1話 特別な仕事*
目が覚めた。
天井に反射する街灯の淡い光を見つめながら、夢見の悪さで倦怠感に襲われる。
暑い。確かに昨日の天気予報では7月中旬の暑さになるとか言ってたが………
今は6月、まだ深夜3時だぞ。
最近の定まらない天気にぼやきながら布団で暴れていると、
私は頭が汗で濡れているのに気がついた。
シャワーを浴びた方がいいな。私は転がるようにベットを抜け出した。
私の名前は池上透也
年配の独身、独り暮らしの日雇い派遣社員。
とはいえ、早期退社したので、わりとゆとりのある生活をさせてもらっている。
50代独身、自称・派遣社員。この肩書きになるまでには紆余曲折してきている。
よく、負組、勝組とか人の人生を分けて表現されるが、
私の場合は、どちらにも属さない気がする。
現在、私は都内K区の知り合いの一軒家を安く借りている。
この家賃の差額で考えても、目減りした分を充分補填してるだろう。
と、言っても日雇いの作業員。
家賃10万の家に住もうが、二万円のアパート暮らしだろうと、
実入りが減った分、つましく…エアコンも使わないように心がけている。
が、今回は、特別の仕事なので少し自分への対応も良い。
エアコンで部屋を快適な温度に調整し、
起きたら、お風呂へ入り、身なりを整え、
前日から用意したスーツに久しぶりに袖を通した。
日頃の立ち仕事のお陰で、ズボンは現役時代より腹回りにゆとりが出来たが、
久しぶりのネクタイは窮屈に感じた。
同じ日勤でも…虫関係の仕事と言われると、張り切ってしまうな。
鏡の顔に浮かれる自分を見つけて戒いましめる。
そう、仕事内容に上下なんてない。
時給の違いはあっても。どちらも、一日を繋いでくれる大切な仕事なのだ。
しかし……そうは言っても、好きな職種。好きな地域に行けるとなれば、
やはり楽しくなる気持ちを押さえるのは難しい。
身なりを整えると、この家の前の主
人生の先輩であり、虫仲間の勝山 隆さんの位牌に挨拶をする。
65才で亡くなった勝山さんは、
この家にある全ての虫の資料と標本を私に遺してくれた。
学問とは無縁の、商売の道を選んだ息子さんは海外に住んでいて、
三回忌までこの家に私がほぼ無料で住むと言う遺言を快く同意してくれた。
それは早期退職と言う突然の人生の岐路に混乱する私に、
新しい人生を選ぶ時間と勇気をくれたのだった。
線香に火を灯し、水とご飯を供えて拝むと、
次は、私の食事に取りかかる。
とは言え、独り身の気軽さだ。
近所の奥さんから頂いた佃煮をオカズに軽くご飯を腹にためると、
さっさと食事を終わらせる。
洋子さん、佃煮をうまかったです。
私は、心の中で町会長の奥さんに佃煮のお礼を言いながら茶碗を洗った。
私の家の近くの住職も虫仲間で勝山さんを通じて、昔からこの近所の人たちと私の仲は良好だ。仕事が無いときは寺やら家で子供たちに勉強を教えたり、町内行事を手伝ったりしているので、小さな差し入れを度々貰うのだ。
いつももらってばかりだが、今回の仕事が終わったら、土産を買って渡そうと私は、気持ちよく食器をしまう。
今日の仕事現場は信州のとある場所。
虫の研究を続ける私にとって、山の多いあの辺りは、これからの季節、訪ねるのが楽しい場所でもある。
アウトドアも好きな私には、思い出も多いところであるが、今朝は、なんとなく気持ちが沈む。
それは、やはり、朝のあのリアルな夢のせいかもしれない。
私の好きな歌手の若葉 溶生さんの妻、雅苗さんが7年前の今日、突然、屋敷から失踪をしたのだった。
あれから、雅苗さんがどうなったのかは誰にも分からない。
私は、今朝の嫌な夢を思い出した。
温室の大輪の花の横に埋められた女性。
土から飛び出した左腕にはリングが輝く。
彼女は生き埋めにされている。
私の夢では、アオムシサムライムシコバチが、そう暗示していた。
いけない。
私は、暗い方向に向かう考えを振り払う。
そう、これから仕事なのだ。
テレビ製作会社から、私が指名された仕事。
この仕事には、派遣の仲間が居る。
秋吉 相太
最近、人気の声優である。
日頃の単純作業で知りあった彼は、やっと本業のチャンスを手にしたのだ。
声優を目指す彼は深夜アニメの主役に抜擢されたのだ。
今回の企画もその宣伝を兼ねていると社長から聞いた。
私は、彼が輝けるよう撮影の裏方をやる。
私は、手で両頬を軽く叩いて気合いをいれた。
人生の秋を迎えた私に、また別の、
華やかな人生の紅葉期がやって来るような、そんな期待が胸にせまる。
約束は最寄り駅で4時。コーヒーを飲んでから出掛けよう。