76話北川
北川は、なんだかシックな雰囲気で私の前に立っていた。
帰ったんじゃないのか?
私は、言葉をなくして北川を見た。
「久しぶり…」
と、北川は私に微笑みかけた。
「はぁ…。」
昼に温室で話してから数時間…果たして、久しいと言えるのだろうか?
混乱する私を見て、北川は少し、傷ついた様に目を細めて、握手のために少し、前に出していた右手をひいて、次の瞬間にはビジネスライクな笑い方に変えた。
「失礼しました。私は、北川と申します。
若葉 溶生さんの相談役をしております。」
北川の低く通る声が部屋に広がって行くのを感じた。
その存在感に、私はリアクションを忘れ、秋吉の恐怖を背中で感じた。
この人が……音無 不比等……
そう考えた時、背骨に電気が走った気がした。
音無とは、秋吉の主演するアニメの原作者。
そして、謎の人物である。
「秋吉さん、お弁当はどうでしたか?」
北川は秋吉を見て優しく聞いたが、聞かれた秋吉は熊に好かれるような気持ちなのかもしれない。
「は、はいっ、池上さんと美味しくいただきました。」
妙に滑舌のよい返事に、秋吉の緊張が伝わってきた。
と、同時に、何故、秋吉が私に甲斐甲斐しく食事を運んできたのか理解した。
(毒味をさせたろう?)
私は、秋吉を非難がましく見てから北川に礼を言う。
「ごちそうさまでした。すいません、あれ、私も食べて良かったのでしょうか?」
「勿論です。この辺りにはコンビニなどはありませんから。皆さんの分をご用意しましたので。」
と、北川が説明するのを愛想笑いで受けつつ、果たして、口髭が本物か否かを気にしていた。
何か、さっきと雰囲気が違う気がする。
「なんて美しい…そうは思いませんか?あなた。」
池で北川が言った言葉がよみがえる。
あの時の北川と、今、目の前にいる北川は違う人物のような気がした。
が、幻覚で見た北川なのだから、違って当たり前と言われれば言葉もない。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです。」
と、言いながら、何か、怪しげな薬でも入れられたんじゃないかなんて疑惑が胸にわくのも感じる。
今日は、朝から、変な夢を見たり、池の探検の幻覚を見たり、誰かを…自分も疑いたくなる様な1日だった。
そんな1日で、つけ髭で顔を覆ったオッサンを見たら、理不尽な疑惑がわくのは仕方ない気もする。
気はするけれど、それは心にしまいこんで、冷静に対応しなくては。
「…では、私は、池上さんと書斎にいきます。」
北川の声に我にかえる。
「はい、宜しくお願いします。」
長山が、爽やかに挨拶をかわす。
私は、北川に誘われるまま、その場を離れた。




