2話 出発*
約束は最寄り駅で4時。
いわゆる『ロケバス』と言うものを期待していたが、
10分遅れてやってきたのは、一般的な7人乗りのワゴンだった。
運転席側から、鍛えられた細身の今風の男がやってくる。
「おはようございます。今日は宜しくお願いします。」
私は出てきた若い男に挨拶をした。
「おはようございます。池上 さんですね?長山です。本日は宜しく。」
長山と名乗った20代後半くらいの男は迷彩柄の作業服姿で、
気さくにポケットから名刺入れを取り出すと一枚渡してくれた。
「ご丁寧にありがとうございます。」
私が名刺をもらう。総合アドバイザーとは監督のようなものだろうか?
最近の役職に戸惑っていると、
ー後部席の引き戸が開いて長身の目鼻立ちの整った若い男が声をかけてきた。
秋吉 相太、私の同僚だった男だ。
「長山さん、透也さん、早く乗ってくださいよ。
早くしないと渋滞にまきこまれますからね。」
「それにしても…、透也さん、キメてきましたね。」
秋吉は脚線美がはえるスエットに、生地の高そうなボーダーのTシャツ、
上品な長袖のシャツを合わせた、なんとなく格好よい姿で私をからかう。
「お前さんに言われてもなぁ……。」
私は車が高速道路のトンネルに入るのを見ながら少し呆れて言った。
役者の秋吉は抜群のプロポーションだからスエットなんかでも上品に見えるが、
アチコチ緩んできている私が、同じような格好をしたら貧相さが増すだけだ。
スエットなんて部屋着として着るもので、公の場所でする格好では無いと考えていたのだが、通販などの雑誌のモデルもした事のある人間が着ると、スーツ姿の私より格好いいと感じるのだから呆れてしまう。
「十分、漢前ですよ。」
秋吉が、からかうように私を見た。
「男前って……。ああ、どうせ私はスーツなんて似合わないよ。 普段は段ボールを運んだり、組み立て作業をしているんだから。 派遣会社の人だって困惑していたぞ。社長から直に電話が来たくらいだ。」
私は仲間内だけの冗談のように大袈裟な困った顔をする。
私の登録する派遣会社は中堅でそれほど社員はいないから社長も即戦力で現場で働いている。
とはいえ、社長が仕事のオファーをしてくるのは珍しいことだ。
「それにしても…その格好だと少し、動きづらいかもしれませんね。」
秋吉は私のスーツ姿を珍しげに、それもなんだか嬉しそうに眺めながら言う。
「勿論、着替えは持ってきているよ。昆虫に関しての仕事って聞いたからね。
それなら草はらや小川に行くと考えるのが普通だ。現地についたら着替えるよ。」
私がそう言うと、秋吉は少しつまらなそうな顔をした。
「えー。着替えちゃうんですかぁ。その格好でいいじゃないですか。
別に、草はらや小川にはいきませんから。それになんだか、透也さんのスーツ姿癒される。理科の山田先生を思い出します。」
秋吉は懐かしいものでも見るように私を見た。
その視線が私の靴にあるのに気がついて私は少しギョッとした。スニーカーを履いてきたのだ。
「靴!外仕事だと思ったから…やってしまったなぁ。」
私は靴に頭が回らなかったことに気がついて赤面した。
スーツにスニーカーなんて、確かに学校の先生のようだ。
私は製薬会社で殺虫剤の研究をしていた。
たまの出張も外がメインで、スーツであってもスニーカーなどの動きやすいもので通してきた。
それについて誰も気にしてなかったので、それが当たり前になっていた。
私の職業経験から言えば、むしろ長靴持参に評価されたくらいだったのだ。
なんだか少し恥ずかしいなぁ。
私は片目をつぶって自分の失敗を反省し、ここで秋吉へのお土産を思い出してリュックサックを開ける。
「そうだ私が呼ばれたから外での仕事だと思ってね。殺虫剤と忌避剤の良いやつを持ってきたよ。」
私は小袋に入れた携帯用のスプレーや軟膏を秋吉に渡す。
「今日は使わなくても、これから、外でのロケとかに使ってください。」
「あ、ありがとうございます。」
突然ものを貰って秋吉は少し驚いて品物を受け取り、邪気の無い笑顔をくれた。
「それにしても…、凄いですね。こんなに…、あっ、池上ブランドの虫除けスプレーだ。この匂い、好きなんですよ。ありがとうございます。」
秋吉は、私の渡した忌避剤を手にそう言うと、心配そうにこう聞いてきた。
「これから、林に囲まれた別荘に行くんですけど、 どんな虫がいるんですかね?」
「そうだな…。」
私はここで一度言葉を区切った。
この場合、虫と言ってもカブトムシやら蝶の話ではない。蚊や毒虫の類いの事を聞いているのだろう。
私は一瞬、言葉を選ぶ。
秋吉だけではなく、最近の若者は虫と遊ぶ機会が減った分、名前を聞くだけで嫌がる人間もいる。
セミやてんとう虫も触れないとか言われると、なんだか、悲しい気持ちになったりするのだが、
それも時代の流れと言うやつだ。
「今年は暑くなるのが早かったから、もう蚊が発生しているかもしれないし、
ダニも心配だね。蛾の幼虫もそろそろ出始めるかな。」
蛾の幼虫と聞いて、秋吉は眉を潜めた。
ほりの深い顔立ちに、一瞬、憂いが宿って何やら世界の難しい難問に挑戦する王子と言った雰囲気が漂い、その深刻さに笑いが込み上げてくる。
「それって、毛虫の事ですよね?」
「正解。」
私はわざとおどけて先生のように答えてみたが、秋吉は笑わなかった。
笑うどころか、益々、深刻な顔つきになりながら心配そうに、こう続けたのだ。
「それって…アメリカシロヒトリの事ですか?」