159話そして、いなくなる
あ・り・が・と・う
レイは私に微笑んでから、北川を見つめると、タバコの煙を吐き出すように、優雅に深く、北川の顔をめがけて息を吹き掛けた。
それから、脱力したように目を閉じた。
息を吹き掛けられた北川は、時が止まったように動かない。
そんな北川に最上の笑顔を見せながら、草柳レイはオレンジの光のような淡い両腕を上げ、両手で北川の両頬を包み込む。
その両手が北川の頬に触れた瞬間、オレンジの光の粒子がはじけ、北川の頭を包み込む。
あれが…麻酔か、細菌なのだろうか?
私は、狩り蜂を思い出していた。
彼女たちは2度、青虫を刺す。
一度目は、麻痺のために。二度目は正確に獲物を支配するための一刺しを。
草柳レイもまた、一度麻痺をさせ、正確に北川の神経系を乗っ取ろうと考えているのだろうか?
興味はあったが、自分も金縛り状態に陥り、何も出来ない。
レイは、勝ち誇ったように微笑んで、『輪廻円舞曲』を歌った。
それは私が学生時代に聞いていたバージョンだった。
一瞬、輝く光の世界が見えたような気がした。
270度、光が躍るカラフルな空に圧倒される。
それは、無重力の浮遊感と風を感じる自由な世界。 数多の青…白に極めて近い青空に、星のように小さなチリや虫が躍り、温かな赤みを含んだ青が眼下に広がる。
胸がときめき、複数の言葉が流れる。
「素敵でしょ?大海に飛び立つトンボの視界よ。
現在の人間の脳では…全ては処理できないけれど… 命をかけたくなる青よね。」
レイは北川に微笑んだ。
キラキラと七色に輝く世界を、それがウスバキトンボの大空飛行の視点ではないかと予感した。
勿論、複眼をもつ彼らの視界を人間は認識することは不可能だ。
人が赤、青、黄色の三色を認識して世界を見ているのに対して、彼らの複眼は、その10倍以上の『いろ』を見分けているのだ。
その中には、人には見ることの叶わない紫外線も含まれる。
彼らの世界を理解など、到底できないわけだが、現在、私が思い描くその光景は、私が、トンボの複眼に想像を巡らせたものを可視化したものに近いと感じた。
「そうですね…では、私も、青虫のように、狩蜂に操られるのでしょうか。」
私は、幻想の女に呟いた。
幻の女はオレンジに輝きながら私に謎の笑みを向ける。
音の消えた世界で、草柳レイの甘い声だけが聞こえた。
「さあ…私を抱いて連れていって…あの方の待つ温室に。」
レイは花嫁が新床へ誘うような甘い声で北川に言った。
北川は無言でレイを抱き上げる。
なんだか、軽々と…ゆかないのは…やはり、本体が長山だからなのだろうか?
それとも…北川がお姫様だっこに慣れていないだけなのか?
北川は少し、混乱したが、すぐにコツを理解して上手く持ち上げた。
私は、助けたかったが動けない。
北川はレイに肩を貸して歩いたが、しばらくすると、思い付いたように凄い力でレイを背に担いで歩き始めた。
それは…まるで、急に相手の軽さを認識したようなそんなしぐさだった…
そして…池の近くには私以外誰もいなくなった…




