67話 ウスバキトンボ
ガイア理論…1960年代に流行した概念だ。
地球自体が大きな生き物で、生物と地球は相互関係にあり、お互いがより良く生きて行けるように自己制御していると言う考え方である。
雅徳さんは、そのガイア理論に独自の仮説を追加していた。
その相互関係の伝達者が昆虫であり、ウイルスである…と言うのだ。
彼は昆虫と細菌、ウイルスをまとめて『蟲』と表現した。
これは、三尸さんしと呼ばれる伝説をもとにしている。
これは、元々は道教から由来した伝説で、人間の体には虫がいて、それらは庚申と呼ばれる日の夜に這い出してきて、神様に宿主の悪さを告発して寿命を縮めると言うのだ。
雅徳さんは、三尸のような役割を細菌やウイルスが担当し、様々な生物間の情報を交換しながら調整をしていると考えていたようだ。
ふと、雅苗の栞を思い出した。
あれが挟まっていた本を思い出した。
子供用の昆虫の本のウスバキトンボのページだった。
おじいちゃまの虫
幼い文字で書かれた言葉が胸に鋭く刺さった。
何か、言い知れない重苦しい感覚と共に、かつてこの部屋でおこったろう情景が思い浮かんだ。
この部屋は、まだ、雅苗の書斎ではなく、机の横の立派な革製の椅子は、雅徳さんを主と認めていた頃。
雅徳さんに抱えられるように座り、あの本に少女の雅苗が文字を書いていた。
おじいちゃまの虫…
空想の雅徳さんは、優しく娘の耳元で囁く。
「そう、雅苗のおじいちゃまは、遠い南の国の土になってしまったけれど、その肉体や魂は、虫たちに受け継がれて世界を回っているんだよ。」
肩の辺りが、邪悪な重苦しさに包まれる。
ウスバキトンボは、中国や東南アジアから飛んでくる。
あの小さな体を極限まで軽量化し、グライダーのように空を泳ぎ……。
深い森の奥で、数多の生物に蝕まれながら、土へと同化し、沈む尊徳先生の屍が見えたような気がした。