171話すいへいでんぱ
静かだった。
初夏だと言うのに、虫の声がしない。
まあ、私も、普通ではないのだが。
月明かりの中、私は雅苗と歩いていた。
昭和の漫画のような、荒唐無稽な話を聞きながら。
「その話…小説なら面白いのでしょうが…、さすがに論文にはならないでしょうね。」
私は『論文』の単語に、自分の気持ちを現実を引き戻す。
そう、アメリカの掲示板に投稿された謎。
都市伝説化したそんなものに感化されている場合ではない。
そんな私の横で、雅苗は月を見ていた。
「論文…もう、そんなもの、私には関係ありませんわ。」
雅苗は寂しそうに月に呟く。
「何を…あなたは助教授じゃありませんか。
この謎を報告すれば、また、学会の…光の差す場所に戻れますよ。」
私は自分の現状が頭をかすめて複雑な気持ちで励ました。
雅苗は振り返り、一呼吸おいて話始めた。
「1922年…この年は、ツタンカーメン王の発見だけでは無かったのをご存じですか?」
「いえ…しりません。」
「この年、レオナルド・ウーリー卿によってウルの…シュメールの発掘がされています。
これによって新たな王墓が発見されるのです。」
「それが、なんだと言うのですか?」
「ウル王朝は、洪水などの環境の変化により、紀元前3800年頃に衰退を始めました。
そして、新時代をリードし始めたのがエジプトなのです。」
雅苗の言葉をボンヤリと聞いていた。
確かに、ウル王朝が衰退し、新たに繁栄するエジプトのファラオとなったのが、アメンヘテプ王なのだろうが、同じ時代だからって、混ぜ合わせるのは強引だ。
寧ろ、時代により発達した発掘技術あったから、たまたま2つの遺跡が見つかったと考える方が正しい気がする。
「このとき、衰退するメソポタミアから、エジプトに逃れた人たちが大勢いたはずです。
人が動けば、寄生虫も動きます。
ウルで目覚めた『ナニか』は、欠けた情報を欲した。と、考えたのですわ。」
「何か、が、ですか?」
「はい、水平伝播による持ち去られた記憶の収集を試みたのだと思うのです。」
水平伝播…なんと香ばしい言葉を、ここで持ってくるのだろうか!
私は長い悪夢の快楽に酔うように雅苗の話に惹き付けられる。
水平伝播とは、平たく言えば、細菌やウイルスが、分割して特殊な遺伝情報を持ち、それをやり取りする事だ。
生物学者の我々が、虫の行動を確認するために天文学者に星の動きを聞いたり、逆に地質学者に発掘された昆虫から、当時の環境についての予測してあげたり…
そんなやり取りのようなものを細菌たちもしているのだ。
RNAウイルスなどが、遺伝情報を転写することなどでやり取りをする。
中原 英臣先生が唱えた説で、生物はウイルスによって進化をしという『ウイルス進化説』を思い出した。
学生時代は、オカルト風味に聞こえたこの説も、
O-157の出現の時には、普通にあり得る気持ちになっていた。
O-157は、水平伝播によってベロ毒素の生産方法を獲得したのだ。
そうして、現在、随分と細菌に遅れをとりながら、我々人類も遺伝子治療の技術を確立しようとしていた。