38話 水の下
私は、その美しい光景に立ちすくんだ。
苔の生えた落木やシダが透明な泉に沈み、所々で木漏れ日が水面で弾けていた。
妖精がピアノ演奏でもしそうな、穏やかな静寂が辺りを漂っている。
マスクと保護眼鏡が邪魔に感じる。
が、それを外そうと考える自分は間違いだとも理解している。
どんなに澄んだ水だとしても、大地から染み出る水には細菌が繁殖し、そこでの虫や植物が生息しているはずなのだ。
90年代は、入浴施設やジャグジーの普及でレジオネラ菌などの水辺の細菌のプレゼンに付き合わされたことを思い出した。
彼らは幻覚を起こさせ、人間から判断力を欠く。
ふっ…( ̄ー ̄)
ふと、少年時代好きだったの特撮怪奇ものを思い出して失笑する。
確かに、レジオネラは幻覚を誘発する場合があるが、テレビ怪奇もののように数分で人体を蝕んだりは出来ない。潜伏期間がある。
私は、スマホで時刻を確認し、北川から借りたカメラで辺りの写真を写した。
長山は、この池について知っていたのだろうか?
だとしたら、ボートか何かで池を探索している可能性もある。
とりあえず、もう少し泉の写真を撮って帰ろう。
私は、少し歩いて長山の名前を再び呼び、それから写真を撮ると帰ろうとした。
5m先の水面をカメラが顔認証マークを出すまでは。
顔認証のグリーンの四角をズームする。
背筋が氷る感じがした。
私は、反射的に荷物を近くの安全な場所に置き、自分を巻くロープを手繰り寄せ、丈夫そうな杉の木に巻き付ける。
そうして、それが終わると、感情が弾けたように泉に足を踏み入れた。
わりと深い。
泳ぐ。
このとき、私は様々なアウトドアやら、救護講習を受けた事を感謝した。
身に付けていたのは、長袖長ズボンではあるが、軽いナイロン製で、装着したままで何度か泳いだことがあった。
私が水の下に見つけたのは若葉 溶生の顔だった…
ときおさんっ、生きていてくれっ。
水に入るまで、胸騒ぎを抱えながらも冷静な行動をしていたと思っていた。
が、有事の冷静なんて知れている。
スマホで連絡を…なんで、スマホで北川に連絡しなかったのだろう?
私は、自分の事をアンポンタンだと思った。
思いながら、自分の体に縛ったロープの端を近くの杉に固く縛り付けると水面の落木を足場に力まかせに溶生を引っ張りあげた。
男と……抱き合う機会は、女よりあった。
山やアウトドアが趣味であるから、たまに、負傷した仲間を抱えて山道を下ったり、登頂を喜びあったり、体温保持の為だったり、理由は沢山あった。が、今、持ち上げたそれは、私のどんな経験とも違う感覚がした。
ぞくっ…とした。
溶生は冷たく…そして、帆立貝のように固かった。 普通なら、死んでいないかを心配するところだが、私は、考えなかった。
死体の…それは、タンパク質硬化とは全く違う、生物の固さだったからだ。