15話 スカラベ
混乱する頭を落ち着かせようと私はコーヒーを口にした。
1970年に日本にやって来たスカラベのミイラ?
そんなものが存在するのだろうか?
しかも、10センチは有りそうな丸々とした糞ころがし…
私はあまりの違和感にドッキリ番組を連想し、部屋を見渡して隠しカメラを探そうとした。
「1960年…この年、エジプトではアスワンハイダムの建設計画の浮上で、居住地から遺跡まで水没の危機にありました。」
長山は静かにそう言った。
「アスワンハイダム……。」
私は呟いて、長山の言葉を待つ。
アスワンハイダムとは20世紀の初頭から構想されたダム計画で、
諸事情によって、長い年月、完成することはなかった。
その計画が動き出すのが、1960年。
これによって水没が予想された遺跡がある。
私でも知っている有名どころでは、
アブ・シンベル神殿
フィラエ島のイシス神殿がある。
「そうです。ここからの話は、2010年、再会した雅苗さんから聞いた、ある意味トンデモ話なのですが…」
長山は少し気恥ずかしそうに一度言葉を切って、それから、続きを話始めた。
「雅苗さんは、それをお爺さんに貰ったと言いました。」
「北宮尊徳先生だね。」
私は思わずそう言った。
雅苗の父方の祖父、尊徳先生は、昆虫、特に、ハエの研究で功績をあげた方だ。
世界中から害虫認定されるこの虫は、ウイルスを媒介し、食品を汚染する嫌われもので、それ故に、日本でも、公衆衛生や道の整備が未発達の時代は、ハエの生体や駆除についての研究が熱心に行われてきた、と、聞いている。
日本が近代化し、土の道が減り、ハエの発生が少なくなると、この研究をする学者も減ってきたのだそうだが、
尊徳先生はハエの研究をライフワークとして、東南アジアなど、道や公衆衛生の未発達な地域にも積極的に向かい、
地域の公衆衛生や上下水道の整備などに尽力された人物だ。
殺虫剤の研究をしていた私には、尊徳先生は尊敬すべき師であり、憧れの人物の一人である。
「そうです。1970年、大阪万博に伴い、世界各国から学者や文化人、政治家がやって来たそうで、尊徳先生の家にも、そんな人物が宿泊のお世話になったりしたそうなのです。」
長山が嬉しそうに話すのを、私も楽しく聞き入っていた。
「当時、東西の冷戦の影響で、現在のように自在に個人が世界を旅することは出来なかったそうで、
けれど、アジア初の万博博覧会と言うことで77国が参加し、そこにはソビエトなど、社会主義の国の名前も並びました。
エジプトは、アラブ連邦として参加をし、
ピラミッドやアブ・シンベル宮殿の模型などを展示したそうです。
私も、又聞きで、正確とは言えないかもしれませんが、雅苗さんがお爺さんに聞いた話を総合すると、そんな話になるのです。
そして、万博の期間中に、日本を良く知ってもらおうと、接待も兼ねて北宮家の方々も外国の学者や政治家を屋敷に招いたらしいのです。そこで、お礼にこのスカラベのミイラを貰ったのだと聞きました。」
長山は話を思い出しながらゆっくりと話し、
私は、奇想天外な話に困惑した。
「いや、しかし、そんな事、本当に出来ますかね?
本物の、スカラベのミイラですよ?
まずは、空港で税関に引っ掛かるでしょ?生物体なのだし。」
私は、あまりにもとんでもない話に思わず叫んだ。
そんな失礼な私に、長山は共感しながら頷く。
「です、よね。だから、北宮家の方々もエジプトのお土産だと思ったらしいのです。
スカラベは、王のミイラの心臓の代わりに入れられる事もある、お守りとして有名なものですし、何しろ、スカラベにしては大きすぎます。そんな所からも作り物だと思ったのでしょう。」
長山はそう言って、頭の整理をするようにコーヒーを口にし、更に話し続ける。
「北宮尊徳先生は、民芸品の様なものとして、このスカラベを貰ったようなのです。そして、尊徳先生が亡くなると、雅苗さんがそれを受け継いだのだそうです。2010年、再開した雅苗さんは、私にそんな話をしてくれたのです。彼女は真剣だったのに、私は、SF小説でも聞いているように信じていなかった。」
長山は渋い顔をした。
それを見て、私は、なんとなく、長山は雅苗の事を好きなのではないかと思った。
「それを私が探す、と、言うわけですか。」
私は少し困惑した。
「そうです。何か、心配な事でもありますか?」
長山が私の顔をみて不思議そうにきく。
「はい。確かに、私は生きている虫を探すのは、一般人より上手だとは思います。
でも、女性が隠したスカラベのミイラとなると、オオクワガタを山で探すようにはいきませんよ。」
自然に眉が寄って、難しい顔になるのが分かった。
死んでしまった虫の隠し場所なんて、どうしたら良いのか、想像がつかなかった。
もし、雅苗がそれを持ったまま失踪していたとしたら……。
私は、今朝の夢の土に埋まった女性の指を思い出した。
古代エジプトでは、ミイラにする際に取り除いた心臓の部分にスカラベを入れたと聞いたことがある。
スカラベを胸に差し込まれた雅苗の遺体を想像し、私は背中に冷たいものを感じて身震いをした。