150話 お引越し
月明かりの下で、しかし、私は、昼間のように視界に不自由はしなかった。
人は一万色を見分け、そして、臭覚も本来は犬並みに優れているのだ。
アメリカのラトガース大学の神経科学者マクガン氏が、人間は1兆もの臭いをかぎ分けることが可能なのだと2017年に発表した。
しかし、一般生活において、あまりにも過敏な臭覚は、生活に支障をきたす。
だから、人間の臭覚は、安全な臭いにすぐ『慣れ』る。
そうして、平和な世界で、その臭覚は鈍くなる。
現在、私の臭覚は、最大限まで鋭くなっている。
遥か、遠くのチューベローズの甘い香りを間近で感じるように、世界の様々な事柄が見える気がした。
大気とは…まさに、微細な香りと物質の…情報の流れだと悟った。
それは、昔見た、インターネットの世界に迷い混む…そんな映画を思い起こさせた。
キイロショウジョウバエは、臭いでガン細胞を識別出来る…と、聞いたことがあるが、今の私にも出来るかもしれない……
そう…まさに、今、私は、昆虫と同じ感覚を味わっているのだ。
体、全体から送られてくる情報量の膨大さに驚きながら、歓喜と興奮の中、私は踊るように行進した。
躍りながら、私は、淀み始めた空気の中に、昔の記憶を垣間見る…
それは、100年にわたる、生物たちの歴史…
産業革命による公害、爆弾や、ミサイルなどの大量破壊兵器の登場。
生息域を奪われ始めた小さな生物は、その生息域を、大量に存在するものに対応できるように変異を繰り返す。
それは、コレラであり、
スペイン風邪と呼ばれた、流感であった。
スペイン風邪は、爆発的に増殖し、人々を感染させた。
交通の進化により、ウイルスは、広く拡散し、人類はなすすべもなく、その最悪と向き合うことになる。
1919年…そんな、陰鬱な社会状況の中で、発表されたのが、西条八十の『トミノの地獄』である。
この詩について、作者である八十は、言及はしなかった。
故に、様々な想像を呼び、音読すると不幸になると言う都市伝説まで登場することになる。
「若葉さん…素敵な声ですよね?」
レイは、ウットリと私に話しかける。
「そうですね、怪しげな都市伝説など、吹き飛ばすようです。」
私も、その声に胸をときめかす。
「音読すると、不幸になる…でしたかしら?」
レイは、そう言って苦笑する。
「スペイン風邪が流行した時代背景でしょうか?」
私は、遠い昔に思いを馳せる。
そんな私を見つめていたレイは、いたずらっ子のように肩をすくめて笑う。
「人間は、それが始まりだと…考えてるけれど…逆なのですわ。」
レイは、両手を空に放つようにあげて楽しそうに月を見る。
「あれは…完結。汚れ、荒れ果てた住みかから、快適な寄生先への…お引っ越し。」
レイの言葉が、月明かりにこだました。