弱冠未満の日々
不吉な塊が常駐して
ぼくの心に真っ赤な花が咲いたのは、今からもう四年半も前のことらしい。盗んだバイクで走り出す度胸もなく、ただまんじりとして不満に頬を膨らませていた少年も、今年で二十歳になるという。漠然と描いた夢に色を与えたひと夏は、つねに動悸に胸を痛めていたような気さえするが、その痛みだってもう思い出せない。眠れぬ深夜に書いた桃源郷の小説も、当時の想いを四畳ワンルームの言葉でつづった日記も、修飾語なしのまっすぐな愛を送り合ったメッセージも、今では電子の海で藻屑となった。ぼくが思い出せるのは小説を書き、日記を書き、メッセージを送り、とにかく言葉に何かしら強い力があると信じ込み、命を削って言葉を吐き出したという事実だけだ。ぼくの脳内に浮かぶ数多の言葉は、あるいは言葉の連なりは、言葉以上の意味を持たない。五年という月日がそれほどに長いのか、もしくは言葉が力を持たぬのか、分からないが、ぼくは今年でティーンを終える。重要なのはそれだけだ。
二〇〇三年、ぼくは生を受けた。よく笑う母と、奔放な父の間に生まれたぼくは幼少から感情を表に出さない子だったと、いつの日か母がぼくに言った。母には二人の娘がいた。ぼくの姉に当たるその人たちはともに天真爛漫で気が強い女だった。彼女らの活発な性質と相対的に、ぼくは緊張しいで気の弱い性質をもっていたため笑わない子として母に映ったのだろう。あくまで姉との比較によってそのように感じられるだけだろう。とぼくは解釈した。母は、よく笑い、よく泣き、時に子供の前で疲れた表情を隠すのも忘れぼんやりと壁に見入るような人だった。背が低く、決して綺麗ではないその人が、ハンサムな父親をどのようにして手にしたのだろう、と子供ながらに考えたこともあった。この問いに答えが与えられたのは、ぼくが小学二年生になってからなのだが。
小学校に入り、ぼくは次第に世間というものに晒されるようになる中で、しばしば家庭内と世間のギャップを感じることがあった。学友との交際では、自分を取り繕う必要もなく、笑いたいときにだけ笑えばよかった。当然のことながら学友とぼくには血縁関係がない。馬が合わなければ会わなければいい。会わなくたって問題は生じないし、そもそも同じ教室で同じ授業を受ける以上のしがらみは存在しないのだから。しかしぼくは、そんな細く脆いつながりに強く焦がれた。絆以上の繋がりを持たない関係が、血の繋がり以上に堅固で明晰なものに思えてならなかった。ぼくは食事の時刻まで友人と遊ぶようになっていった。
そんな折、両親が離婚した。事後報告だった。「これからはお母さんとお姉ちゃんたちと、四人だけで生活しましょうね」と、さも当然のように言った。敬語ではっきりとした口調だった。当時中学生だった長女には相談したのだろうが、離婚することも親権がどうなるのかも、全てが決定するまでぼくには知らされなかった。低学年の児童だったから当然なのだと思った。のちに姉が教えてくれたのだが、父は歓楽街にある居酒屋の店主で、その街で女を作ったそうだ。不倫を擁護するつもりはないが、母はたったそれだけのことで離婚を即断したのだ。ぼくを流れる血は、そんな希薄な関係に基づいて作られた空洞の絆だった。
しばらくが経ち、ぼくは中学校に入った。その頃には養育費が払われていないこと、母に彼氏がいること、大学受験に失敗した姉が自傷に走っていることなど、ぼくを取り巻く環境が世間から微妙に離れていることが分かるようになった。しかしその一つ一つは普通のラインの引力が及ぶ範囲にすぎないことも、ぼくにはわかっていた。話せば長くなるので省略するが、ぼくはその年、初めての彼女の代償に親友を失い、その彼女を失うと、絆を求めて恋愛に依存するようになった。そして三人目の彼女との関係が落ち着くころになって、自分の行いの軽薄さを恥じ、それでいて未だ初めての女を忘れられない自分の愚かさが情けなく、そして何よりも、自分の三年間という月日の行いが自分を流れる血を自覚させ、ぼくはついに死のうとした。結果は失敗だったのだが。常に急かされるように生きて、女に贈ったメッセージ、心臓が早くて眠れず吐き出した言葉の数々が、ぼくのスマートフォンのメモ帳に溜まっていった。平成も終わるという時分に、女に絵を贈ったこともあった。しかしそれらは全て消えてしまった。ぼくの記憶に残っているのは、そういったことをしたという事実のみで、色彩は消え去ったのだ。
高校に入ると、全てが落ち着いていった。呼吸困難になるほどの自殺衝動も、母への恨みも、恋愛への依存心も鳴りを潜めていった。新しい環境に身を置くことで、全てがリセットされたのだと思った。そしてぼくは、ゆとりを持った心で勉学や友人との交際を楽しんでいった。某旧帝大対策模試(通称冠模試)で工学部志望者内一位になったこともあった。その大学は姉が落ちた大学だった。姉は志望大学に落ち、挫折に心を折られながら、それでもとわずかな希望を抱いて入学した私立大学で孤立し、家族との音信すらも絶って自殺に試みた。突如蒸発したと、バイト先から親の元へと電話があり、母は憔悴しきった顔で姉を探しに出かけた。その後様々なことがあって姉は生きている状態で見つかったのだと言うが、ぼくはその詳細を知らない。ぼくは家族に興味がなかった。疲れ切って、それでも安堵に涙を流す母は、姉が見つかるまでの経緯やら、部屋に残されていた遺書の内容やらをぼくに話したそうにしていたが、ぼくはそれを制した。「同じような経験があるから、思い出したくないから、聞きたくない」というと、母は顔を歪めて黙り込んだ。姉の自殺未遂は、ますます家族の血縁が逃れがたいものであることを教えて、ぼくは苦悩に嗚咽した。しかし、こればかりは逃れられるものではなかった。
そして、ぼくは家族から逃げるように実家からうんと遠い大学へと進学した。行きたい大学ではなかったが、この大学の模試もトップテンに入ることがしばしばで、条件が良かった。大学に入ってからは平凡で平穏な日々を送っていた。夏には友人とバーベキューをし、女に誘われて花火大会にいった。その後、彼女ができて、クリスマスは彼女と映画を見た。ありきたりで、充実した日々だった。ぼくは家族のことなどすっかり忘れ、人生で最も幸福な日々を謳歌していた。しかし、二〇二三年に入り、突如ぼくの病みが再発した。元日の夜に、ぼくは眠れず、シングルベッドの上で悶々としていた。そんなとき思い出すのは中学生の日々だった。自殺をクライマックスとして、親友からの失墜、女への依存、ぼくに振られ病んだ少女(彼女はぼくと同じ高校に進学し、しかし病みが癒えることはなく、パニック障害を起こすようになって高校を退学した)、焦燥に走った夜の街並み、夕方まばらに街灯が照り始める道を照らした二つのヘッドライト、汗が蒸発するグラウンド、…などの映像が刹那的に脳裏に浮かんだ。ぼくはそれら苦悩の日々の上に成長したような気がしていた。しかし、実際にはふたをしていただけだった。ぼくは忘れることは出来ないだろう。そして忘れてはいけない。
タバコを覚え、酒を覚え、女を知り、純文学に傾き、アルバイトに明け暮れるこの年にぼくは二十歳になる。それ自体に意味はないが、一度死にかけてから五年が経つことには何かしら重要な意味があるような気がする。気がするだけかもしれないが。ベランダから観音像が見えるこの街で、ぼくは意味のある日々を過ごさなくてはいけない。死ななければならぬといった幻覚がよぎることはなくなったが、それでも喉の奥で、しきりにうごめく塊を無視することはいまだできない。
共鳴する血液