承 Chapter.3
【Chapter.3 コンポン】
ガタガタ、ガタン。
椅子ごと後退ろうとして、出来なくて、変な体勢で立ち上がってしまった。
「おわっ⁈なんや姐さんどないしたん⁈」
「あ、いえ、すみません大丈夫ですごめんなさい」
押されて倒れかけたパイプ椅子を受け止めてくれたミヤビさんが、物凄く怪訝な顔で私を見ている。
……なんで?
いままさに、得体の知れないものからガンつけられたじゃありませんか。しかも二回も。映像の中から、めっちゃこっち見て、背筋の凍るような金切り声で。
ヤバいものが写った映像だから、私に見せたんじゃなかったのか。ミヤビさんには、見えてないし聞こえてないってこと?
わけがわからず、助けを求めるように和田さんの方を向いた。和田さんは、映像を一時停止させるためにデスクに手を伸ばしていて、それでも横目でチラリと、こっちを見たのがわかった。和田さんちで私が勝手にカーテンを開けたときみたいな、でもあのときよりもちょっと複雑そうな、難しい顔をしていた。
「つづき、再生します。座って」
「げ。あ、はい」
まずい。思わず嫌そうな声が出てしまった。でもさすがに仕方なくはないか。皆さんは防犯カメラの映像の中のよくわからないおどろおどろしいモノから、「何見てんだ!」とヤバい声で叫ばれたことはありますか。私はない。有り体に言うと、普通に怖い。
和田さんはチラリの後いっこうにこっちを見ようとしないし、ミヤビさんはミヤビさんで、ヤバいものを見るような目で私の顔を凝視している。違うんですミヤビさん、ヤバいのはこの映像で、私は正常なんです。
いや……どうなんだろ。
一瞬すごくザワザワした気持ちになったが、私が異常なんだと考えると辻褄が合うし、話が早い。そういうことにしよう。
ミヤビさんが位置を戻してくれたパイプ椅子に、ストンと座り直す。思いっきり目をかっ開いて画面に視線を向けたものの、そこにはもう、過去の和田さんしか映っていなかった。あの、得体の知れない「何か」は、いなくなっていた。
気を取り直し「どうぞ?」と声をかけると、和田さんが手を伸ばしているデスクの上から、カチリと小さな音が鳴った。
映像が、再び進み始める。
相変わらず、ジリジリと少しずつドアから距離をとる和田さん。その目が見つめる先で、限界まで開放されたドアが、ゆっくりと動きを止めた。まるで連動してるみたいに、私の呼吸も静かに止まる。息を止めて、食い入るように開いたドアの向こうを見つめる。
ドア枠に、ぬるりと「手」がかかった。
暗い反対側から、こちら側、事務所の中へ。
どす黒い、紫色の片手が。
「…………は?」
文字にするとこんなにもホラーなのに、私の口からは酷く間の抜けた声が出た。理由を明記しよう。
開いたドアから現れた、紫色の手。和田さんの頭ほども大きさがあるその手は、びっしりと生えた紫の毛で覆われていた。恐らく指なんだろう、丸みを帯びた四つの先端からは、黒くて鋭い爪が伸びている。
人間の手じゃない。
何かしかの、獣の前足。
さっきは冗談で、和田さんの行動を「熊に遭遇したみたい」なんて言ったが、本当に熊が事務所にカチコんで来たのか。いやいやうちの地元じゃあるまいしこの大都会でそんな馬鹿なことあるわけ——などと頭の中で高速問答をしているうちに、モニター画面は粛々と変化していく。
前足のあとに続いて、暗がりから獣(?)の本体が姿を現した。ドア枠をギリギリ通れるか通れないかというほどの、むっちりと肥えた肢体。全体的に太いが、下腹部が特に膨れている。ドア枠で詰まった腹をみちみちと押し込んで、紫の巨体が部屋に入ってくる。
ドア枠を抜け切ったところで、勢い余った巨体が前方にあったメタルラックにぶつかり、大きく傾いたラックからダンボールが転げ落ちた。何かのイベント事で使う物なのか、ネコやウサギなどの動物の耳を模したカチューシャや、頭に乗せる王冠?のような物など、ごちゃっとした雑貨類が床に散らばる。画面の中の和田さんが、びくりと肩を揺らし、大きく一歩後退した。
画面外の和田さんには特に変化はないけれど、対照的な反応を見せたのがミヤビさんだった。ヒッ、と短く声を上げたかと思うと、パイプ椅子の上で器用に片脚を折り畳み、上半身を捻って微妙に画面から距離をとる姿勢になった。ついでに、両手で両目を覆い隠すように蓋をしている。のに、両手とも中指と薬指の間を広げて、その隙間からしっかりと画面に目を向けている。
(……見たいのか見たくないのかどっちなんだろ。あとその指なんなんだ。なんか、蹄みたい……ってそんなん言ってる場合じゃないや)
色々とツッコミどころの多い人だな、と変に感心しつつ、視線を画面に戻す。
メタルラックに衝突し体勢を崩していた獣(?)が、ボヨンと反動をつけて起き上がった。全身が明かりの下に晒されたことで、それの正体がようやく確認できた。思わず、声が漏れる。
「は……?これ……たぬき……?」
「はあ?」
「……」
私の言葉に、素っ頓狂な声を出したミヤビさんと、何も言わない和田さん。今の反応で、とりあえず片方には確実にこの「狸」は見えていないことがわかった。私の顔と画面とを行ったり来たりするミヤビさんの視線を感じながら、和田さんに問いかける。
「和田さんは、見えてます?」
「何がですか」
「何って……紫色の、二足歩行の、でっかい狸。メタルラックにぶつかって、今立ち上がった——」
「最後まで見てください」
「あ、ハイ」
この反応は、どっちだ。わからないので、とりあえず言われた通りに再び視線を画面に戻す。事務所の様相にそぐわない、異質なその存在を注視する。
全身を紫色のフワフワ体毛に覆われ、巨大な太短い尻尾がゆらゆらと揺れる。顔にある特徴的な模様と、手足、それに尾の一部の色が、他の部位よりも濃い。アライグマやハクビシンと混同されがちな「狸」という獣の、素人でも見分けやすい特色が見てとれた。うん、やっぱり狸だ。地元にはいっぱいいた。こんなに毒々しくない、いたって普通のやつだけど。
紫の巨大狸は、立ち上がるとそのままゆらゆらと和田さんへ近付いていく。後ろ足だけで歩き、途中にあるラックやらロッカーやらデスクやら、あらゆるものに手を伸ばし、上に乗っている物を床に落としながら。デスクに置いてあった書類の束が、毛むくじゃらの手で弾かれて方々へ広がりながら飛び散る。その様子を指の隙間から覗いていたミヤビさんが、「あああ、あかん、やっぱあかん」とぼそぼそと呟いて更に縮こまった。
事務所の中をめちゃくちゃにしながら、狸が進む。じわじわと追い詰められた和田さんの、背中がトンと壁に当たる。それに気付いた狸の動きも止まった。放心しているみたいに上向き、だらしなく開いた口からは、並んだ牙と垂れた舌が剥き出しになっている。そのまま、両者ともぴくりとも動かない。
見えているものは違うはずなのに、全員が全員息を詰めて、食い入るように画面を見つめる。こめかみを伝った汗が顎の先に溜まり、まるでぶら下がった崖から手を離したみたいに落ちていった、次の瞬間だった。
狸が、跳んだ。
あ、四つ足になった。そう見えたと思ったら、瞬きをする間もなく、弾丸みたいに、本当にあっという間に、狸は跳躍していた。四つ足っぽいポーズは、所謂クラウチングスタートの姿勢だったのだとその時察した。そしてそう察する頃には、紫色の塊は前方の壁に突き刺さっていた。
さっきまで、和田さんが背中をつけていた壁に。
「うえっ⁈」
「あああああああかん‼︎俺はもうあかん!下降りるわ出勤時間やし!ほなな姐さん!トキのことあれやで、なんやようわからんけどよろしくどうぞ‼︎」
私が驚いて声を上げるのと同時に、震える声で叫んだミヤビさんが椅子から立ち上がった。立ち上がったというか、なんというか、バネでもついてるみたいに、バイーンと出口へ飛んでいった。椅子も倒れていないし、大股で四歩はかかりそうな距離を一歩で跳んだ。
……なんて器用なんだ。
引き止める間もなく大声で捲し立てながら去って行ったミヤビさんの挙動には触れずに、和田さんが無言で椅子を引いた。その音に我に帰り、慌てて録画映像に顔を向ける。「押し潰されて血塗れな和田さんが映ってたらどうしよう」なんて、不穏な心配をしながら。
「え?……あれ?」
画面には、もう何も映っていなかった。訂正、動くものは、何も映っていない。人っこ一人いない、静かな事務所の中の映像が映し出されているだけだ。最初のほうと違うのは、強盗が入ったみたいに物が散らばっていること、そして、壁の一部にクレーターみたいなひび割れた凹みがあること。血の跡も、紫の毛の塊も、想像したものは何一つ残っていない。
正直、もう何が何だかわからなかった。
「んーとお……あのお……和田さん?」
そろーっと、パソコンの前に座る渦中の人を仰ぐ。カチカチとマウスを滑らせる音のあと、椅子ごと回転してこちらを向いた和田さんは、ようやく私と向き合ってくれた。
「答え合わせ、しましょうか」
「ええ……じゃあさっきの映像……『最初から誰も居なかった』んですか?」
「そうです。試すようなことしてごめん」
「いやいや、それは全然構わないんだけども——ちょっとびっくりしちゃって。さすがに」
ズズズ、と、湯気の立つあったかいコーヒーを啜る。冷房の効きまくった部屋で冷え切った身体に、温かさが染みていく。事務所にあった電気ケトルで、さっき和田さんが淹れてくれたドリップコーヒーだ。本音を言えば、砂糖と牛乳たっぷりの、めっちゃくちゃに甘いカフェオレが好きなのだが、ここにはどっちも置いてないらしい。ホストという職業の人達は皆ブラック派なのかもしれない。目の前にいる人も、いまブラックで飲んでいる。今度改めて聞いてみよう。
「この映像が撮られた日、俺は休みでした。だからそもそもここに映ってるはずないんです。俺はこの日、この時間、家で寝ていて悪夢を見てて……」
淡々と続けだした和田さんの口から出た、「悪夢」という言葉。口を付けていた使い捨ての紙カップを下ろす。プラスチック製の華奢なカップホルダーを、握り込むように両手で包んだ。
「また、『夢』?」
「そう。この映像とまったく同じ、事務所で何かに襲われる夢」
そこまで言って、和田さんが椅子から立ち上がる。壁際まで歩いていき、でかでかと貼られたポスターの縁に手をかける。美形の男の人がカメラ目線で決めポーズしてる、バストアップのポスター。サイズは、たぶんA0。長らく事務員やってたから分かる。屋内に掲示するには、ちょっとばかり大きいサイズだった。
和田さんがポスターを捲り上げる。その下から現れたのは、さっき映像の中で見たのと同じ、凹んでヒビの入った壁。狸の化け物が衝突した場所で、間違いなかった。なんとなく想像はついていたものの、こうして目の当たりにするとだいぶ不気味で、背筋が震えるのはエアコンのせいだけではなさそうだった。
蜘蛛の巣みたいに走るヒビを睨みつけながら、和田さんが続ける。
「その夢の後から急激に体調を崩して、高熱と倦怠感、吐き気でまともに動けなくなって。ここで何か起きてるなら調べなきゃと思って来てみたら、キャストも内勤も店長も、オーナーまで集まってさっきの映像を見てたんです。それで——」
和田さんの説明によると、こうだ。
フラフラになりながら事務所に辿り着くと、そこでは店の関係者全員が大集合して、「心霊ビデオ」を鑑賞していた。
最初に異変に気付いたのは、着替えのために事務所へやって来て扉を開けた、キャストの一人だったと言う。事務所内が荒らされていることに驚き、すぐに店内にいた店長を連れて戻り、強盗の線で防犯映像を確認したらしい。そこに映っていたポルターガイスト現象の数々に目を疑い、一旦店を閉めて従業員全員へ状況説明を行なっていた。そこへ、明らかに様子のおかしい、休みのはずの和田さんが現れた、という流れだそうだ。そして、映像を見て青褪めた和田さんが自身のロッカーを開けると、中はまるでアイス販売用の冷凍庫の庫内みたいに、分厚い霜と氷に覆われていた。それを見て、全員がこの騒動の中心が彼なのではないかと疑い始めたらしい。
そして、ただ一人ミヤビさんだけが、映像に最初から和田さんが映っていると言い張って聞かなかったらしい。そのことも、和田さんが「何か良くない状況に陥っている」と判断される材料になり、体調不良も鑑みて暫くのお休みをとることなったそうだ。
説明を聞き終わり、深呼吸した私は、一つ気になっていたことを質問してみた。
「他の人たちには、この映像には誰も映ってないように見えてるんですよね?和田さん自身は、どう見えてるんです?」
少しだけ顔を顰めた和田さんは、小さくため息を吐いた。
「別に、何も?」
「えっ?」
「何も見えてませんよ、俺も。ただ、二箇所映像が鮮明に見えない場所というか、モヤモヤしてる場所があるので、それが俺と『狸』なんだろうな、と。夢で見てた景色とも一致するので」
そこまで言うと、和田さんは体勢を変えて、少し身を乗り出した。
「神坂さんには、何が見えたんですか」
「ん?私は——さっき言った通り、狸です。順を追って話した方がいいかな……」
そこから私は、私の目で見たものをすべて和田さんに伝えた。映像が始まったとき、部屋には和田さんが一人で居たこと。そして、紫色の巨大な狸の化け物が侵入してきて、部屋を荒らし、和田さんに飛び掛かり壁に衝突したこと。その瞬間、和田さんも狸も跡形もなく消えてしまったこと。
その間、片手で口元を覆い考え込むような素振りを見せていた和田さんは「やっぱりそっちなのか」とかなんとか呟いていた。どこか、納得したような表情で。
しかし、最後に私が「もうひとりの登場人物」の話を始めると、途端に雰囲気が一変した。映像の最初からずっと画面の真ん中にいて、はっきりとこちらを見つめ、明確に私へ向けて声を発してきた、あの存在。狸が現れるより前に消えてしまった、禍々しいもの。
「私が椅子倒しかけたときあるじゃないですか。あれ、なんかめちゃくちゃ怖い声で『なに見てんだ』って叫ばれたからなんです。でもあの後、画面見たらもういなかったんです。映像が始まった瞬間からずっと、私の方ガン見してて、けど画面の中の和田さんは気付いてないみたいだったし……アレ何なんですかね」
「わかりません。俺の夢にもそんなのはいなかったし……いったん、今回のこととは切り離して考えた方がいいかも」
「そう、ですか……やっぱそうですか」
「やっぱ、とは?」
「ああ、いや……あのデスボイス幽霊?だけちょっと毛色が違ったから、たぶん和田さんの件とは関係ないんじゃないかなって思ってて。あ、毛色って言ってもあれですよ、狸とか狐とかはともかくデスボのやつには毛は生えてなくて——」
「わかってます。異質だったって言いたいんでしょ——ちょっと待って、狐ってなに?」
「あ」
そうだ、言ってなかった。
この街を歩いてすぐに感じた、とある違和感。質問しようとした矢先にミヤビさんが現れて、そのまま聞かずじまいだった。今となっては、先に言っておくべきだったかもと、少しの罪悪感が湧く。居住まいを正し、飲み干したカップをデスクの上に置いた。
「実は、ここに来る途中に——いっぱいいたんです。紫の狸と、ピンクの狐」
自分で言っていて、いやそこは赤と緑じゃないのかと脳内でツッコんでしまった。ちょうど昨日のお昼ご飯が緑の方だったのだ。
和田さんは、わかりやすく顔を顰めた。
「……ふざけてる?わけじゃなさそうだけど、なんで教えてくれなかったんですか」
「ごめんなさい!うちの田舎にどっちもいるんだけど、あのー、そっちのは普通に茶色いんだけど、もしかしてもしかしたら都会の狐狸は派手な色してるのかもとか思ったものでして。やっぱり今回の件と関係ある感じですよね」
「大有りですね。今ので確信しました。巨大狸の正体は、俺の同僚の誰かです」
「えっ?」
突然核心に触れた和田さんの言葉に、目を瞬く。いま彼は、同僚、と言った。
「俺は元々、悪夢の本体は『どちらか』だと思ってたんです。俺の客か、同僚。たぶん神坂さんが見た、紫の狸はこの街で働く夜職の男、ピンクの狐はその客です」
「ほえー、なんでわかるんですか、凄い」
「質問なんですが、神坂さん——狸と狐ってどっちが男性っぽいと思いますか?」
「男性っぽい?んー、普通に狸」
「でしょうね。そういうことです」
「スミマセンどういうことでしょうか一ミリもわかりません」
「神坂さんがもし逆に狐が男性と思うなら、映像の巨大狸は女性、つまり客です。いまこれ以上の解説はできません。これ以上は聞かないでください、ごめん」
「え、ああハイ、わかりました」
わかりました、なわけない。ぶっちゃけ気になりすぎる。ただ、敵の正体とやらがはっきりしたからか、虚ろだった和田さんの目に生気が戻ったのがわかった。パソコンをトップ画面に戻し、テキパキとカップを片付け始めた背中を見つめ、そうだよな早く解決したいよな、と心中察するに余りある。今朝、めちゃくちゃ具合悪そうだったし。
だから、詳しいことを聞くのはこの件が全て片付いて、落ち着いてまたコーヒーを飲めるようになってからにしよう、そう決めた。
ショルダーバッグを開けて花子の様子を確認している和田さんへ向けて、うーんと身体の筋を伸ばしながら声をかける。
「それにしても、なんかダジャレみたいで面白いですよね。面白がることじゃないかもですけど」
「……なにがです?」
「だって、狸と狐ですよ?ほら、和田さん最初、『根本』を叩くーとかなんとか言ってたじゃないですか。根本ですよ、こんぽん。コンとポン」
「……」
「完っ全にキツネとタヌキ。知らずに言ってたんだろうけど、和田さんそっちのセンスありますよ、絶対」
「笑いのセンスってこと?」
「いや、違くて、なんかそういう、勘?みたいな?シックスセンス?的な?」
「……っふ」
あ、笑った。
あんまり向いてそうには見えないけどどうしてこの仕事をしてるのかとか、どうして同僚からここまで恨まれる事態になってるのかとか、気になることは山ほどある。現状、その同僚が誰で、どうやって問題を解決するつもりなのかもわからない。
けれど、なんとかなるんだろうな、と漠然と思えるくらいには、和田さんは回復してるように見える。自分に何ができるのかわからないけど、見届けよう。そう、思った。