのいい汗もにじんでくる。果実はキラキラ輝くようなオレンジ色で、微かにベルガモットのような香りが漂っている。
「ふふ。サイモンが見たら、飛び跳ねて喜ぶだろうなぁ」
木の根元に下りて、大きな籠に山盛りになる果実を移していると、思わずそんな言葉が口をついて出た。
「サイモンっていうのは、ルカの友達かい?」
「ええ、本当は僕の親友のジョーの弟なんです。」
ルカは、声を掛けてきたイアンに、簡単にジョーの家庭環境を説明した。
「なんだか、自分の弟のように思えて、可愛い奴なんです」
「そうか、いい仲間がいるんだな。さて、もうすぐ2時間経つが、そろそろ比べっこと行こうか。」
イアンとルカはそれぞれ収穫した籠を農夫に手伝ってもらいながら計測器に運び込んだ。
「伯爵様、52キロ。 ルカ坊ちゃん、52.5キロ。僅差で坊ちゃんの勝ちですね」
途端に回りで固唾をのんで様子をうかがっていた農夫たちが、わーっと歓声を上げた。
「わっはっは。なんと、おまえさん、なかなかやるじゃないか。さすがに若い奴には敵わないか。」
「やったー! ありがとうございます。すごく楽しかったです!」
イアンに頭をわしゃわしゃされながら、ルカは屈託のない笑顔を見せた。周りの農夫たちは、大騒ぎで盛り上がり、さっさと片付けて酒盛りだと楽しんでいた。