クロマニヨンの魔術
私の目の前で様々な色の混じった何かが蠢いている。
それは例えば、誰かがいくつかの色の糸を手の平で捏ね繰り回した結果として、出来上がった塊であるとか、あるいは誰かのポケットの中で無造作に掻き混ぜられ、複雑に絡まり合ったカラフルなケーブルの集合体のような物だった。ようするに過程から結果は想像できても、結果から過程は想像できない、そんなような代物だった。
画用紙に描かれた私の親指ほどの二次元の「それ」は、机の上に広がっている肌触りのよい紙の上でのたうち回っていたが、やがて動きを止めた。死んでしまったのかと思い凝視をすると、まだ僅かばかりにだが動いていた。そのことには胸を撫で下ろしたが、次に何をするのかといった興味はあった。
「それ」は楕円形から形を変えて、球形になった。影が着き、平面だったそれが三次元の世界に足を踏み入れたことを認識する。真球とは程遠いかもしれないが、球の「それ」から突起が幾つも伸びては縮みを繰り返し始めた。やがて「それ」は選択を終えたのだろう、四つの突起を伸ばすと同時に、また楕円形に形を変え始めた。細く長く伸びた突起は下方向に二本、左右対称に二本ずつ伸び「それ」は生えたばかりの腕と脚を使って上手に立ち上がった。
何とも形容のし難い「それ」はきょろきょろと周りを見回す。頭などは当然として、そもそも感覚機能が備わっていることすら判然としない「それ」は、自分の置かれている環境を理解したのか、その小さな足で偉大なる一歩を踏み出し、画用紙の上に置かれた色鉛筆のケースに手をかけて上った。
色鉛筆は仕事に就くにあたって支給されたものだった。果たして何色あるのか、暖色系を数えるだけで目の奥に痛みを感じるほどで、細かい色分けのされた色鉛筆の選択は生まれたばかりの「それ」も迷う程らしく、私はやはり多すぎる緑系の色鉛筆を取っては「それ」に渡した。「それ」は自身の何倍も長い色鉛筆を肩で、というには可笑しいかもしれないが、抱えると再び画用紙に戻った。
「それ」は全身で、抱えるように色鉛筆を走らせる。画用紙に鮮やかな薄緑色が乗っかる。驚くことに「それ」は、すでに鉛筆の圧力の掛け方を知っていて、同じ色であるにも関わらず薄緑色にも陰影の差があった。魔法のような「それ」の妙技に嫉妬もせずに見惚れていると、「それ」はふうふうと肩を揺らしながら雑草を描いた。一度書き上げると次からは慣れたのか、作業速度が速くなった。
「それ」は手を止め、色鉛筆を捨てる。勢いの着いた色鉛筆はころころと転がり、私が拾いあげる。私が視線を戻した時には、すでに「それ」は別の色鉛筆の吟味を始めており、ほとんど白と変わらない灰色の色鉛筆を抱えて、また画用紙の上を駆けた。「それ」は砂利や小石を描き、画用紙は雑草が方々に生え散らかった空き地になって、私は足裏に石の固い感触を感じながら、空き地に漂う空気を感じ、草木の匂いを肺に蓄える。ひと時の外の空気を感じていた私は視線を感じ、空を見上げた。
巨大な男性の顔があった。やや老齢の男性の白いものの混じった口髭は魅力的だった。小さな私など吹けば飛ぶか、あるいは一飲みできそうだ。
「あまり、夢中にならないように」
私の目の前には空き地ではなく机と画用紙、それから描かれた空き地で駆け回っている「それ」がいる。振り返ると老人は私の座る椅子に手を置いた。
「上手にできましたね」
老人は頬を持ち上げ、濃い黄色かあるいは、薄い橙色とも呼べる色鉛筆と純粋な黒を差し出す。「囲ってみなさい」
画用紙に交互に縞模様の入った壁を描く。黄色と黒のフェンスは空き地を囲い、色鉛筆を返すと老人はケースに戻した。画用紙に視線を戻すと、不思議なことに三次元に存在するはずの「それ」は二次元で描かれたフェンスに、空き地が囲われた途端に大人しくなった。近づくものの、乗り越えようとはしない。
なるほどと私は独りごちた。これが繰り返されて私は今ここにいるのだなと実感した。果たして「それ」が人の形に変わるまで、どれほどの年月がかかるのか私には想像も尽きないが、きっと何時か、画用紙が埋まるほどの世界を築き上げることが出来るようになるはずだ。
「お昼は頂きましたか」
老人の問いかけに私のお腹が答える。ふふふっと老人は笑う。椅子から立ち上がり部屋の扉を押すと、駅の改札口に出る。人間はおろか生命の姿も気配も無い。ただ、無機質な無人の駅構内が目の前に広がっている。
「夢中になり過ぎないようにと」
問いかけると老人は瞼を閉じ、頷いた。「そうです。絵を描く作業は大変に楽しいことではあります。ではあるものの、夢中になってしまい、取り返しのつかない事態にまで発展してしまうこともあります。あなたの前任者はあれらをあまりにも多く生み出してしまい、命を落としてしまいました」
潮騒を聞きながら階段を降り、ホームの売店に立ち寄る。中に店員はいない。だから、勝手に商品を取る。私はアンパンと牛乳を取り、老人はバナナの一房を両手で抱えるように取った。近くのベンチに腰掛け、袋を開けアンパンをほおばる。粒の餡子の食感と甘みを楽しむ。牛乳を口に含ませるとまだ口の中に残っていた、砂糖まみれのアンパンに冷たく染み込み、私の顔は綻ぶ。
「一つどうぞ」
バナナをほおばる老人から差し出された一つを受け取り、皮を捲って口に入れた。わずかな粘度と独徳な甘みが残る口内に牛乳を含む。老人はもう一個剥き、今度はそれを両手で勢いよく叩くように挟んだ。老人が両手を離した瞬間に、私の目に潰れたバナナが映ることは無く、開いた老人の手の平の上には濃い黄色の液体が満ちたグラスがあった。
「少し貰っても」
老人は私の牛乳を見る。断る理由は無い。瓶ごと受け取った老人は瓶からグラスへと牛乳を移した。出来上がったバナナ牛乳を前にして老人の目が輝く。ゆっくりと口に着けたかと思うと、喉仏が波を打つほどにバナナ牛乳が流れていく。
「知っていますか。この種のバナナはすべてクローンなのです。品種改良を重ねた末に完成したバナナを別の種に接ぎ木することで増やしているのです」
「そうですか」
「私はどうしてもこのバナナに親近感を覚えてしまうのです」
「だから、好んで食べるのですか」
「ええ、人は人を食べませんが魚は魚を食べますから」
昼食を食べ終えて、私たちはホームから改札口へと続く階段を上る。その途中、背中から物悲しげな懇願にも似た声が駅構内に轟き、私たちは足を止める。振り返れば遥か遠くから電車ほどの塊が迫っていた。
鯨が線路上を優雅に泳いでいた。見えない波に乗りながら鯨は数珠繋ぎに何匹も連なり、途切れることはない。しばらくの間を見届けてから私たちは階段を上り、そこでスーツを着たステラーカイギュウと会った。彼は重そうな体をせっせと引きずって彼専用の改札口を通る。
「よお」
私たちを見つけ、彼は笑顔になる。「面接であって以来だな。どうだ、あんた、仕事には慣れたか」
老人は私を見てほほ笑む。私は曖昧に首を傾げ返す。「それなりには」
私の何とも言い難い態度に、彼は鰭を腹に当てて笑う。「そりゃあ、そうだな。一週間やそこらで分かるはずもないか」
「今日はもう終わりですか」老人が訊ねる。
「ええ、そうですよ」ステラーカイギュウは腹を揺らして笑う。「今日はこの後、同郷の友人と食事に行く約束をしていまして」
「そうですか、良かった。友人は大切になさってください」
ステラーカイギュウは前傾姿勢になる。彼が会釈をしているのだと気付くのに数秒かかり、恥ずかしくなったが老人と共に頭を下げた。彼はあっという間に階段を滑り落ちて姿を消す。丈夫なスーツを持っているのだなと呑気にも思う。彼の通った後には這いずりの痕跡があり、どこからか小さな虫がやってきては痕跡に群がり始めた。彼らにとっての食事なのだろうか。
「私たちも行きましょう」
老人と共に改札を抜け、部屋の扉を開ける。部屋の中は先ほど出た時と変わっていなかった。机の上の画用紙では生まれてから幾ばくかの時を経た、「それ」が背中を丸めて静かに膨らんではしぼむこと繰り返している。
眠っているのだと老人が教えてくれた。「もう一人、作りましょう。それ以上の作業は明日ということで」老人は静かに笑う。
席に着き、再び様々な色鉛筆で新しく「それ」を描く。最後の仕上げに光を吸い込むほどの色をした黒鉛筆を取ると、老人は隣で画用紙に視線を落とした。「気を付けてください」
そもそも、この鉛筆に色は無いのだと老人は言う。「目に見えるものが全てではありません。あなたが黒と認識しているものは、ほかの人からは黒とは感じられないのかもしれない。それと同じことです。あなたはこの鉛筆の色を黒と認識しているだけのことです。そして私は円滑に事を進めるために黒ということを許容している」
「本当はどんな色なのですか」
「とても言葉では言い表せません。それはこの宇宙が誕生した色よりも濃いのです」
途端に鉛筆を持つ手が震える。私の認識が甘かったのかもしれない。画用紙の上で寝息を立てる生命が、とてつもなく恐ろしい怪物に見える。
「気にしないことです」老人は決して口調を変えることはしない。「穏やかに丁寧に描けばそれでいいのです」
老人の確かな視線を感じながら、色があるはずの鉛筆の先端を画用紙に当てる。柔らかい感触に指先から吸い込まれていくようで、意識を研ぎ澄ます。画用紙に色を加えるが、鉛筆の先端が丸みを帯びることは無く常に尖り続けている。鉛筆も短くなってはいるが、果たして、色をこの世界に留めておくための木材がどこに消えるのかは、理解の範疇を超えている。
満足がいったものか、どうか自分でも分からないが兎に角、もう一つの「それ」を描き出すことが出来た。
先に生まれ落ち眠っていた「それ」が気付いたらしく、短い足で起き上がる。とぼとぼと近づき、太く短い腕を後輩の「それ」に当てた。刺激を受けた後輩は少し前に見たのと同じようにもにょもにょと動き、球形の体から幾つも突起を生やしては引っ込め、腕と脚に足る突起を選び、やがて四つの突起がゆっくりと枝葉が伸びるように体から生えた。「それ」にも影が着き、二次元から三次元へと変化した。
二つの「それ」は互いに見つめ合っているようだった。どこに頭があるのかはさっぱり分からず良い推論の的になり得そうだが、少しの静寂があってから「それ」らは互いに腕を伸ばして触れ合い姿形が自分と同じであることを認識したようだった。ふたつの「それ」は同類を見つけたことに喜び、小躍りを始めていた。
「今日はここまでにしましょう。色鉛筆はちゃんとケースに戻してください」
画用紙上で楽しげに踊っている「それ」らから目線を切り、黒色鉛筆を置いた。すべての色鉛筆がケースに揃っていることを確認し、純白の蓋を閉じる。老人は色鉛筆の詰まったケースに虹色のバンドゴムを通し蓋が開かないようにした。
「帰りましょうか」
立ち上がり、部屋の出入り口に立つ。電灯のスイッチを押すと室内から明かりが消失し、老人の姿が消えた。
「お休みなさい。また明日」
駅構内に出てから振り返ると部屋に鍵の掛かる音がした。人のいない改札にはステラーカイギュウが通った後がまだ残っており、小さな虫が群がっていた。少しの不快感を覚えながら、階段を降ってホームで電車を待つ。無人の売店からアンパンを取って食べていると潮騒が耳に届き、私は顔を上げた。
電車が海面をかき分けてホームにやってきた。私はベンチの上に立ち、波を避ける。電車は私の前で止まり体の横で大きな口を開く。毎度のごとく潮の満ちたホームに靴を濡らしながら電車に乗る。他に乗客はいない。車両の頭では肉塊が呼吸にも似た動きを繰り返していて、それは心臓だと理解し座席に腰掛ける。電車はモーター音を奏でながら動き始め、後ろに遠くなっていく駅に別れ告げると、車両の窓からは輝き続ける月が空に浮かんでいるのが見えた。
しばらく電車に揺られ、トンネルに入る。明るさが消え、私は時間と速さを失う。自分が今どこにいるのかも定かではない。腰とお尻に感じている柔らかさを証明してくれるものは私以外にはいない。私が自身を証明できないのならば、私に伝わる感触など存在しないことになる。
遠くに点が見える。
点は次第に大きくなり輝き始め、私は肉体を取り戻す。電車は速度を落とし地下鉄に到着し、停車するとまた大きな口を開けた。私は電車の歯を避けてホームに降り立つ。元気を失いつつある蛍光灯に照らされた構内に人の気はない。黄土色のタイルが敷かれたホームの途中にエスカレーターがあり、それに乗る。
エスカレーターのモーター音に運ばれて上階を目指す。地下鉄の改札を抜けると、地上へと続く階段が見え、今度はそこを上る。やがて階段を登りきると、地上に出るはずのシャッターは降りていたが驚かない。隣の防火扉を押すと風が流れ込み、絞られた照明の下で暗い色の絨毯の敷かれた、ガラスケースの点在する部屋に足を踏み入れる。ケースの中にはかつて存在していた生物が収められている。
「おかえり」
私を目ざとく見つけたパンツスーツの女性が、煙草の煙を吐き出しながら言う。私はおずおずと頭を下げた。
「どうだった」
「難しい仕事でした」
耳にもかからない程に短い黒髪の女性は高いハイヒールを踏み鳴らし、両開きの扉を蹴飛ばして消えた。私が背の高いガラスケースに触れると、ガラスは柔らかい膜になっては指を通し、腕を通し私を受け入れる。膜を通り抜け、ガラスケースの中で鎮座する磨き抜かれた大理石に腰かける。
尻から伝わってくる感覚に身を委ね体が硬直していく。もう数秒で体の自由を失うが恐怖は無い。目を開いたまま眠りにつく。もちろん起きていることも選べるが、とても長い時間を過ごさないといけないために、私でなくてもガラスケースの住人に起きている者はいない。再び目覚めた時に、体が痛いのだけが難点だった。
翌日、再び訪れた駅の改札を通った先で、部屋の扉から液体が漏れているのが見えた。悪臭が鼻を突き、なおも広がり続ける液体に嫌な顔になってしまうのを止められない。液体には色は無かったが、どこかで見た小虫が群がっていた。ドアノブに手をかけて回すと、ドアの向こうから声が聞こえてきた。
「離れてください」
ドアノブを離し扉から距離を置くと、察したのか部屋の中からドアノブが回される。わずかに扉が開かれ、隙間から液体が溢れだしてきた。扉が液体の重みに負けて開かれ壁に叩きつけられる。液体は部屋から溢れ出し、辺り一面を濡らす。
「困ったことになりました」
部屋の中を覗くと、液体に服をすっかり濡らしてしまった老人が立っていた。彼の傍には何かの毛皮がある。訊ねるまでも無くそれが昨日会った、ステラーカイギュウだと一目でわかった。空気の抜けた風船のようにすっかりしぼんでしまった彼の体には幾つも穴が開いていた。そこから液体が漏れてしまったのだろう。床には大量のご馳走に群がる、数えるのも億劫になるほどの小虫がいた。踏まないように部屋に足を入れる。
「彼は死んでしまったのですか」
「ええ、見てください」
老人に誘われて見た机の上で色鉛筆が散乱していた。さらには驚くことに画用紙の上では文明が出来上がっていた。私が昨日描いたのは立った二人の「それ」なのにもう、文明を作り上げてしまうとは驚くほかにない。呆けたように画用紙上の文明を見ている私の横に老人が立つ。
「どうやら、酔った彼は」老人は言って毛皮になってしまった彼を見る。「勝手に書き足してしまったようです。昨晩のことでしょう。私も眠っていたから気付きませんでした」
「でも、だからと言って一晩でここまで発展するのでしょうか」
「ええ、一晩あれば文明を築きますし、一日あれは戦争で自らを滅ぼすこともします。だから慎重に書き足しては消す作業を繰り返すのです。だが、彼はそれを無視してしまった。書き足すことで加速したように発展していく文明に魅了され、それらの世界に取り込まれ最後には銃殺されてしまったのです」
毛皮の彼の体は小虫に覆われていた。まるで虫の絨毯か何かのようでもあり、それらは残骸も残さずに食べ終えると潮が引くように、部屋から去って行った。
画用紙の上では栄華を極めたのであろう「それ」が築き上げたビルが乱立する。隙間を縫うように無秩序に道路が敷かれ、土地が足りなくなった「それ」らはビルを高くしたのだろう。だが、突然ビルの上から滑らかに鈍く光るクレヨンのようなものが現れ、文明に落ち爆発が起きる。噴煙が瞬く間にビルの隙間を覆い、私の顔に粉塵が降りかかる。破片が辺りに舞い私はスカーフに顔を埋めた。かつてはビルを支えるためだったのだろうコンクリートの柱に身を隠しながら辺りを伺う。
銃声はまだ無い。末恐ろしいほどの静寂に意識を集中させる。爆撃で一度止んだ攻撃がいつまた再開されるかは分からない。次の攻撃が始まるまでにここを去らないといけない。辺りを見回すと人の死体を見つけた。傍に近づいて腰を落とす。手製のヘルメットとプロテクターを装備している。死体が後生大事に抱えていた突撃銃は、一世代昔のものだ。銃を拾いあげ弾倉を確認すると十分とはいかないものの、切り抜けるには十分な数があるようにも思えた。
突如として銃声が連続して鳴り響く。誰かが撃ち始めるとまるで、それが予め決められていた合図のように続く。悲鳴も何も聞こえない。時々、どこかで銃声に混じって爆発音が聞こえてくる。それのせいかは分からないが、隠れる隙間に振動で揺らされた欠片が降りかかる。街の大通りには積み上げられた土嚢と、自動車がいくつも転がっていた。黒く焦げ付き、ひしゃげた車体にはもう役目を果たすことなど、出来ないことを強く思わせた。
覚悟を決め柱の陰から屈めて走り出した瞬間に、私の頭上の空気が貫かれ、足元で火花がはじける。恐怖に足が怯えて止まりそうになるのを意識を捨てて耐える。ただ足を交互に出す単純作業だけを考え、土嚢の陰に飛び込んだ。
息を整えつつ横を見れば、先客がいた。腹を覆っている些末な防弾ベストの隙間が赤く染め上げられている。彼は苦悶の目つきで私を睨む。拳銃を握ってはいるものの銃口を私に向ける力も残されていないようで、ただ力なく土嚢に背中を預けていた。彼の口元を覆うマスクにも染み広がっている。
からん、からん、と冷たい鉄の音が近くで転がった。楕円形に四角い蓋の着いた可愛らしい手製の手りゅう弾が立てた音に目が釘づけられるが、すぐにも瀕死の彼の体を引っ張り、手りゅう弾との間の壁にする。予測していた突発的な衝撃が私たちの体を震わせる。
私の体は叩きつけられ土嚢と彼との体に板挟みになる。爆風をその身に受けた彼は重く私にのしかかった。どうにか下ろすと、彼の体には幾つも破片が突き刺さり、顔が捲れて露わになった歯茎ではもう、歯と破片の区別がつかなくなっていた。
手りゅう弾を投げた連中が確認に来るだろう。名残惜しくも無いが、ここを出なくてはならない。すべきことは追手から距離を取り、見晴らしの利かない場所へと向かうことだけだ。
大通りの障害物に身を隠しながら逃げていると、ビルの入り口が見え、どうにか滑り込んだ。かつてはガラス張りだったのだろうビルのエントランスホールは見るも無残だった。奥にある階段から駆け上がり、二階へと上がる途中で物音が耳に届く。
息を整え、耳を澄ます。親指の付け根で深くグリップを握りしめる。突撃銃のストックを肩に押し付けて、照準器を覗き込みながら一歩ずつ階段を上がる。
二階に上がりかけた時に、装備に身を包んだ男たちが背を向けているのが見えた。躊躇なく狙いを定め、トリガーを絞るように引くと、火薬が爆発し発火炎が花弁を開く。ヘルメットと共に男の頭蓋が吹き飛び、何かしらが吹き出しては、形が欠けたものになる。
銃弾で殴りつけたわけでもないのに、不思議なことに指先には手ごたえがあった。銃口から飛び出した弾丸が相手の肉体を吹き飛ばしたという感覚が、私の指先から伝わり手首を抜け肘を通り、脳内へと到達する。何かしらの物質が分泌され、溢れ出し神経系を昂ぶらせ、照準器を覗き込んだまま、また引き金を引く。
気付いた時には私以外に立っている者はいなかった。出来上がったばかりの死体に近づく。彼らから拳銃を借り、彼らの胴に撃つ。手応えがあっても反応は無い。繰り返していると、彼らから赤い液体がゆっくりと流れては広がった。拳銃を捨てて、また階段を上る。三階では窓だった壁に誰かがうつ伏せのまま倒れている。傍には狙撃銃があり、彼もまた殺されたのだと分かった。
四階、五階と上る。突撃銃を構えながら辺りを探る私の視界の端で、机の陰に隠れて兵士が一人座っていた。彼は私を見ると目を細める。
「あんたあ、見ない顔だな」
「そうですか」
「どこから来た」と訊ねるものの彼は自分で頭を振った。「いや、もうどうだっていいな。もうどこも無いものな。誰も自分がどこから来たのかも証明できない。誰と誰が戦争をしているのか、もう誰も分かっていないのさ。あんたあ、手元に銃が合って相手が銃を持っていたらどうする。撃つだろう、撃つしかないだろう」
男は拳銃から弾倉を抜き取ると、捨てた。銃に残っていた最後の一発を装填する。
「俺は今まで、四回死ぬことに失敗した」
男はヘルメットを捨てた。「元々、持っていた性質が表層に現れただけさ。人間なんてそんなもんだ。一皮めくれば、そこに立っているのは悪魔だよ。わざわざ作り出すまでもない、だってそこにいるんだからさ」
彼は言って自分のこめかみに銃口を当てる。引き金に掛かった彼の人差し指がゆっくりと折れ曲がっていく。乾いた破裂音が響き渡り、目の前の男は俯いた。彼のこめかみからは何も吹き出ない。彼の額を焦げた跡が残っていた。きっと気絶しただけだ。死ぬかあるいは殺されるか、その選択が先延ばしにされただけのことだろう。
彼をそのままにして六階へと上がると耳に、不愉快な音が入り込む。連続して空気を割くような爆音に顔を上げると、高速で回転しているプロペラが目に入った。すぐにも漆黒の機体が現れ、連装銃が私に向けられる。不味いと思った時には私の足はどこともなく、走りだしていた。その私の背後の空間を削るように、鋼鉄の筒から弾丸が吐き出される。
息があがる。乾燥した空気に混じった粉塵が喉だけと言わず、肺を虐める。咽返っては呼吸も怪しくなった私の行く手に傾きかけた扉が見える。そんなことなど知らぬ戦闘ヘリは私がさっきまでいた場所を粉々に打ち砕く。
額に汗が粒になって浮き、後方へ流れる。もつれそうになった足を必死に前に出す。踵の地面が消し飛んだ。バランスを崩しては転がり体勢を取り戻しては、また転がって私の視界は回転を繰り返す。
どうにか傾きかけた扉を捉えた私の両足は思い切りよく扉を蹴飛ばし、部屋に入ると爆音が途端に消えた。仰向けになった私の視界に微笑む老人の顔が映る。体を起こすと、目の前に机と老人の佇む部屋が広がっていた。まだステラーカイギュウの体臭の残る部屋で、何度も全身で呼吸を繰り返す。
「帰ってこれましたね」
老人はまだ立ち上がることの出来ない私を横目に、机の上の画用紙を手に取ると、二つに裂いた。老人は紙をちぎっては細かくしていく。
「この世界は諦めましょう。次は」
「あの」
老人は手を止めてじいっと私を見た。私は初めてこの老人の顔を見たような気がする。深く窪んだ、眼窟から覗く眼は黒と茶色の混ざった色をしている。
「辞めさせてください」
老人は何も言わずに、ただ静かに頷いた。部屋を出て、振り返り扉を閉めようとした瞬間、部屋の明かりが消え老人の姿が消えた。扉を締め切ると、中から鍵の掛けられた音が聞こえる。その音すら恐ろしさを感じては足早に改札を抜け、ホームを下った。私の背後から駅の明かりは消えてゆき、ホームへと続く階段を下りると改札は完全な暗闇に包まれた。
誰もいないはずのホームで電車を待つものの、周囲からは常に視線を感じていた。どこからか銃口が私を狙っているのではないだろうか。今にもレーザーポインターの点がつま先から脛を上がって私の心臓と頭に向けられるのではないだろうか。いつまでたっても来ない電車に苛立ちを覚える。
やっと来た電車が起こした波が、私の膝下を濡らすのも構わずに電車が口を開くのを待つ。ぽっかりと開いた車内に駆けこむように入った私を認めると、電車は私が座らないうちに走り出す。
やがてトンネルに突入した電車から明かりが失われ、私は自分の頬を両手で挟んだ。私に流れているはずの液体が運ぶ温かさこそが私の証明になってくれるはずだった。私は自分の体を抱いて震える。脈を打つ私が私であることを証明するには、何をすればいいのだろうか。
電車が止まっていることに気付いたのは少し経ってからの事だった。車内に地下鉄構内の照明が差し込んでいた。この電車がどこに向かうのかを知らない。慌ててとび降りるが、電車は呑気にも欠伸を掻いているだけだった。恐れ慌てている自身がみっともなく、そして悲しく感じられ、エスカレーターに足早に向かう。段差に運ばれている間も私の思考は、あの部屋だけに支配されていた。何度剥がそうとしてもあの部屋の残像がこびり付いて離れない。他の事を考えても何も思い浮かばない。
私には何も無いのか。
エスカレーターが天辺に到着し降りては、改札を抜け無心に上階を目指す。シャッターの横にある防火扉を抜けると、厳かな室内に出た。
「どうした、恐ろしい顔をして」
煙草の煙が辺りに漂い、女性がお世辞にも行儀の良いとは言えない姿勢で座っていた。彼女は前と同じように黒のパンツスーツだった。長い黒髪を重力に任せるようにしている。
「仕事は辞めました」
女性は何も言わずに煙草を床に押し付ける。木目に着いた焦げ跡は床の模様が捩じってて消した。
「ガラスケースに戻れよ」
女性はそれだけを言うと立ち上がり、背中を見せる。ハイヒールの高く鳴った音だけが室内に聞こえ、女性は部屋の扉を蹴り飛ばして開けると、姿を消した。
ガラスケースの中に入り、純白の長方形に腰かける。だが、眠りにつこうとする私をあの部屋が邪魔をしては目覚めさせる。椅子に座り体は動けない。そのことが却って意識を研ぎ澄まさせてしまう。そうこうしているうちに夜が明け、部屋の扉の鍵が回った。
私は立ち上がり、ガラスケースを飛び出した。
再び地下鉄構内を駆け降り、ホームに立つ。だが電車が何時来るのか知らない。迷っている暇はない。ホームから線路にとび降りると海水が膝を濡らした。私は暗闇のずうっと向こうにあるはずのトンネルの終わりに向かって走り出す。
足が海水に濡れる。濡れた重さに足を取られる。息が上がり、全身に疲れがのしかかる。そのことが寸分の光も足らない中で、私に証明を与える。
潮の音が強くなり、私はとうとうトンネルを抜けた。どこまでも広がる海を前に立ち尽くす。線路を外れれば途端に海の底へ落ちてしまうだろう。
線路から足を踏み外さぬように足を前に出していると、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。物悲しさを纏うその声は、だが私がそう思うのであって、彼らにその意思は無いはずだった。仲間を呼び会話をするための彼らのコミュニケーションは私にはまだ理解できない。正面のから艶めいた藍色の塊が迫ってきていた。
「やあ」
鯨は私を見つけると速度を落とした。
「君の家はこの先だろう。どこに行くのかな。背中に乗るといい。この先では首の無い羊の群れが巡礼者を襲っている。君など一踏みで殺してしまうだろう」
「電車にもちゃんと意味があったのか」
「その通り。君には聞こえていなかったと思うが、電車の泣き声は羊を遠ざける力がある」
「聞こえていなければ、存在しない事と同じだ」
「君の言う通りだ。見えなければ、聞こえなければ無いのと同じだ」
「私には行くべきところがある」
「それは君の勘違いだ。行くべき所など無い。あるのは君が行きたいと思う所だけだ」
「私を連れていってくれ。私はまだ羊に潰される訳にはいかない」
恭しく頭を垂れた彼に、飛び乗った私を冷たく濡れた感触が濡らす。彼は線路を変え「しっかり捕まってくれよ。落ちてしまったら僕も気分が悪い」と駅へと泳ぎだした。
細やかな粒子が迫っては、流れ星のように遥か後方に去っていく。鯨の切る風が私の耳に届き、びょうびょうと音を立てる。粒子の煌めく大海を行く鯨は、さながら銀河を走る鉄道のようだった。
「見えただろう」
駅が待っていた。やや黄ばんだ古い蛍光灯は時折、光を失いながらも誰もいないホームを照らしている。鯨は速度を落としホームに到着する。私は彼の背中から滑り落ちると、ホームに両手を突いて後に、立ち上がる。
「ありがとう」
鯨は瞬きを繰り返すと線路を行き、やがてその体は闇に溶けて見えなくなった。私はホームの階段を駆け上がり改札を抜けて、部屋の入り口に立つ。
「お帰りなさい」
振り返ると、老人が傍に立っていた。私を見て、これ以上ない程に目を細める。私は彼に底知れぬ恐怖を覚えるが、それ以上にあの色鉛筆に憑りつかれていた。
「もう一度、部屋に入れてください」
老人は私にドアノブを持つように促す。ドアノブに手を掛け回す。抵抗は無い。音を立てて扉が開かれる。部屋は去った時とほとんど同じ状態で、違うのは机の上の画用紙が真新しくなっていたことだった。席について、画用紙を見つめる。
「どうぞ」
老人は色鉛筆の収められたケースを置く。ゴムバンドは巻かれていない。蓋を開け、荘厳さすら感じられる色鉛筆の並びから、赤色を手に取り丸を描き、次々に色を変えては丸を書き足す。
最後に黒色の鉛筆を取り画用紙を塗りつぶしていく。ただただ無心に鉛筆を走らせる。画用紙が黒色に満ちる。
「満足は行きましたか」
老人の問いかけに頷いて答える。だが、老人は見ない。書き上げたばかりの黒い世界に視線を注ぐ。世界は黒色に満ち、暗さと無音ばかりが広がるが不安は微塵もない。無重力の間を私は遊泳する。私を阻害するものはいない。
どこへ行こうか。
私の行く末では生まれたばかりの星々が輝いていた。
老人は机の上に広げられたままの絵を丸めて抱えると、明かりを消し部屋を出た。
駅構内は活気に満ち、湿度を多分に孕んだ熱気が老人だけと言わず行き交う人々に纏わりついては、汗を流させる。誰もかれもが手にペットボトルかあるいは、小さなハンケチを持っていた。仕事用の鞄を抱えたワイシャツ姿の男性たちは足早に改札を抜け、帽子を被った薄着の子供たちの肩にかかった鞄からはビニールのイルカの尻尾が覗く。きっとプールに向かうのだろう。
老人は部屋に鍵を掛けて振り返ると、改札に向かって歩きだした。電光掲示板には次に来る電車が分刻みで表示されている。忙しない事だとは思いつつも老人も、その恩恵にあずかっていた。耳に届くありとあらゆる雑音に程よい心地よさを感じつつも、ホームへと続く階段を降る。時折、風が丸めた絵を奪い去ろうと吹き抜ける。
高くのぼった陽を遮る庇の下で、老人は自動販売機の傍にある椅子に腰かけた。蒸し暑さはあるが、それも風が運んで去っていく。ホームには埋め尽くすほどではないが、それなりに人が列を作って次に来る電車を待っていた。
老人は静かに絵を広げる。
「ねえ、ねえ、それはあなたが描いたの」
老人がゆっくりと横を見れば、きっと椅子に飛び乗ったのだろう小さな女の子が眼を輝かせていた。彼女の肩に細い茶色い肩紐が掛かっている。その先には小さな可愛らしい鞄があった。彼女の背後では驚いて目を丸くしてこちらに駆け寄る、恐らくは母親であろう女性がいた。
「いいや、違うよ」
「ふうん。綺麗な絵。宇宙みたい」
「そうだね。すごく綺麗に描けている」
「この絵、どうするの」
「家に帰って飾るつもりだよ」
少女は、そうなんだと言うと後から来た母親に手を引かれ、老人から離れていった。少女が小さく振る手に老人も静かに返す。
やがてアナウンスが響き渡り、電車がやってきた。老人はそれに乗ると、クッションの深い席に腰かける。
窓の向こうには青い空と白雲が広がっていた。
まだまだ暑い日が続きそうだなと思いながらも老人は目を閉じた。