(49) 心構え 前編
夢を見た。
内容は覚えていないが、間違いなく悪夢だ。
目覚めたとき、わたしは全身を包む不快感に顔をしかめた。寝汗をぐっしょりと掻いていて、服が身体に張り付いている。開いた瞼の向こうに見えた天井は、棋士宿舎のものではなく東棟のサーシャの部屋のものだった。
「サーシャ様、大丈夫ですか?」
もぞりと身体を動かすと聞こえたのはシーナの声ではなくドリーの声音だ。わたしは掠れる声で「ええ」と返事をした。
気分は最悪だったが、身体になにかあったわけではないことはわたし自身が一番よく理解している。
起き上がると、ドリーは心得たというように濡れたふきんと着替えを持ってきた。わたしは汗ばむ身体を拭いて、服を着替える。
窓の外はまだ暗かった。時計をみるとまもなく夕七の大鐘だ。夜明けまで大鐘一つとちょっとと言うことになる。
「サーシャ様、ジルウォード様がおいでです」
早朝と言うには早すぎる時間にもかかわらず、お兄さまがわたしを訪ねてきた。
起きて待っていたのかどうかは定かではないが、なにを話しに来たのかは予想がついた。
わたしは肩を落として応接間へと足を向ける。
「サーシャ、気分は?」
「……大丈夫です。あの、お兄さま……ごめんなさい」
わたしが謝るとジルウォードお兄さまはすこし驚いた様子で目を見開いた。すぐに顔つきは平静ないつものお兄さまに戻る。
「なぜ謝る?」
「仕事の途中で倒れました……その、怪我もしてないのに……わたし……」
「サーシャ、座りなさい。落ち着いて話をしよう」
わたしは自分の小さな両手を見下ろした。ぶるぶると震える手のひらをみてお兄さまはなにを思ったのか、口調を和らげわたしに座るように促した。言われたとおりとぼとぼとソファに腰を落とすと、お兄さまも隣にやってくる。この小さな身体になってお兄さまと対面ではなく並んで座ったのは初めてだったのでなんとなく不思議な心地になった。
「正直な話をするが、今回城内に賊を招き入れたのは俺だ」
「え!?」
わたしは驚いてお兄さまを穴が悪ほど見つめてしまった。
「むろん父上も了承のことだし、フレアジルも知っている」
「どういうことです!? なぜ!?」
「大きな目的は二つ……一つはおまえに人を殺させるためだ」
「なっ……!」
お兄さまの言葉にわたしは呼吸が止まるかと思った。
わたしに人を殺させる?
「理由は話すまでもないと思うが、騎士なら職務上そうしなければならないことが多々あるからだ」
「……そう、ですね」
驚き、一瞬沸騰しそうになったわたしはお兄さまの言葉で落ち着きを取り戻した。
お兄さまの言うとおり、騎士であれば職務上人を殺さなければならないことは当然ある。今日のように犯罪者を討ち、あるいは戦で敵兵を討つ。
それなのに私は自分が人を殺した事実に動揺して倒れてしまったのだ。
「申し訳ありません」
「いや、気にするな……正直倒れるかもしれないとは考えていた」
「そうなのですか?」
「ああ。おまえは倒れた自分を情けないと思っているだろうが、新兵であればままあることだ。倒れるまでは行かずとも初めて人を殺せば具合を悪くするものは少なくない。平然と人殺しを楽しめたらそちらの方が問題だ」
「それはそうですわね」
最後の言葉を顔をしかめて告げるお兄さまにわたしは少しだけ肩の力を抜いて同意した。
「おまえが殺した人間は正真正銘の犯罪者だ。強盗殺人で捕まっていた者たちにわざとジルサンドラの墓の情報を与えて牢屋から逃がした。鱗鳥を与えたのも俺の手のものだ。おまえが殺したものたちはどちらにしろ遠からぬ未来に処刑になるはずのものだった」
「……その話を聞いて、少し安堵いたしました」
「まあ仮にそうじゃなかったとしても領主一族の墓を荒らすなど極刑ものだがな……とにかく殺してもよい人間を用意しておまえに殺させるというのが、今夜の俺の計画だったわけだ」
「どうしてそんなことをなさるのですか? 騎士であれば、いずれいやでもそうするときがくるのでしょう?」
「それはそうだが、おまえがその時を迎えるのが本番になってしまうのはよくないからな。事前に心構えをさせておく必要がある」
「本番?」
お兄さまの言葉にわたしは首をかしげた。
「なぜ父上が大急ぎでおまえを騎士にしようとしているか少しくらい疑問に思ったことがあるんじゃないか?」
「……あります」
「それでいい。父上たちは、春の<大降勢>で帝国軍が責めてくるのではないかと考えている」
「え」
わたしは硬直してしまった。
ぱちぱちと暖炉で薪が爆ぜる音が響いている。薄暗い夜の部屋の中、お兄さまの横顔が橙に染まっている。
「帝国軍が攻めてくる?」
「ジルクルスも言っていただろう?」
「は、はい……でも、それは……王都とルシエルが揉めたら、ではないのですか?」
「既に揉めているんだ。そこも説明が必要か?」
「……いえ」
確かにその通りだった。
わたしが事実上処刑されてしまったことでルシエル領内の人間は王家に対して反発している者たちが少なくはない。
当然王都の方はルシエル領に言い感情をいだしていないだろう。揉め事は既に起こっているのである。
「帝国は恐らく<大降勢>にあわせて国境に軍を集めて侵攻してくる。既にそういう動きが見え始めている」
「で、でも……<大降勢>は帝国だってありますよね? 土の聖山は帝国領とも接していますもの」
「それはそうだが規模が違うんだ。同じ山でも北面と南面では雪の積もり方がまったく違う。偏北風の影響があって北東は積雪量がこちらの何倍も多い影響で雪解けが遅い。冬が長く春が短いんだ。だから同じ<大降勢>でも北東部の帝国と南部に位置するルシエルでは規模が違う。ルシエルの方が<大降勢>の影響は甚大なのだ」
「それは存じ上げませんでした」
「事情に詳しくないものは<大降勢>をひとくくりにしがちだからな。地域差があるのだ。おまえは他領に嫁ぐ身の上だったからあまり領の詳しい事情を話してはいなかった。知られたくないこともあるからな。領地の砦の数などは基本女のは教えられないのだ」
「そうだったのですね」
わたしは納得して頷いた。
何処に何の目的で砦があるかは軍事機密に繋がってくる。カラント王国の長い歴史を見れば王都を含め領地同士が争うことは決してないとは言えない。だから他家に嫁ぐ娘には城の秘密の隠し通路の数など、恐らくわたしには教えられていないことが他にもあるのだろう。
「でも……信じられません。帝国が春に攻めてくるなんて……そんなに早く?」
ジルクルスの話から、帝国がカラント王国に混乱をもたらそうとしているかもしれないとは思っていた。
だけど進軍というのはもっと先の話だと思っていたのだ。まさか数ヶ月後など想像していなかった。
「帝国が春の<天下り>に合わせてルシエルに軍勢を送り込んでくるのは実は毎回のことでな。斥候くらいは実は毎年見つかって、国境では小競り合いになっている。そして過去百年の例を見ても<大降勢>はいつもよりも規模の大きい戦闘になりがちだ。加えて帝国領内は今情勢が比較的安定で、逆にこちらは不安定だ。大規模な軍事作戦が起きる可能性は高まっていると言えるだろう。今年が<大降勢>になるならそのまま侵攻があると思っていた方がいい」
「そんな……」
「一番いいタイミングは去年だったが、<大降勢>に至らなかったためこちらは余剰の軍事力があった。だが今年はそうも行かないだろう」
「王国から援軍が来るんですよね?」
「来はするが、情勢が情勢だ。大群は期待できないし来ても連携が取れないだろう。あまり当てには出来ない……むしろルシエルが防衛に失敗して、更に没落することを期待する国内勢力もいるだろう。父上が大急ぎでおまえを騎士にした理由がわかったか?」
「はい……思ったよりも我が領は追い詰められているのですね。わたしの力が必要だと」
「そうだ。だが、なんの覚悟もないおまえに本番は無理だろう。そう思って事前に予行練習をさせることにしたのだ」
お父さまがわたしに騎士になるよう命じたのは王太子の婚約者として正しい振る舞いが取れなかったわたしに対する罰であり、汚名返上の機会だ。これは間違いではないのだろうけれど、それにしても大急ぎで騎士にしようとしているという印象は拭えなかった。
その理由が今回はっきりした。わたしの想像以上に帝国の脅威はすぐ目の前まで迫っているのだ。




