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幕間 アイヴィード/幼少時代



 幼いころの記憶を辿ると、いつも馬草の匂いがした。

 アイヴィードは大きな屋敷の隅、馬小屋のすぐ横にある小さな小屋で母と祖父と共に暮らしていた。

 祖父は屋敷の主人の馬を世話する馬丁で、母は元々は屋敷のメイドだったらしい。

 とはいえアイヴィードが物心着く頃、母は既に屋敷への出入りを全面的に禁じられていた。

 祖父と母との三人暮らしは悪くはないものだったが、アイヴィードは出来るなら早く成人してここを出て行きたいと考えていた。


「誰の温情で屋敷に置いてやってるか、忘れるな」


 脳裏に冷たく繰り返される兄の言葉があった。

 兄と言っても、母よりずいぶん年上の男だった。アイヴィードより年上の子どもたちもいる。


 ようするにアイヴィードは屋敷の先代主人のご落胤というやつだった。

 なにを思ったのか父は娘よりも年下の母に手を付け、そして認めがたいことに息子が一人出来てしまったのだ。

 もう孫もいる年になってからのことだったので、父もアイヴィードが生まれたときはとても驚いたらしい。


 おぼろげながら父親には可愛がられた記憶がある。

 年を経て生まれた子どもだからか、兄の子どもたちといっしょによく遊んで貰った。


 父が生きていたころはアイヴィードも本邸に出入りしてそれなりに豊かな生活を送っていたが、七つを前に父が死ぬと兄はアイヴィードと母を冷遇した。

 親子は馬小屋に押し込められ、本邸への出入りを禁じられたのだ。

 父の正妻はとっくに亡くなっていたが、ずいぶん年下の女と晩年に子どもをもうけたというのは十分醜聞と言える。家督を継いだ兄がアイヴィードに冷たく当たるのはおかしな話ではなかった。


 父が死んで一年ほど経ってからのことだった。

 アイヴィードが祖父を手伝って馬草を運んでいると急に屋敷が騒がしくなった。

 馬小屋に慌ただしく人が飛び込んできては出ていくを繰り返す。


「祖父さま、どうかしたの?」


 尋ねたアイヴィードに祖父は厳しい顔つきをしていた。


「どうも避暑に行っておられたアビゲイルさまとユリシスさまが川に流されたらしい」

「まぁ!」


 母が顔を青ざめさせ、口元に手を当てる。

 アイヴィードも愕然と祖父を見上げた。

 兄の二人の子どもたち、長女のアビゲイルと長男のユリシスが川で溺れたというのだ。屋敷は上から下への大騒ぎだった。


「ユリシスさまは自力で川岸に上がられたらしい」

「アビゲイルさまはまだ行方がわからないと……」

「流されてずいぶん経つ……お嬢さまは助からないだろうな……」

「しっ! 奥様に聞かれたらどうする」


 色んな言葉が屋敷内を飛び交った数時間後、ユリシスが別荘地から屋敷に戻ってきた。

 生気のない顔をした少年の手には姉が履いていた靴が握られていた。

 流された場所のもっと下流、滝壺から上がってきたものだったらしい。


 結局見つかったのはそれだけで、アビゲイルはそのまま帰らぬ人になった。


 兄は娘の生存を諦めて葬儀を開こうとした。

 しかし兄の妻は可愛がっていた娘の死で頭がおかしくなったらしい。

 葬儀の準備に取りかかると烈火のごとく怒り狂って大暴れしだ。


「あの子は生きてる! 生きてるのよ!」


 甲高い叫び声はアイヴィードが屋敷の庭で庭師を手伝っていたときも聞こえてきたくらいだった。

 使用人たちはみんな「おいたわしい」と奥方に同情し、アイヴィードも大方それに賛同だった。


 あの日までは――


「アビゲイル、アビー! やっぱり生きていたのね!」


 アビゲイル亡くなってまもなく一年が経とうかという夏の盛りの日だった。

 アイヴィードはいつものように祖父が馬草を運ぶのを手伝っていた。

 女性の声がして振り返ると、乗馬用のドレスを着た兄の妻がアイヴィードの方に駆け寄ってきていた。


「は?」

「ああ、アビー! よかったわ、こんなところにいたのね……さぁ、帰りましょう」

「ちょ、奥さま……いたいです!」


 アイヴィードはなにが起こったのかわからず、強引にアイヴィードの手を掴んで歩き始めた奥方に目を白黒させた。

 たおやかな女性とは思えない強い力だった。


「ちょっと、アニー……その子は」


 奥方とよく似た格好をした貴婦人がアイヴィードを見て顔を引きつらせた。

 あとで聞いた話だが、彼女は奥方の友人だったらしい。娘が亡くなって以来篭もりがちになった友を案じて遠出に誘ったのだ。

 奥方は遠乗りのために馬房に近づき、そこにたまたまアイヴィードがいたわけだ。


 麦色の肌に白銀の髪、当時八つのアイヴィードは二つ年上の姪アビゲイルに見た目だけならそっくりだった。


 誰がちがうと言っても、奥方は納得しなかった。

 アイヴィードをアビゲイルと呼び、本邸のアビゲイルの部屋に閉じ込めた。

 そのうち誰もが奥方の説得を諦め話を合わせることにした。


 つまりアイヴィードをアビゲイルに仕立て上げてしまったのだ。

 アイヴィードの意思を無視して。


「誰の温情で屋敷に置いてやってるか忘れるな。おまえの母もおまえの祖父も、私が本気を出せばすぐに屋敷からつまみ出せるのだ。そうすれば路頭に迷って二人とも死ぬだろう」


 既に八歳、いくら子どもらしく中性的な見た目をしていてもアヴィードには自我がある。

 女の格好をさせられアビゲイルとしての振る舞いを強要され、祖父や母とも引き離される。そんな生活への不満と反発を口にするアイヴィードに兄はことあるごとにそう告げた。

 アイヴィードは母と祖父のためにアビゲイルとしての生活を受け入れざるを得なかった。


 アビゲイルとして過ごすうちに一年が過ぎ、二年が過ぎた。

 時間が経つうちにいつの間にか死んだのはアビゲイルではなく先代の隠し子アイヴィードの方だったと言うことになっていた。


 アビゲイルとしての生活の中で唯一心安らぐときがあったとすれば、一つ年上の甥――アビゲイルとしては一つ年下の弟――ユリシスと剣の稽古をしていたときだろう。

 生家のエペヴァール家は王家に仕える騎士の家系で、女であっても王女や王妃の護衛に付くことを目的としてある程度鍛えるのが家門の方式だった。だからアイヴィードもアビゲイルとして武術の稽古と付けさせられていた。

 とはいえ本当は男のアイヴィードを王女や王妃の侍女にするわけには行かないだろう。

 こんなこといつまで続けるのか。

 ため息を吐き出した四年目の夏、アイヴィードはとある少女と出会った。


「初めまして、ジルサンドラ・ルシエルともうします」


 膝丈の短いドレスの裾を摘まんで軽く腰を落としたのは八歳の少女だった。

 濃紫の艶のある髪は緩やかに波打っている。真っ直ぐこちらを見返す瞳の色は――夜空のような菫青(きんせい)だ。

 子どもなのに、薄い桜色ではないことにまず驚いた。

 兄が少女を見て機嫌のいい愛想笑いを浮かべている。


「ようこそ、当家にいらっしゃいました。ジルサンドラさま」

「サンドラ、エペヴァール家にはすごく綺麗な白馬がいるんだよ。こっちだ」


 そういって少女の手を引いているのはこの国の第一王子エディアルドだった。

 エペヴェール家ではユリシスがエディアルドの側付きとして度々城に上がっていた。アビゲイルとしてアイヴィードも何度か王子に会ったことがあった。

 ユリシスが慣れた動きでエディアルドに付いていき。


「エディアルド様、お二人では危ないです」

「わたし、お馬さんは大好きなのよ。ルシエルの馬よりきれいなの?」


 宝石の瞳を好奇心に輝かせ、ジルサンドラはそういった。

 ユリシスが一瞬言葉に詰まる。

 アイヴィードはただ呆然と彼女の美しい瞳を、人形めいた容貌を眺めていた。


「どうでしょう。ですが負けぬほど立派な馬だとは思います……姉上、手伝ってください」

「……ええ、わかったわ」


 ユリシスに声を掛けられ、ぼんやり突っ立っていたアイヴィードは慌てて返事をした。

 それが王太子の婚約者ジルサンドラとアイヴィードが初めて出会ったときの出来事だった。

 その年の夏、アイヴィードはアビゲイルとして何度も彼女と顔を合わせた。

 エペヴァールの馬を気に入った彼女が頻繁に王都郊外の屋敷を訪れたからだ。

 身近に接したジルサンドラは溌剌とした明るい女の子だった。王太子の婚約者だとか精霊眼だとか、そう言ったことは一切感じさせない、ふつうの。


「じゃあね、アビー。また来年会いましょう! オパールも元気でね」


 夏の終わり、彼女はそう手を振って王都をあとにした。

 彼女との夏の思い出は、アビゲイルとして過ごす辛い日々の中の数少ない楽しい記憶となった。


 アイヴィードがジルサンドラと上手く交流できたことに奥方は大喜びだった。


「あなた、アビゲイルをジルサンドラ様の侍女にするよう、国王陛下にお願いしましょう。ジルサンドラ様も喜ばれるはずよ!」

「ん、ああ……まぁ、おいおいな……」


 兄は言葉に詰まって妻を見つめ、それからちらりとアイヴィードを見やった。

 その苦々しさが詰め込まれた瞳に、アイヴィードは刻限が近づいてきていることを悟った。


 その年の秋、アイヴィードは祖父が亡くなったのを見届けて実母と共に屋敷を逃げ出した。

 母が結婚した相手がルシエル領の材木商人だったのは不思議な縁だった。



   ***



 アイヴィードは瞼を開けた。

 久々に昔の夢を見てアイヴィードは大きくため息を吐き出す。

 窓の外はまだ真っ暗だったが、時計を見やれば一番鐘はもう目前だ。起床時間である。

 アイヴィードは身支度のために身を起こすことにした。


「おはよう、アイヴィード」

「おはようございます。サーシャ様」


 すっかり身支度を調えたアイヴィードは居間を挟んで自分が寝起きしている部屋とは反対側の扉から顔を出した主人に笑みを浮かべた。

 領主の姪である騎士見習いのサーシャは小冬月の生まれであるらしく、つい最近十一歳になった。

 しかし身体が小さいためにもう少し年下に見える。

 ちょうどあの時始めてあったような少女のような――。


「やっぱり朝はもう冷えるわね」

「そうですね。今日は風も強いようです」

「うう……やだやだ……」


 サーシャはそう言って両肘をさする。

 濃藍色の髪にバターミルクのような肌、眼鏡を掛けた空色を瞳を覗けば、サーシャは幼少のジルサンドラにそっくりだと思う。

 三つ編みにした二つのおさげを解くとなおのことよく似るのではないかと思うのだが、表だっては口にしない。


 ジルサンドラは聖女の襲撃犯として、国王の裁定によって自死した娘だ。


 アイヴィードが彼女とともに過ごしたのは一夏の出来事だ。

 しかし未だに話を聞いても信じられない。

 あの少女が嫉妬に駆られて人を一人殺そうとしたのは本当なのだろうか?

 あの野原を白馬で駆けることが好きだった幼い女の子が?


 むろんアイヴィードの記憶のそれが大昔の出来事で、十六歳のジルサンドラがどのような少女だったのかはわからないからないとは言いきれない。

 それでも……。


「今日も頑張りましょうね、アイヴィード、シーナ」

「はい」


 主人の呼びかけにうなずきながら、アイヴィードはサーシャの小さな頭を見下ろしたのだった。




二章スタートです。今回はプロローグに相当する幕間のお話です。

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