3話 ヒメバチ*
「アメリカシロヒトリ…。」
私は、この美しい20代の青年のセリフから
戦後GHQと共にアメリカからやって来た蛾を思い浮かべた。
「あれ、刺されたら死ぬんですよね?」
秋吉は顔を歪めて外来種の毛虫を忌み嫌う。
毛虫を好きな人物はなかなか見つけ難いのだが、
それにしたって死ぬとは人聞きが悪い。
幼虫の長い毛は毒が無いのが一般的で毒毛はその奥にある短いもので、個人的にはそれほど危ないと感じたことはない。むしろ、見慣れると可愛いと思う。
それに毒蛾と言われていても毒の無い虫すらいるのだ。
アメリカシロヒトリも毒の程度は低く、
刺されてたまたま皮膚アレルギーをおこすくらいだ。死んだりはしない。
「誰だい?そんな嘘を教えた不届きものは!」
私が少しふざけた感じに非難した。
「ばーちゃん…。」
秋吉は、少しすねた子供のように呟いた。
「あははっ。それは小学生の君を脅かしただけだ。」
秋吉の話を聞いて、小さかった秋吉に甥との思い出を重ねていとおしく感じた。
「笑わなくても…」
「すまん。甥も似たような事を言われていたからね。 柿の木は枝が折れやすくてね、わんぱく盛りの子供が木登りに使うには大人は心配になるんだよ。」
私は懐かしい田舎と妹の子供達を思い出して目を細めた。
そして、アメリカシロヒトリが80年代害虫として騒がれた事を思い出した。
「……そうだ、アメリカシロヒトリはね、昔、大量発生して養蚕農家に打撃を与えたんだ。そう言えば、君もこれから蚕の物語の主演になるのだろ?」
私は自分のシルクのネクタイを思わず触った。
これは虫仲間と富岡に行った時に買ったもので、国産の私のお気に入りだ。
「そのネクタイ、もしかして、富岡町で買ったんですか?」
秋吉は、からかうように私を見た。
「富岡町が咄嗟に出るとは勉強してるね。」
私は嬉しくなって笑った。
群馬県富岡市には、日本初の近代的な機械製糸工場…冨岡製糸工場が重要文化財として指定されている。
2014年に世界遺産に登録された。
秋吉の初主演のアニメ『シルク』は、こうした絹など、
輸出用の製品に向いた動植物を探す学者の怪奇物語だ。
彼の演じる主人公の修二郎は、新種の蚕を求めて全国の山に研究に出掛け、
そうして炭焼き職人の娘に恋をするのだ。
内容的にはロマンティックな怪奇もので、修二郎と似た職種の私からしたら、
修二郎は羨ましいほど恵まれた存在で、私も彼のような仕事が出来たら、
さぞ幸せだろうと思うようなフィクションである。
とは言え、昆虫学者が世間の話題にのぼるのは嬉しいことなので、
秋吉にはぜひ頑張ってもらいたいところだ。
「80年代、アメリカシロヒトリの害に養蚕農家が打撃を受けたって言ったろう?
それが最近はそうでもないんだ。」
「駆除が大成功したのですね。」
秋吉は、少し嬉しそうに目を細める。
私は口角を下げながら、彼の興味をひきそうな困り顔をしてみせる。
「いや、原因は不明なんだ。」
そう、80年代大量発生したアメリカシロヒトリは自然と個体数を減らしたのだ。
「原因不明……?」
秋吉は、不安げに私を見つめて呟いた。
私は、その美しく真剣な面差しに非現実を感じてつい笑ってしまう。
普通、害虫が勝手に減ってくれれば喜ぶものだ。
殺虫剤の仕事をしていたとはいえ、害虫が自然に適量まで淘汰されるのを悪く思ったりしない。
減りすぎるのは薬害を想像させて問題にはなるが大量発生が収まった原因に、いちいちドラマ仕立ての困り顔なんて私の知り合いはしない。
「心配しなくても…、自然淘汰だと思うよ。鳥類の餌になったのか寄生バチにやられたか……。」
「寄生バチ?」
私の軽口に秋吉が食いついてきて、私は不意をつかれたように困惑した。
「……。ああ、寄生バチ、ヒメバチやマユコバチの事なんだが。」
そこで一度言葉を切った。
ヒメバチやマユコバチと聞いて、「ああ、あれですね。」と、軽快に返事を返してくれる人間は少ない。
なんと説明しようか悩みながら、ふと、今日見た夢を思い出した。
「……さん?池上さん?!」
秋吉に呼ばれて私は物思いからさめた。
「ああ、ごめん。」
「どうしました?朝が早くて眠くなりましたか?」
秋吉が面白そうに私に笑いかけ、私もばつの悪さを隠すように苦笑した。
「そうかな?今日、夢見が悪かったから。」
私の言い訳を秋吉は少し心配そうに見つめた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまん。なんだっけ…ああ、狩バチの話をするんだったな。」
私は慌てて話を戻そうとした。
「え?寄生バチ…じゃないの?」
秋吉に言われて私は少しあせる。
「ああ、ごめん。寄生バチの話だったね。寄生バチも狩バチも、基本、他の生物、
この場合、子供の為の生き餌に産卵する蜂の事なんだ。違いは、狩バチは捕食した動物を運ぶが、寄生バチは自ら運ぶことはない。」
私は簡単な説明をしながら、旧姓 北宮雅苗、
私の好きだったアーティスト若葉溶生の妻で、
尊敬する生物学者の孫でもある女性をを思い返していた。