第7章 試練 3
一方、自宅に戻ったフィリップは、気が付くとスカーレットの部屋に向かっていた。ドアを開くと、微かに彼女が好きなホワイトローズの残り香がする。どんな時も落ち着いていて、大人びた雰囲気のスカーレットは、憧れの存在だった。コンクールでは、余裕のない自分が悔しくてライバル心を燃やしていたこともあったが、それも今から考えたら、強い憧れの裏返しだったのかもしれない。
そんな彼女と結婚出来て、貴族としては何でもないように振舞ってきたが、本当は、部屋中を飛び回りたいぐらい嬉しかったのだ。目の前の鏡台の上には、きれいなサテンの生地の上に、自分がプレゼントしたイヤリングやネックレスが飾られている。これを受け取った時の、少女のような笑顔を、フィリップは忘れることが出来なかった。
「絶対に、助け出す!絶対に!」
フィリップは、サイドテーブルに置かれたバイオリンのケースをそっと開き、中に収められている飴色の美しいバイオリンを取り出した。
「フィリップ、おまえにはほかにも力が存在するのではないか?」
ふいに、先ほどアリアに問いかけられたことを思い出した。音楽で人の心に影響をあたえられるなんて、確かに音楽家としては何より嬉しいことではあるが。もしも、このバイオリンで、スカーレットの心が少しでも穏やかになるというなら、弾いてみよう。
フィリップは、そっとバイオリンに顎を乗せ、二人で演奏した曲をゆっくりと奏で始めた。この曲は、自分に結婚を決意させた曲。彼女のバイオリンの音色と、自分のバイオリンの音色が絡み合い、混ざり合い、美しく共鳴して、彼女を二度と手放したくないと強く思わされた曲だ。曲を弾き終わる頃には、涙があふれてくる。楽器に水分塩分は禁物だ。フィリップは慌てて彼女のバイオリンをケースに戻して隅に置く。すると、すぐ横に置いてあった日傘が傾き、慌てて拾い上げた。その瞬間、急に何かが頭の中で動き始めた。
「貴方たち、ご存知ないの? 最近魔術師団が編成されて、そこにいらっしゃるコールマン様って、ホントに素敵なのよ。バイオリンは相当な腕なんですって!あら、見て!コールマン様よ!」
周りでは女性たちの騒がしい声が聞こえている。
「あ、フィリップ様。」
スカーレットが夫の姿を一目見ようと立ち上がった瞬間、誰かがその腕をグイっと後ろに引っ張ったのだ。
「どなたです…」
問いかける声は、途中で途切れた。去っていくのは、美しい彼女の青みがかった黒髪の巻き毛をその腕に絡ませながら去っていく大柄な男の後ろ姿だ。
そこではっと我に返ったフィリップは、手を口元に当てて瞠目した。色素の薄い銀髪の後ろ姿は、まぎれもなく自分の知る人物だった。
***
ルカが宿舎に戻ると、カーシンが待っていた。スカーレットが誘拐されたところを見た人物がいるという。二人はすぐさまマンチェスター家の馬車に飛び乗った。
「ルカ様、事情はミゼルさんから伺いました。それで、どうしても気になって調べてみたのです。」
カーシンは馬車が動きだすと、ぽつりぽつりと話し出した。
「ジャミロ・トロイというのが、ロベール家の執事なんですが、どうやらイーダの貴族と関りが深いようです。私もまだ信じられないのですが、イーダという国では頭の中に電波を送ることで、一時的にその人物を意のままに操ることが出来るんだとか。その研究の中心人物がジャミロの伯父だというのです。」
「頭の中に電波?魔法ではなくて? 一体イーダという国はどんな研究をしているのだろう。」
考え込んでいる間に、マンチェスター家に到着した。馬車を降りると、すかさずエミリアが駆け付けた。
「ルカ、スカーレットが!」
「母上、王宮でも皆で手分けして探してもらっています。それより、姉上が連れ去られたところを見たという人は?」
しがみつくようにルカを抱き締めていたエミリアを、そっと体から引きはがして問う。そのまなざしは、いつもの爽やかな水色からは想像できないほど濃い色に染まっていた。
「取り乱してしまって、ごめんなさい。まだ信じられなくて…。今アランたちも来ているの。応接室であなたが来るのを待っているわ。」
無理に笑顔を作ったエミリアを庇うようにしながら、ルカも実家へ入っていった。
「やあ、ルカ。」
「兄上、ご無沙汰しています。あの、姉上が連れ去られるところを見た人というのは?」
アランの後ろで、そっと顔を出した人物がいた。眉を八の字に下げ、申し訳なさそうに手をあげている。
「ジュリアの知り合いが見たそうなんだ。ジュリア、さっきの話をルカにも。」
「ええ。私、あなたもご存知の通り王妃様と同じ名前でしょ? なんとなく嬉しくて、どうしても一目見て見たくて、沿道まで出かけていたの。パレードは華やかだったけど、人が多く見えたのはほんの一瞬だったわ。残念に思いながら帰ろうとしていたら、取引先の女性とばったり会ったの。彼女とは仕事ではかなり長い付き合いの人よ。真面目で嘘をつくようなタイプじゃないわ。そんな彼女が、私の顔を見たとき、慌てたように目を泳がせたの。だから、きっと何か見たんだと思って、お茶に誘ったのよ。」
はぁっと力なくため息をついて、紅茶を一口飲むと、再び語りだす。
「どうしたの?って尋ねたら、ついさっき、あなたの義妹さんが男の人に横抱きされていくのを見たのって、言われて驚いたわ。まさかあのおとなっぽいスカーレットさんが、国王や王妃を眺めに来るとは思えなかったし。でも実際には彼女は連れ去られてしまった。彼女が言うには、色素の薄い背の高い男だったというの。能面のように無表情で、他の人には目もくれず、さっさと連れ去ってしまったっていうのよ。信じられない。どうしていきなり彼女を連れ去ったのか、どうして国王や王妃を見ようともしなかったのか。分からないことだらけだわ」
ジュリアはもう一度、ふうっとため息をついて肩の力を抜くと、ゆっくり紅茶を飲み始めた。
「あー、国王や王妃を見るかどうかは別だけど、無表情で能面みたいだって言うのは気になるな?」
アランのつぶやきに、考え込むルカだった。




